3 Le chaos  大混乱

パリの高級ホテルでも最高の立地に立つ5つ星ホテルの一室で、ディーンは取引相手であるドイツ人の男と握手わ交わす。

今日会うことになったのは、次回の取引に関することだ。

互いに不利益が生じたこともあって交渉は難航していたが、それもトップが顔を突き合わせて折り合いをつけたことで無事合意に達した。


「ところで、彼はどこだ? 今回はエスメラルダを同行していると聞いていたのだが?」

薄茶で短髪の細身の男はやや尖り気味な顎に手を置き、その視線をまっすぐにディーンへと向ける。

年の頃はディーンより5つほど上のヘーゼルの瞳に、ディーンは青みが強まった紫の瞳を向けた。

その端正な顔に、あからさまな不快感が滲む。

「それはもしかして、ウチの財務アドバイザーのことを言っているのか? だったら、お前に会わせる必要はないし、その気もない。それより、エスメラルダとは何だ。そんな妙なあだ名を誰が付けた? まさかお前か、カイザー」

凄みのあるバリトンボイスに、カイザーと呼ばれた男は小さなため息をつく。

「私がそんな真似をする訳ないだろう」と、まるで心外とばかりに前置きし、自身のスマホをディーンへと放る。

ディーンが画面を見れば、柔らかく微笑む蓮の顔が写っている。

背景を見れば、イタリア、シチリア島のカターニャで訪れたレストランの内装とよく似ていた。

そして文面には、「魔王のアンタッチャブル。麗しきエスメラルダだよ」と、短い文章が綴られている。

エスメラルダとは、エメラルドをスペイン語にしたものだ。女性の名前に付けられる事もある。


南欧州を統括する男が差出人であることを確認し、ディーンは無言でスマホをカイザーへと放り返し、踵を返した。

そして、観音開きのドアの前に立ち、振り返る。

「あいつをその名で呼ぶことは許さんぞ。他の奴らにも言っておけ」

だが、不機嫌丸出しの命令口調に、カイザーは再びため息を漏らした。

「君は、彼の名が不用意に裏社会に出回らないよう、部下に彼の名を呼ぶことを禁止していると聞いた。故に我々も気を使ってみたつもりなのだが」

そして、ヘーゼルの瞳に意味ありげな光が灯る。

「もっとも、君自身は盛大にファーストネームで呼んでいるらしいが」

その嫌味にディーンは目を細めた。

「だからといって、お前達には関係ない。俺は、蓮をこちらのビジネスに関わらせるつもりはない。勝手な真似をしたら……」


その怒りを孕んだ言葉が止まったのは、カイザーの手にあるスマホが振動を始めたからだ。

そして、一拍置いてディーンの内ポケットにあるスマホも振動を始める。

だが、それは異例の事だ。

トップ会談の最中にコールすることは、余程の急用でない限りそれぞれ部下たちには禁止している。

ということは、余程の急用なのだ。


二人同時のコールに嫌な予感を抱きつつ、それぞれが通話ボタンを押した。


カイザーの耳に、秘書の慌てた声が報告する。

「積荷の数が、受け渡しの時と合いません」

その良からぬ報告に、カイザーは細い眉をしかめた。

「東駅での積み込み作業は終わったのか?」

「はい。ですが、その積み込み終了後の確認作業で発覚しました」


一方、ディーンの耳には、ジャクソンの切羽詰まった声が響く。

「ブリッツェン・エクスプレスが、突然東駅を発車した……ました! 乗務員達の話では、武器を持った男たちに、無理やり列車を降ろされたと言っている」

すかさず、バリトンボイスが声を荒げて命令する。

「それには蓮が乗っている。東駅からどこに向かっているか、今すぐ後を追え。絶対に見失うな」


そして、双方は共通するキーワードに、思わず顔を見合わせた。

――パリ、東駅。


「そっちの詳細を聞かせてもらおう。だが、それは車の中でだ。東駅に向かうぞ」

一段と低く響くバリトンボイスに、細身の紳士は厳しい表情を向けて頷いた。


・・・

「……もういいよね」

「今のところは、……ですが」


ブリッツェン・エクスプレス。

デラックスツインの狭すぎるクローゼットから顔を出した白人の男は、アンバーな瞳をレストルームへと向けた。その視線の先には、洗面所の木製のドアを僅かに開けて伺い見る、エメラルドの瞳が輝いている。


物音を立てないように注意しながら、2人はそろりと隠れ場所から姿を現した。

そして顔を見合わせる。

「どうして列車が動き出したんでしょう?」

「そんなの、俺が知る訳ないでしょ」

薄茶の癖の強い髪の男が、肩をすくめて見せる。

唐突にディーンと蓮のデラックスツインの部屋に現れたカエサルは、苦笑いを浮かべて答えた。



10分ほど前。

「誰です? どうやって、この部屋に入りました?」

突然私室に現れた男に向けて、警戒感を露わにして問いかけた蓮に、男はアンバーな瞳を向けて肩をすくめて見せた。

最初にイメージしたのは、カフェオレ色をした上品な薔薇。

柔和な笑みと、ふわふわとした柔らかそうな巻き毛が、そんな印象を与える。

キャメル色の上質そうなピーコートに、ホワイトパンツを合わせ、ネイビーのシャツの襟元を柔らかそうなカシミアのブラウンのストールが飾る。

「そんなの簡単だよ。カードキーを偽造したんだ。この手のキーはね、車掌達が持つマスターキーを偽造できれば、どの部屋でも簡単に開けられるんだよ。セキュリティは甘すぎるね、この列車」

そして、蓮の持つブリッツェン・エクスプレスのカードキーと同じ柄のカードを、二本の指でつまんで軽く振って示す。

「それで? 貴方の目的は何です? ――彼ですか?」

だが、硬い声で問いただした答えは、蓮にとっては意外なものだった。

「違うよ。君が珍しく単独行動をとったから、好奇心に負けて乗り込んじゃったんだ」

そして、アンバーの瞳に光が灯る。

「俺が会いたかったのは、君だよ。――エスメラルダ」


その呼び名に、思わず周囲をキョロキョロと見回して誰もいない事を確認すると、蓮は言葉を選びつつ、再び問いただす。その声には、不機嫌な色が混じる。

「もしかして、その名前ってオレの事を言っています?」

エスメラルダは、スペイン語でエメラルドの宝石を指す言葉だが、スペインでは女性の名でもある。

成人男性が女性名のニックネームを与えられて、気分を害するのは当然だ。

だが、目の前の男は飄々と、蓮の抱いた不快な感情を無視する。

「ミスター コールドの秘宝に相応しい名だと思わないかい? おかげで、なかなかセンスがある命名だと、普段はつれない奴らからも褒められたよ」

「全然、思いません。金輪際、その名で呼ばないで……」と、彼の言葉にさらに文句を言いかけ、蓮は現実に戻る。今は、ニックネームについて議論している場合ではない。

「もう一度お聞きします。貴方は誰ですか?」

慎重なもの言いに、男は右肩を僅かにひょいと上げて答えた。

「俺はカエサル。君の、おっかないオーナーの取引相手さ」

そして柔らかな笑みを湛えて、蓮へと近づく。

それは、最大集中で警戒している者でさえ、容易く近づく事を許してしまう、彼が持つ独特な雰囲気の成せる業だ。

こんなにも自然に、相手のパーソナルスペースに入り込める人間を、蓮は今まで見た事がない。


「画像や動画では物足りなくなってね。彼がカイザーとの取引で君を同行させることを知って、馳せ参じたんだよ。君に会うために、わざわざね」

カエサルの思惑が掴めず、蓮はソファーから立ち上がった。だが、射貫くような緑の瞳は変わらない。

「取引って、裏のビジネスの方ですよね。だったら、ディーンは貴方がここにいることを、絶対に許さないと思います。今すぐこの部屋を出ていって下さい」

「案外、聡いんだね。――君」

上から目線の言葉は続く。

「そんなに警戒しなくてもいいよ、と言いたいが、初対面の男を信用しろと言っても、無理があるよね」

蓮は沈黙以って、イエスの意思表示をする。

だが男は、蓮の拒否の姿勢にも構わず続けた。

「でも安心して。とりあえず、俺とミスター コールドとの関係は良好だ。俺は、君に害を成す気はないよ」

そうは言っても、嘘という可能性もある。

この男の言葉には、どこか浮ついた表面的なものを感じる。

その二面性の裏を勘繰るが故、ストレートに信用することができない。

だが、そんな蓮の警戒感が吹き飛ぶ事を、男は唐突に問いかけてきた。

「ふうん、ちょっと驚いたな。二人で同室か。――もしかして、そっちの方でもスペシャルな関係なの、君達?」


要はプライベートでもパートナーかという、あからさまな問いの意味を察し、蓮は眉をひそめた。

まずは、「もしかして、そっち系の人なのかな?」と、彼に分からない日本語で彼の性癖を予想する。

そして、とりあえず探りを入れて見た。

「違いますよ。オレ達は、ただのオーナーとアドバイザーです。出会った頃からずっと変わらず、win winの関係ですよ。安心してください」

笑みを浮かべて反応を伺う返答に、「まさかと思ったけど、なんだか怪しいな」と、蓮に分からないようにイタリア語で漏らしたカエサルだが、ふいに何かの気配を察して唐突に口元に人差し指を立てた。

顔からは、張り付いていた柔和な笑みは消えている。

それは、万国共通、黙れのサイン。


我に返れば、廊下の外の会話が漏れ聞こえてくる。

――荷物の積み込みは完了だってよ。

――なら、手筈通りに、とっととズラかるぞ。奴らに見つかったら最後、即刻銃殺刑だ。

そして、ガクンと列車が身震いする。どうやら、エンジンがかかったようだ。

だが、蓮とカエサルはその現実とともに、続く男達の言葉に愕然とした。

――まさかとは思うが、念の為に全ての客室に乗客がいないか確認した方がいい。

――そうだな。では、見つけ次第、射殺するという事で。今度は俺達が銃殺刑の執行官だぜ。

列車が動き始めたことへの安堵感からか、男達の声のトーンは幾分軽くなっている。

だがそれは、蓮とカエサルにとっては、有難くない状況になったことを示す。


二人は顔を見合わせて息を飲み、狭くるしい客室内で、それぞれの隠れ場所を探し始めた。

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