1 Nouveau départ 再出発
事の発端は1月最終週の月曜日に遡る。
早朝のニューヨークからマドリードへと旅立つ、今からちょうど半月前のことだ。
蓮は「いってらっしゃいまし」との送り出す言葉とともに、居候するアパートメントの地下駐車場から大家が出勤するリムジンを見送り、同じミッドタウン内の高層ビル群の中にそびえ立つ、新たな職場のレテセント・リージェント・グループ本社に出社しようとした。
だが、そのオーナーのリムジンの後部座席のドアは一向に締まる気配はなく、とうとうリムジンの中から声がかかった。
「――おい、何をしている?」
何の事かと小首を傾げれば、「早く乗れ」と、不機嫌そうなトーンで急かされる。
そんな自社のオーナーに苦笑いを浮かべた。
世間知らずも、ここまで非常識なら腹も立たない。
「まさか、徒歩10分以内でたどり着く職場への初出勤をオーナーに送らた上に、高級リムジンで出社しろなんて言う気じゃないですよね。――どこのセレブの子息様ですか?」
そんな、さりげなく世間の常識を織り交ぜた蓮の言葉に、今度はディーンが眉をしかめた。
「何を言っている? 同じオフィスに行くのに、なぜ別々で行こうとする? 効率が悪いだろう」
「同じオフィス? 俺はミッドタウンの本社に行くんですよ。ディーンはセントラルパークにある、いつものオフィスに行くんですよね?」
確認するような口調に、ディーンがあからさまに深いため息をつけば、音もなく助手席の窓が開き、眼鏡の秘書が厳しい眼差しを蓮へと向けた。
年はディーンよりも5つほど上の秘書の眉間の皺には、生真面目そうな性格が滲み出ている。
「ぐずぐずするな、黒羽蓮。お前の仕事は、ボス付きの財務アドバイザーだ。当然、仕事場はボスと同じオフィスになる」
だが、初耳の情報に「えっ」と緑の瞳をまん丸く見開いた蓮は、すぐに我を取り戻した。
それは、容認できない背任行為だ。
ならば、蓮も負けてはいない。
毎日顔を合わせている大家に、後部座席に身を乗り入れて詰め寄った。
ここは、絶対に譲れない局面だ。
「確か、貴方の会社にお世話になるってお話を頂いた時、オレの仕事はレテセント・リージェント・グループの財務アドバイザーって言いましたよね!」
「ああ、そうだ。だが、配属先までは話していなかったな。お前には、オーナーのサポートを担当してもらうことになった」
ニヤリと策士の笑みを向けての説明に、さすがの蓮もグッと言葉に詰まる。
相手の顔には、確信犯の太々しい笑みが浮かんでいた。
「……オレを騙しましたね、ディーン」
「人聞きが悪い事を言うな。聞かなかったお前が悪い。――それより、ちゃんと座れ。車を出すぞ」
気付けば、後部座席のドアはいつの間にか閉じられている。
やりとりに夢中になり、勢いに任せて車内に乗り込んでいたために、すでに退路を断たれたことに気付いて口をへの字にして押し黙った青年に、ディーンは小さなため息に続き、肩をすくめてみせた。
「そう剝れるな。大体、降って湧いたオーナー付きの財務アドバイザーが本社に居座っていたら、他の社員がやりにくくて仕方ないだろう。それに、俺がオーナーとして、お前に任せたい仕事もある」
蓮が怪訝そうな緑のまなざしを向ければ、スリーピーススーツを着こなし、モデルのように長い足を組み直して説明を続ける。
「お前には、レセテント・リージェント・グループ、全事業の企業価値の評価をしてもらいたい」
「それって、バリュエーションってことですか?」
オーナーからの唐突なオーダーに、蓮は言葉を失った。
――バリュエーション。
M&Aディールにおいて、ディール実施の判断や、複数の候補から最良な案件を選ぶ際に、財務データを基に買収対象とする事業や企業を取り巻く市場環境や、M&A実施後に想定されるシナジー効果やリスク要因など、多面的なアプローチから分析する作業である。
「表のビジネスの方は、受け継いでから新規事業以外はあまり構ってこなかったからな。お前が居るなら、この際、既存の事業を見直すチャンスかもしれん」
ディーンの言葉が意図することは、つまりはレテセント・リージェント・グループ内、全ての事業の総点検をしろと言うことだ。
「そのための権限を、外から来た新参者が与えられても、オーナー専属の肩書があれば、大抵の社員たちは納得する。――それでも、まだ文句があるか?」
挑戦的な横暴オーナーに言いくるめられる事への反発心を抱きつつ、それをも凌駕して蓮の心に湧き上がるのは、ただ好奇心。
――そして、やりがいだ。
ホテル事業、クルージンク事業、そして寝台列車の鉄道事業。
その全ての事業ごとに、将来期待される経済的利益を計るインカム・アプローチ、市場においての企業価値を算定するマーケット・アプローチ、純資産を基準に企業価値を評価するコスト・アプローチを行い、企業の価値評価を出す大仕事。
蓮のエメラルドグリーンの光彩の色が、深みを帯びた。
「オレが欲しいと言った社内資料は、全てにおいて閲覧制限なく入手可能となりますか?」
「――ああ」
「説明を求めれば、どのポジションの方でも答えて下さる権限を頂けますか」
「当然だ」
自信ありげに大きく頷いたオーナーから視線を外し、蓮は呟くようにひと言を零した。
「それには、貴方も含まれますか? もしも、オレが貴方のもうひとつのビジネスに関わる質問をしたとしたら……」
その問いにオーナーは、やや青みがかかった瞳をアドバイザーへと向ける。
「お前が本気で知りたいなら、答えてやる。ただ、それを俺が積極的に望んでいないことだけは承知しておけ」
蓮は、ホッと小さく息を吐いた。
隠すこともしないが、蓮を裏のビジネスまで引き入れる気はないらしい。
それは、蓮の望むところではある。
そして、最大の関門をクリアし、色味が深まったエメラルドの瞳をオーナーへと向けた。
「――了解しました。グループの事業をバリュエーションして、その結果、企業の価値を高められるように動きます」
そして、にっこりと笑った。
「――絶対に、貴方に損はさせませんよ」
・・・・・・
恩返しを願う蓮が、世話になったジェントリー・ハーツを退社することに決めたのは、イギリスでのキングが引き起こした買収騒動が根底にある。
故人を悪くは言いたくないが、老人の独りよがりの逆恨みとはいえ、自分の為に会社と顧客に迷惑をかけた事は事実だ。
――金融ビジネスは、シビアだ。
得をする者がいれば、一方で損をする者がいる。
蓮の仕事は、顧客に得をさせることだ。
その為に、身に付けた知識やノウハウを最大限駆使して、最良の結果を出すべく仕事に当たる。
負けるつもりなど毛頭ない。
だか、その為にこれから先も同様に逆恨みされる可能性が無いとは言えない。
ニューヨークに戻って以降、言葉数も減り憂鬱な顔つきの居候に、天下のミッドタウンの高層アパートメントで、初めて作ったという不味いミルクティを差し出してディーンが言った。
――ならば、俺の所に来い。ウチには、グループ全体を管理、経営する専門の財務アドバイザーが必要だ。だが、外部には明かせない事案もある。お前なら、色々と俺の特別な事情も察しているし、受けてくれるとありがたい。
ディーンはそう言ったが、その必要性は、レテセント・リージェント・グループの経営体制自体にも理由があることを、蓮は知っていた。
レテセント・リージェント・グループは、旅行というキーワードが同じだけで、各事業が独立して経営される、子会社が集まって形成されている。
メイン事業のホテル事業とて、系列とは名ばかりで、各ホテルが独立して経営している始末だ。
年に一度、支配人を集めての経営会議と、グループの株主総会はあるが、それ以外は業務提携も人事交流も一切ない。
むしろ、普段はライバル視するような険悪ぶりだ。
同じ事業内でもその有様なのに、事業ごととなれば、さらに疎遠となる。
彼らは、大株主のオーナーが同じという感覚しかないようで、グループの本社自体も、クルージング事業、鉄道事業、そしてホテル事業と、それぞれの担当事業により部署が分かれていて、本来あるはずの統括する部署が無い状態なのだ。
――それぞれが、勝手にやっている。そんな印象しかない。
「よく、それで株主総会を乗り切ってきましたね」と蓮が呆れれば、「俺以外の、その他の大株主に入る連中は絶対に俺を裏切らん奴らだ。それに、俺の表のビジネスがどうなろうと、奴らは文句は言わん」と、涼しい顔でオーナーは答えていた。
――ともあれ、事業ごとで提携すれば、さらに会社は良くなる。
そんな期待感もあり、蓮の仕事に対するバロメーターは、ジェントリー・ハーツを退社し、レセテント・リージェントへ入社の方向に大きく傾いていく。
だが、最終的に魔王の甘言に乗ったのは、それだけではない。
――ウチに来るなら、このままタダでここに置いてやる。無論、お前の部屋もハウスキーピングが掃除するし、洗濯もクリーニング業者が全て行う。食事も、リクエストに応じて用意する仕組みになっている。その他の日用品の買い出しも、細かな銘柄指定が必要ならリクエストする必要があるが、別に拘らなければ、無くなりそうな時期にストックが補充されるようになっているぞ。
ディーンのアパートメントに転がり込んだ初日は、クリスマスイブ。
玄関から一歩室内に入った瞬間、蓮の足は感動から止まった。
余計な物は何一つないシンプルなインテリアの中で、花瓶には香るバラの生花。
外の凍える寒さを感じさせない温かな室内。
バーカウンターには、晩酌用のウイスキーとロックグラスが二つ伏せてあり、その隣にはアイスペールとトングが用意してある。ちなみに用意されていたおつまみは、ビターチョコレートとスモークサーモン。それにピスタチオだ。
これで、この時期ならではのクリスマスツリーでもあれば、完璧な状態が保たれていた。
そんな、綺麗に片付けられたモデルルームのような家。
加えて、ディーンの晩酌に付き合ったものの、その日起こった人生史上最悪のトラブルの為に疲労困憊で寝落ちした蓮が目覚めた朝。
飲み物欲しさに開けた冷蔵庫の中には、二人分のコンチネンタルブレックファーストと、冷凍庫の中には蓮の好きな銘柄の紅茶が用意してあった。
後で家主に聞けば、スチュワートから蓮が訪問することを伝えられた気の利くハウスキーパーによる所業だそうだ。
「――ここはパラダイスですか?」
後から起きてきたディーンを寝癖が躍る黒髪を揺らして振り返り、おはようの言葉よりも先に蓮は問いかけていた。
こうして、居候と部下となる事を了承したものの、それ以後、ジェントリー・ハーツとアドバイザリー契約を結んでいた頃より、さらに輪をかけてディーンの横暴オーナーぶりには拍車がかかった。
その最たるが、月半ばでの退社を、半強制的に強要された事である。
けじめを重んじる感覚は、日本で学んだ。
庄司の扱うイン・インでの交渉で、彼らはやたらと月単位での区切りを主張し、「〆切りは末日で」が合言葉のように、庄司以下の日本人達は何の違和感も抱かずに納得していた。
「物事はけじめをつけて、綺麗に決まった方がスッキリしていいやん?」とのメインアドバイザーの言葉に、「なるほど」とカルチャーショックを受けたのは事実だ。
だが、そんな蓮の新たに芽生えた価値観を、全面的に突っぱねたのが金髪のアメリカ人だった。
「今抱えている仕事の引継ぎに必要な時間は、どれくらい必要なんだ?」
「次の仕事場が控えているくせに、随分悠長に構えているな」
「Time is moneyのポリシーはどうした?」
などと、顔を会わせる度にチクチクと嫌味を言う。
挙句に、蓮が退社する時間を狙って、あの長いリムジンで迎えに来るようになった。
無論出社も、蓮がこっそりと玄関を開けた瞬間、襟首を掴んでリムジンに押し込み、北米支社の玄関先まで送り届けられるようになった。
ジェントリー・ハーツ北米支社では、黒羽蓮は今や時の人扱いだ。
皆が一歩距離を置き、愛想笑いの後は「美味い事やった奴」と後ろ指を指される。
それでも、本社の元上司と、前の赴任先の年上の部下は、少し寂しそうな雰囲気を漂わせつつも、以前と変わらずに蓮のステップアップを祝福してくれた。
こうして月半ばにして、蓮はジェントリー・ハーツ・ファンドを退職し、翌週には新たな職場となるレセテント・リージェンシーへ入社し、初出勤のその日、オーナー宅の玄関から意気揚々と地下駐車場へ歩いていく。
だが、5分後に告げられることになる配属先について、この時の黒羽蓮はまだ知るよしもなかった。
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