1-2
波乱の入社初日から、1週間後。
オーナーの前に、財務アドバイザーからの報告書が、A4用紙で縦に立つくらいの分厚さで提出された。
「――何だ、これは? お前の嫌がらせか?」
その書類を見た途端、怪訝そうに眉をひそめたオーナーからの問いに、敏腕秘書は眼鏡の縁を上げて恭しく答えた。
「それは、坊やに直接お聞きになった方がよろしいかと。さすがの私でも、それを読む気にはなりませんので。……坊やを呼びますか?」
生真面目な返答と問いかけに、言いえて妙とジロリと睨みつつ、分厚い書類の束を手に立ち上がれば、スチュワートが心得たタイミングで秘書室へのドアを開け放つ。
歩調を変えることなく執務室の前室にある秘書室に入れば、スチュワート用のデスクの向かい側に設えたアドバイザー用のデスクの上に、山のように積み上げられた資料や書類の中で、埋もれるように黒髪の先端が見えた。
ズカズカと無遠慮に歩み寄る気配に、蓮は驚いた顔を上げるものの、積まれた資料で顔の全ては見えず、辛うじて緑の瞳と目が合う。
「なぜ、お前が説明に来ない? それに、このふざけた厚さの書類を、まさか俺に精査しろということか?」
ドンと手荒く書類の束を資料の上に置けば、その振動で積み上げられた資料が雪崩を打ったように崩れ落ちた。
途端に、21歳の男の顔が剣呑な表情に変わる。
「気を付けて下さい。これでも一応、事業ごとに仕分けてあるんですからね」と語気を強めて言ったものの、ディーンが置いた分厚い書類を見た途端に目を丸くした。
「それは、根拠となる資料ですよ。PDFにするのが面倒でそのまま送ろうとしましたが、容量が大きすぎてメールに添付出来なかったので、紙媒体で提出しました。報告書本体は、ディーンにメールで送りましたよ。説明するなら、画面を見ながらの方がいいと思って」
そして、悪びれることなく、にっこりと笑みを浮かべた。
「でも、もしも時間があるなら、今ここで説明しますよ」
そして立ち上がり、オーナーに気安く手招きをする。
どうやら、自分が座っていた椅子に座れということらしいと理解し、行き違いに気が付いたディーンは小さくため息を零すと、砦のように積み上げられた書類に囲まれるノートパソコンの前に腰を下ろす。
画面には、ヨーロッパの山岳地帯の風景と、欧州の地図の画像が開かれている。
傍らに立ち、「ちょっとすみません」と断った蓮が、デスクトップのアイコンをクリックすれば、2つの画像の上に、「レテセント・リージェント・グループ、バリュエーション報告書」と名付けられた書類が開かれた。
そのまま蓮が、二本の指を使って画面をスクロールする。
「結果的に言えば、赤字計上する事業はありませんでした。けれど……」と、4枚目のところでスクロールする手を止めた。
「事業内容の見直しが必要だと思われるのが、コレです」
そこには、寝台列車でのツーリング事業について、バリュエーションの結果が綴られていた。
レテセント・リージェント・グループの寝台列車、ブリッツェン・エクスプレスは、「煌めき」というドイツ語の名の通り、「煌めく極上の思い出を貴方に」をキャッチコピーに、スペイン、フランス、ドイツの3か国をつないで、豪華寝台列車の旅を提供している。
蓮は扱いづらいのか、傍らからディーンの背後に移動し、身を乗り出して画面へと手を伸ばす。
「SWOT分析、――つまり、その事業の強みや弱み、脅威などの要因を分析したんですけど」
そして、ひとつのグラフを指さした。
「ブリッツェン・エクスプレスは、スペインからフランスを通ってドイツまでの寝台列車の旅を提供していますが、このグラフは各国間の利用者数を現しています」
「パリとベルリン間は問題ないが、マドリードとパリ間の利用者数が少ないな」
すぐ耳元でダイレクトに届くディーンの指摘に、蓮もひとつ頷く。
「全体的には、パリ―ベルリン間が、マドリード―パリ間を補って採算割れを食い止めています。一応、鉄道事業部も各国の旅行会社にアプローチして、ツアーの一部に寝台列車の旅を取り入れるよう、パリ―ベルリン間をバラ売りして利用客数を伸ばそうと工夫はしていますが、限度がありますよね」
そして、さらに身を乗り出して、キーボードの上を器用に小ぶりの右手が舞う。
顎の先が僅かにディーンの肩に触れるが、二人ともノートパソコンの画面に視線は固定されたままだ。
画面には、5つの列車の写真が表示されている。
「これらは、路線や目的地は異なりますが、現在パリやベルリン、ジュネーブ辺りで稼働している他社の寝台列車です」
「――つまり、競争相手も多いということか」
ディーンがすぐ真横にある横顔をちらりと見れば、画面を見つめる緑の瞳がさらに色味を濃くしていた。
「SWOT分析のフレームワークで浮き上がった潜在リスクとして、外部環境分析での弱みは稀少性。内部環境分析での弱みは、マドリードからパリ間の集客力にあるように思いました」
そして、今度は蓮がチラリとディーンの反応を窺う。
「それでお前は、バリューアップ、つまり企業価値を向上させる事は可能だと思うか?」
間近で輝く紫の瞳に、蓮は気まずそうに顔を背けた。
「出来ると思います。けれど、そうは言ってもデータだけでの調査では、マドリード―パリ間の何が問題なのかはっきり断言できないし、鉄道事業部の人に文句を言うには少し根拠に乏しすぎます」
その言葉に、ディーンの目が何かを察してスッと細められる。ついでに、画面の隅を見て、口の端を僅かに上げた。
「どうする気だ、とは聞かないぞ。――それで、アドバイザーとしては、いつ現地の視察に行くつもりなんだ?」
断定的な問いかけにビクッと蓮の体が固まり、恐る恐るオーナーへと顔を向ける。
口元には引きつった笑みが浮かび、いつもは真っ直ぐに向けられる緑の瞳は、あからさまにディーンの視線を避ける。
「何の事です? まさか、オレがデューディリジェンスで、実際に行って調査しようとしているなんて……」
「思っているから、こんなサイトを開けてあるんだろう?」
今度はディーンの指がタッチパネルの上を動き、画面には、下敷きにされていた地図と田園風景の下に隠されていた、レテセント・リージェント鉄道旅行の予約サイトが前面に現れた。
予約フォームの日時は、3日後になっている。
「これはどういう事だ、蓮? 隠れてコソコソと何をしていると思えば、やはり思った通りだったな」
ニヤリと口角を上げたオーナーに、証拠を握られてヤケになった財務アドバイザーが、開き直って強気の瞳を向けた。
「バレたら仕方ありませんが、貴方は絶対に連れていきませんよ。オレは仕事で行くんですからね」
「ならば、俺も仕事で行く。お前に事業の抜本的な見直しを提案させる以上、問題があるならこの目で直に確認したい。――当然だ」
「けれど、最低でも一週間はかかりますよ! そんなの、あのスチュワートさんが許す筈ないでしょう」
トドメとばかりに言い張れば、ふふんと小馬鹿にしたような笑みが美丈夫の顔に浮かぶ。
「ちょうど、近々パリで別の仕事もある。スチュワートとて反対する理由はないし、何も問題は無い」
「それに――」と、バイオレットの光彩が艶やかに輝いた。
「俺が一緒に行けば、直に話すことで面倒な報告書を作る手間が省けるぞ。加えてプライベートジェットで現地入りも出来るし、オーナー権限でスウィートも予約できる」
その言葉に、途端に蓮がほくそ笑んだ。してやったりという表現が当てはまる。
「そんなのお断りですよ。全然調査にならないじゃないですか。今回はお忍びで調べるんです。正体がばれない事が絶対条件ですからね」
アドバイザーの反撃にオーナーは押し黙るが、それも一瞬の事だ。
「ならば、一般客として潜り込む。どうせ、乗務員達は俺の顔など知らないんだ。それなら文句ないだろう?」
鼻先が触れ合うほどの至近距離で、根競べのように互いの瞳を睨みつけていたものの、それに終止符を打ったのはまさかの眼鏡秘書だ。
いつの間にか自身のデスクに戻って話を聞いていたのか、タブレットを片手に顔を上げた。
「先方の都合を確認したところ、10日後にパリでお会い出来るそうです。因って、その3日前のマドリード発の客室を確保致しました」
だが、その表情が何時にもまして冴えない感じを受けるのは、やはり反対なのかと蓮が思った時、スチュワートは主に恭しく報告した。
「ただ、空いている部屋が2人部屋しか御座いませんでしたので、ボスは坊やと同室ということになりました。申し訳ございません」
その報告に、ディーンが勝ち誇った笑みを蓮へと向けた。
「良かったじゃないか、蓮。これで調査中でもコソコソと内緒話をする必要は無くなったな」
そして、確信犯は立ち上がる。
「お前のリザーブを今すぐキャンセルしろ。まだ20%のキャンセル料で済む」
そんな横暴オーナーからの強気の視線に、専属アドバイザーは不貞腐れたように顔を背けた。
「――ご心配なく。3日後のマドリード―パリ間の運行は催行しないとのことで、予約できませんでしたから」
ますます笑みを深めた美丈夫を見上げ、悔しそうな蓮の言葉を以って、レテセント・リージェント・グループ鉄道事業部の隠密デューディリジェンスに、オーナー自らの参加が決定した。
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