砂の涙ー8

 アルファは天然パーマで鼻筋の通った古代ギリシャの彫刻にあるような美男子だった。容姿もすらりとしてかっこよかった。妖怪の女王はアルファにはどうしても客観的になれなかった。彼はしがない絵描きであり自称詩人だった。女たらしで、生活無能力者で、ほかの二人と比べてもどうしようもない男だったが、恋は思案の外なのである。

 アルファとは本名ではない。それは彼が自己紹介で使っていた仮名である。ここでは、彼の生いたちを深く詮索はしない。父と早く死に別れ、女手ひとつで懸命に育ててくれた母とも死に別れた謎の青年であるとだけ言っておこう。父母の残した財産が彼を生かしてくれていた。彼は人の心の底にひそむ狂気・・現実を突き抜けてはばたく翼を持つ現代のイカロスだった。

 しかし、彼はしっかりとした若い肉体を持つ青年だった。小学生のとき、クラスメイトに「女の子みたいだ」といわれたのに反発し空手を始めた。拳士郎ほどではないが、彼はその方面の才能も抜きん出ていた。

 アルファは小刀のような感性をもち、太陽のような情熱を秘めていた。このような人物は現実生活において、常に生きづらさを感じずにはいない。想像の翼が日常生活の邪魔をするからである。彼は芸術に活動の場を見出していたが、ヴィーナスに恋い焦がれるような青年だった。しかし、現代社会には神のような美女など存在しないのである。

 高い理想の絶望は、死を身近に感じさせる。彼は花火のような人生に憧れていた。しかし、現実にはそのような生き方を認める場所はなかった。長雨に打たれ続けたように精神が屈折し苦痛を感じた。しかし、救い主はいない。その痛みを和らげてくれる薬は、目の前にある酒、女、煙草だった。そのころアルファの心は荒んでいた。彼は早熟な詩人にありがちなように純粋で未成熟な大人だった。愛されるために傷つかずにはいない愚かで美しい魂だった。

 その心の叫びが悪魔との縁を招いたのだろう。では、彼が若い時期に書いた日記をのぞいてみよう。


                *


 俺はこいつを女に握らせた。さあ、これで俺の心臓を突いてくれ。そしたらあいつは腰を抜かした。だから俺は言ってやった。この包丁の錆よりもおまえが嫌いだってね。そしたら女は逃げ出した。お粗末な茶番劇さ・・人殺しさえできやしない。それができるくらいなら、俺があいつに惚れているさ。現代っ子は計算高い。人を殺して人生を棒にふるほど純じゃない。こっちが駄目なら今度はあちら、蝶々のように花から花へ一二三と飛んで行くのさ。彼女の羽はティッシュの愛だ。あそこを擦れば乾いてしまう。目と見えたのは算盤の玉。わが商札は赤札ときた。五円の値打ちもないらしい。「恋に死す」とは滅びた神話だ。八百屋お七はいやしない。民子のような可憐な乙女は、隅田川で蛍を探すようなもの。俺は階段を上ってきた女を慰めて、そこを下りて行った女を見送った。虫が窓から飛び込んで花瓶にぶつかったからといって、それが罪になるのかい? あったかい布団がふわふわ飛んで来てまたふわふわと去っていく。(血の通った肉布団)羽の生えた掛け布団じゃない。おおむね敷き布団さ。俺には、そのプロセスが分からない。

 火打ち石は水辺で苔生し、川の活力でバラバラに分解されている。砂には苔は生えないが、火花が散る虞もなくなった。砂に墓碑銘は刻めない。俺は鉄鎖に繋がれた罪人だ。だから布団の温もりもうれしい。しかしそれは俺を空しさで凍らせる。電気が氷を製造するのだ。なんて歪んだ世界だろう! そして俺は生きながら死んでいる。俺は右手でヴィーナスを殺しながら左手でそれを求めている奇妙な男だ。理想の女は男の脳細胞の中でしか生きられない血の花びらなのだ。しかしシャボン玉のように儚くても夢を見ていたい。幻滅に翼を与えて、この大空を飛び回ってみたい。

 恋は林檎のような果実ではない。心臓を喰いやぶる鼠だ。肉を突き破りしまいには骨の髄までボロボロにされるのだ。それでも、それでも・・永遠の悦楽の泉よ。俺は恋などできない男だ。だからこそ、恋に恋する。大理石に生きた金魚を求めるように。石に恋する心よ。現代には神の理想が欠けているのだ。だから人間の背丈が低くなる。人生からドラマが消え失せる。無目的な堂々めぐり。ハンドルの効かない車のように何に激突するか分からない。臆病なやつはブレーキを踏みどんどん魂を萎縮させる。世紀末の憂鬱。歴史の大掃除。ああ、滅びそこねた場合の人類の不幸よ!

 つぎはぎのヴィーナスに告げる。俺はできそこないの詩人だ。子どもを川に捨てた薄情な母親のようなものだ。俺はその子の角におびえた。鋭い牙におののいた。ナルシスの悲劇は不気味な深みだ。喰うか喰われるかの修羅場が広がる。俺の尻尾に食いついているのは俺の歯だ。本物の詩は呪われた魂の呻きを伝える。心臓をしゃぶる妖怪の舌鼓。それに喰われる最初の獲物は、この俺なのだ。俺はやつと存在を競い合い、そいつを八つ裂きにして逃げだした。俺は俺の殺人者だ。だから生ける屍なのさ。俺は生きる望みを求めて街をさまよった。しかしそこにあったのは、失望と過失の累積赤字。俺は喉を喰い破ったカナリヤ、トマトをしゃぶる吸血鬼・・つまりはコメディアンというわけだ。

 アハハハハ アハハハハハハ アハハハハ アハハハハハハ アハハハハハハ(笑いの三十一文字)

 笑いたいやつは、腹がよじれるほどに笑えばよいのだ。俺がほしいのは、機関銃でも撃ち殺せない人間の真実だ。神のように清らかな生命の輝きだ。俺はそれを見つけたい。この命にかえても。

 風の恋は肌をすりぬけるかまいたち。砂漠を超えて永遠に流れいく。


                *


 現実に『反』を唱えるへそ曲がり。平凡な愛には反抗し、非凡な哀には情熱をささげた。彼は人間の愛によっては魂を癒されぬ鬼だったのかもしれない。そして荒野で神々に恋する純粋な天使だったのかもしれない。

 アルファには兄想いの妹がいたが十八の若さで初恋の相手と結婚した。彼はそれを人並みに喜んだ。しかし、自分にはそのような選択はできないと思っていた。彼は現実世界を浮草のようにさまよいながら、いつか花火になれる日を心ひそかに待ち望んでいた。


 転機となったのは、ある少女との出会いだった。

 半年ほど前のことである。ある美術関係者から、面会を希望している方がおられるので来てもらいたいとの電話連絡があった。とくに用事もなかったので待ちあわせた喫茶店に出かけると、そこには見るからに品のいい夫人がいた。話を聴いてみると、娘の家庭教師を引き受けてくれないかという申し出だった。柄ではないと断ったが、保護者があまりに熱心に頼むのでよくよく話をきいてみると、病弱な娘の子守のような仕事であることが分かった。その子に絵の手ほどきをしてもらいたいという。アルファは美大の学生ではなく、親戚の画家に基本の手ほどきを受けた程度で独学だった。実際に絵を習いたいというのならほかに先生はいくらでもいた。しかし、これは彼にしかできない仕事だという。その理由はその娘が彼の絵を気に入っているからだった。それは嵐の濁流に架けられた橋を描いた油絵だった。橋は今にも流されそうである。しかし、こらえている。そして橋の向こう岸にはわずかな青空が描かれている。アルファはこの絵に『希望』という題をつけて展覧会に出したのだが、それが少女の目にとまった。彼女はこの絵の作者に絵を習いたいと両親に懇願した。母親は娘の願いを叶えようと彼を探しあてた。そして説得をするなかで「娘の命はあと一年と言われているのです」と告白した。白血病だった。報酬はいくらでも出すという。彼にはとても引き受けられない仕事だった。「僕にはつとまらない仕事です」と断ると、「せめて一度だけでも会ってください」と切願された。彼はその熱意に負けてその娘と会うことになった。


 未知の家庭への訪問だったので、常にはあらず薄茶のブレザーを着、エンジのコートをまとっていた。電車とタクシーを乗りつぎ一時間ほどで到着した。

 はじめに驚いたのは、門の中にある洋風の豪華な邸宅だった。二階に広いテラスがあるのが特徴だった。武市(たけい)氏が製鉄会社の社長であるとは聞いていたが、二階建ての壮麗な瓦葺の建物からそうとうな資産家であると推測できた。樹木からこぼれ落ちる光が、花壇にある紫陽花の枯れ枝とイチョウの落葉の上に宝石のように降りそそいでいた。

 二度目に驚いたのは、その娘の澄んだ瞳だった。

 少女はベッドに横たわっていた。白い服を着て頭には黒いニット帽をかぶっていた。抗癌剤による治療のせいだった。その部屋は洋間で縦横高さが9・6・3mぐらいの広さがあったが、ベッドの周囲は病院の個室のようだった。点滴の器具、酸素吸入器、血圧計などが設置されていた。女の子の部屋らしい人形や鏡台やレースの飾りもあった。本も好きなようで木製のりっぱな本棚には絵本や詩集や児童文学や少女漫画などがぎっしりと並んでいた。部屋の中央には木製の丸テーブルと椅子が置いてあった。

 少女は、アルファを見るなり「わたしの青空がやってきた」と喜びをあらわにした。それが彼の絵に描かれていた青空を意味していることは容易に推測がついたが、その澄んだ瞳に彼の方が驚かされた。

 その少女は梨咲(りさ)といった。中三の年だった。細面ではあるが、純粋な魂のきらめきを感じさせる少女だった。枕元には『希望』の絵のコピーが飾られていた。梨咲はその絵から一つの物語を創作していた。

「信じていたわ。この絵のむこうから嵐をこえてわたしの青空がやってくるの。この橋をわたるその足音がわたしにはきこえていたの。先生来てくださってありがとう。わたしの希望になってください」

 アルファは自分が彼女の希望になれるような男ではないと分かっていたが、身近に死の影を背負っている少女の願いを、無下に拒否することはできなかった。

 どうしようかと迷っていたが、目と目が合ったとき、アルファは少女のまなざしに屈した。

「お嬢さん。わたしがあなたの希望になれるかどうかはわかりませんが、いっしょに絵を描くことはできます」

 それを承諾の返事と理解した梨咲は、

「わたし、がんばって、先生に認めてもらえるような絵をかくわ」と微笑んだ。

 母は彼の決断に歓喜した。胸につけた花柄のブローチが小刻みに揺れていた。

 夫人の名は幸江(さちえ)といった。髪を肩まで伸ばしていたがきちんと櫛がとおっており、服装もシックで着飾ったようなところはなかった。きれいで好感のもてる女性だった。

 彼女は彼をともなって別室にうつり、感謝を伝えると報酬は月額100万円を支払うと言いだした。アルファはそれを断った。

 幸江夫人が「不服ですか? 」と怪訝な表情を見せたので

「交通費と画材代だけで結構です」と述べた。

夫人は驚いて「せめて50万円だけでも受け取ってください」と言い張った。

「いえ、それでも家庭教師としての報酬としては高すぎます」というと、

「では30万」と言いながら笑い出した。

 給料の値下げ交渉などしたことがなかったからである。

 アルファも笑顔で「給料は実費のみで結構です。でも、よろしければ、わたしの絵を相応の値段で買ってください」と願った。

 幸江夫人がそのやりとりの真意を理解したかどうかは分からないが、彼女は夫と相談し画家の意をくみ彼がもちこんだ数点の絵をそうとうな値段で買ってくれたのである。


 絵をとおした梨咲とのコミュニケーションは新鮮だった。そのなかで彼は画家にとってもっとも重要なものを認識させられた。絵の本質は自己表現である。でも、どこか違うのである。自己表現では足りないのである。それは人間表現でなければならない。もっと掘り下げて考えれば、命の表現でなければならない。表現には個性が必要だが、それは何か普遍的なものに触れていなければならない。表現の衝動がなければ胸を打つものにはならないが、自分以外に誰か一人それを見てくれる他人がいなければならないのである。その人のために絵は描かれるものなのである。アルファははじめて梨咲を喜ばせたいという願いから絵を描きはじめた。それは彼にとって大きな変化だった。それは恋の感情とは少し違う。肉親や妹への感情とも違う。友だちに対する感情とも違う。もっと広々とした透明な愛の感情であり、命と命との表現がひびきあう純粋なコミュニケーションの喜びだった。少女の澄んだ瞳が画家の魂をよみがえらせてくれたのである。彼は梨咲の最良の教師になろうとした。

 そのときアルファには同棲していた踊り子がいた。彼女に誘われて生活をともにしていたのだが、恋をしていたわけではなかった。男女の交わりはあったが、避妊をしながらの関係で、どこか冷めていた。彼女にはそれが不満だった。彼が武居家に通いはじめるといっそう距離は遠のいた。女は彼を引き止めようとしきりに結婚をせがむようになった。彼には結婚は考えられなかった。嫌いではないし、感謝もしている。しかし、自由を縛られるのは真っ平御免だった。しばらく態度は保留していたが、彼女があまりにしつこくまとわりつくので別れ話をもちだした。女は「殺してやる」と叫んだが、彼は「かまわないよ」と告げて彼女の部屋を去った。踊り子からの報酬は、不良仲間からのリンチだった。その夜のこと、彼は覚や拳士郎と出会ったのである。不肖の画家は怪我の理由を梨咲へは伝えなかった。彼女も何かの事情を察したのか深く追及はしなかった。思春期の娘は若い男を心から愛し始めていた。病状は奇跡的に回復していた。彼との出会いが少女に生命の息吹をもたらしたのである。

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