第1話 溜息の朝

「はぁ…」


「なにしけた顔してんだよ。加持」



 思い切りため息をつく俺に、友人である法学部一回生『白老勇治』が声をかけてくる。今日もスポーツマンのように刈り上げた髪型が、その好青年然とした印象を底上げしていた。

 現在は、二限の講義が始まる前の15分休憩の時間。二限の講義はちなみに『民法 総則・物権』である。



「しけた顔もなにも、昨日は散々だったんだ」



 白老に対し、俺は疲れを隠さず答えた。



「散々?」



 白老の疑問に対して、俺は昨日の出来事を思い返す。『富士見寮』からの『ストーム』奇襲を受けた早朝のことだ。

 夕見寮の恒例行事である「昭和記念公園BBQ」に寝坊した俺は、急いで玄関から会場に向かおうとしたまさにその途中、猛る富士見寮の男たちからの熱い歓迎と妨害を受けたのである。


 そのことを白老に言うと、やつは笑ってこう答えた。



「そいつは大変だったな。まさか、自分しか寮にいない手薄の状態のときに、『ストーム』を受けるとは」


「いやいや、本当大変だったんだぜ?」



 白老は笑っていなすが、実際に相当大変だったのだ。


 猛然と夕見寮に進入しようとしてくる男たちに対して、俺一人で果敢に立ち向かうも、もちろんかなうはずもない。

 簡単に男たちの突進に吹き飛ばされ、夕見寮にやすやすと進入を許した。玄関口を突破されたときの「お邪魔するでござるゥ!」という富士見寮のどいつかのふざけた叫び声が、いまでも脳裏に浮かぶ。



「俺はまだストームとやらの現場をみたことはないが、実際10数人の男たちが突撃してくるのはなかなかにきついものがあろうな」



 白老は言いながら、二限の講義に使う教科書を鞄から取り出した。法学部の講義であるので、人をも殺せそうな分厚さの六法全書を広げる。

 白老勇治。引き締まった体格、凛とした相貌をしている。聞くに、幼少期の頃から剣道に嗜み、手にした優勝旗の数は片手では数えられないという功績を持っているらしい。

 その割りに、どこか飄々とした態度を崩さない男だ。好感を持てるのは、どこか「世の中適当でもなんとなかるさ」というある種の脱力感がにじみ出ているからだろう。

 たまたま、最初の授業で隣の席になり、その縁がなぜか続いている。



「他人事のようにおま…


「そうそう、大変だったんだから」



 教室の壇上のほうを振り返ると、ショートボブの毅然とした女子がこちらに近づいてきた。



「BBQから帰ってきたら、玄関から廊下まで全部泥だらけ。掃除するのがホント大変だったわよ」



 俺の台詞にかぶせてきたのは、法学部一回生の「本庄美優」。

 彼女は、俺が住む夕見寮の寮生でもあり、昨日のBBQに参加もしていたらしい。

 『らしい』というのは、俺が昨日、『ストーム』の襲撃を受けて、もみくちゃにされ疲れて果てBBQ会場に向かうことが叶わなかったため、本庄が参加していたかどうかわからなかったからだ。


 本庄に対し、白老が疑問をぶつける。


「掃除? 泥だらけ? 一体全体何のことだ?本庄女史よ」


「富士見寮のやつらのストームのせい。寮の玄関から、渡り廊下の延びるところまで含めて全部泥だらけよ。ところどころ糞尿みたいなにおいのするところもあったんだから。あれはきっと、農学部の試験飼育場に出入りしてる輩の靴によるものだわ。ホントたちの悪いったらありゃしない」



 本庄美優はそのかわいらしいショートボブを振り回しながら一人憤慨した。

 見た目は小動物のようにかわいらしい顔たちと、下げ眉が印象的であるが、その実、男勝りなところがある。

 上に男兄弟が二人いる環境で育ってきたためか、男社会で生き抜く度量が身についたのだとか。


 というより、本庄の口ぶりが気になる。

 なんとなくではあるが、俺のせいみたいな言い方では…



「もちろん、あんたがちゃんと防衛しなかったからでしょ。そもそも、あんたがBBQに遅刻せずに、寮の中が空っぽだったら、『ストーム』は成立しなかったはずよ』


「な、なんだと!」



 俺は一人憤慨した。しかし本庄の言うことも筋は通る。確かに俺が寮に残ってさえいなければ、富士見寮のやつらはストームを敢行せず撤退していたはずではあるのだ。


 俺は、昨日の富士見寮のストームを詳細に思い返した。


 ◆◆◆


 昨日朝、『ストーム』のためだけにやって来た富士見寮の男たちは、俺と言う薄っぺらい一枚の壁を突破し、我先にと夕見寮の中に進入した。


 そして、男たちがやったこととは、「泥のついた靴で夕見寮の渡り廊下をただただ走り回る」というもの。この目的は、「夕見寮内の景観を損ね、寮生活における公共の場を混沌一色に貶める」というものだ。


 要は「夕見寮内を泥まみれにしてやれ。汚いだろ。景観が損なわれているだろう!」ということ。


 ある男は、ひたすら玄関周辺で地団駄をふみ。

 ある男は、ひたすらにコサックダンスの練習を夕見寮の廊下で始め。

 ある男は、猛然と渡り廊下を走り回った。美術部からくすねてきた塗料コーティング用のニスをぬりたくった靴で。


 …しょぼいと思うことなかれ。これが現代に残る、古き良き伝統『ストーム』の一種である。


 元は旧制高等学校の時代より、残ったバンカラといわれる『蛮行』が起源だといわれている。学生運動が盛り上がり、熱き情熱を滾らせた学生たちは、そのたぎる想いを大学内のうちうちにぶつけ、さまざまな蛮行を重ねた。次第にその蛮行が、美しい伝統芸という域にまで昇華させられてしまった。


 その名残が、『ストーム』とよばれるもの。


 ひどいところだと、他の寮の窓ガラスを勝ち割る、授業に乱入してメガホンで演説を始めるというのも『ストーム』だと呼ばれていた。


 嵐のようにやってきて、『荒らし』まわる。

 その突然の災害のようなものは『ストーム(嵐)』そのものである。


 

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