8  君のことを 信じている

 はやる気持ちを抑えつつ、早歩きである場所へ向かう三人。広い廊下に辿り着き、手術室と書かれたドアの前で、三人の足が止まった。今このドアの向こうで、優愛が手術を受けている。

 看護師からの話を電話で聞いた後、八坂、美緒、穂高は授業を放っぽりだし、病院へと駆けつけた。

 何も言えずしばらく立ち尽くしていると、力が抜けた美緒がしゃがみこんだ。隣にいた八坂もしゃがみ、美緒の背を軽くさすった。美緒の身体は震え、今にも泣き出しそうだ。

「先生も、病院にいることは分かっていなかった。たぶん、高山さんのお母さんも知らないかもしれない」

 ようやく口を開いた八坂の声は、明らかに暗かった。平静を装っているが、落ち込んでいることは確かだ。八坂の気持ちを察した穂高。

「じゃあ私、学校に連絡してくるね。学校からお母さんにも伝わるだろうし」

「うん、お願い」

 穂高は来た道を戻り、通話可能な場所へと向かった。

「立川さん、ベンチに座ろ。立てる?」

 口を手で押さえながら小さく頷き、八坂に支えられながら立ち上がる。ベンチに座ると、美緒は頭を抱えて小さくなる。必死に泣き声を抑えようとしているが、隣の八坂にはしっかり聞こえている。美緒の背をさすりながら、自分も必死に耐えていた。

 少しして、看護師が八坂たちの元へ来る。

「すみませんが、お二人は高山さんとは?」

「あ、同じ高校の友達です。もう一人が、連絡しにいってます」

「そうですか。手術はもうしばらくかかると思いますので」

 看護師はお辞儀をして、手術室に入ろうとする。それを八坂は、言葉で制する。

「あの、何があったか、教えてくれませんか?」


 連絡し終えた穂高が戻ってくる。

「電話してきた。お母さんにも伝えるって」

「うん。ありがとう」

 覇気のない声で答える。美緒は頭を抱えたままじっとしている。

「高山さん、事故に巻き込まれたらしい。それで頭を打って、搬送されたって」

「そうなんだ……」

 美緒の泣き声が漏れて聞こえてくる。穂高は隣に座り、美緒の身体をさする。

「私たちは、一旦学校に戻ろう」

 力なく頷く美緒を支えながら立たせる。視線を八坂に移す。

「八坂くんは、どうする?」

「俺は、もう少しここにいるよ。お母さんとも話したいし」

「そっか。じゃあ私たちは、先に戻ってるね」

「うん」

 美緒と穂高は病院のエントランスに向かう。

「大丈夫。八坂くんに任せよう」

 穂高は、美緒と自分自身に言い聞かせるように呟いた。


 手術室のドアが開かないまま、時間は流れていく。ここまで時間が長く感じたのは初めてで、どうやって落ち着かせればいいか、八坂はずっと考えていた。とにかく、何かを考えていなければ泣いてしまう、そんな状態だった。

 名前を呼ぶ声が聞こえ顔を向けると、優愛のお母さんが来ていた。八坂は立ち上がり、軽く頭を下げた。お母さんも頭を下げ返すと、手術室のドアを見据えた。八坂はゆっくりと口を開く。

「通学途中、事故に遭ったようです。雪道にタイヤを取られてスリップした車が、歩道を歩いていた高山さんに突っ込んで、頭を強く打ったみたいで……」

「そう……」

 沈黙になる。何を話せばいいのか分からない八坂。この場に相応しい言葉や話なんて、何も浮かばない。八坂は何も悪いことをしていないのに、なぜか罪悪感のような思いがこみ上げ、謝りたい気分になる。

「八坂くん、あなたは学校に戻ったほうがいいわ」

 お母さんが八坂の顔を見た。八坂も目を合わせる。お母さんからは、気丈な表情が見て取れる。

「今ここにいても、なんにもならないから。残っててくれて、ありがとう。あ、八坂くんの連絡先教えてくれない?何かあったら連絡するから」

 連絡先を交換し、お辞儀をして手術室前の廊下を後にする。今ここにいても、なんにもならない。お母さんの言った言葉が、八坂の頭から離れない。こういう時の無力さを痛感させられた。苦々しく、苛立ちも覚えた。自分自身に対するものだった。

 

 学校に戻ったときには、昼休みも終わりに近づいていた。教室に入るやいなや、由比たちが駆け寄ってくる。

「高山は?どうなんだ?」

「事故に遭って、今手術中」

「手術……。大丈夫、なんやろ?」

「今はなんとも言えない……」

 由比と三浦の問いかけに、力なく答える。ばつが悪く、みんなの顔が見られない。

「お前は、大丈夫か?」

 小金井は八坂の心配をしていた。小金井、三浦、由比と順番に顔を見ていく八坂。三人の顔をちゃんと見たとき、八坂が思っていた以上に不安な表情をしていた。不安で、心配で、泣いてしまいそうな、そんな表情だった。もしかしたら自分もそんな顔をしているのかもしれない。

「俺は、大丈夫だよ」

 八坂は自分の席に戻る。とても大丈夫な表情ではない。午後の始業のチャイムが、八坂には遠くのほうから聞こえるような気がした。左を向き、窓の外から空を眺める。自分の心は淀んでいるのに、空はいつもと同じ綺麗な青色であることに、少し嫌気が差した。


 午後の授業は全く頭に入らなかった。手術が終わったと優愛のお母さんから連絡をもらった八坂は、放課後病院へ向かった。ICUはガラス張りで、外から中の様子が見られるようになっている。発達障害の診察などで今も病院へ行くこともあり、病院を訪れることには抵抗がないのだが、ICUとは縁遠く、まして優愛がそこにいるということに、大きな抵抗感がある。

 足取り重くICUまでたどり着くと、お母さんが中を眺めている。手術室前で別れた時よりも、表情は幾分和らいでいるように見える。八坂に気づいたお母さんは、小さい笑顔を作った。

「命に別状はないって。……ただ、意識が戻るかどうかは分からないって」

「え?」

「意識は戻っても、右の頭を強く打ってせいで、左半身に麻痺が残るらしいの。リハビリすればある程度は回復できる可能性もあるけど、今までのようにはならないみたいなの……」

 意識が戻らない?麻痺が残る?今まで通りにいかない?思ってもみなかったことが、次々と頭の中に入ってくる。手術が終われば、以前のように話せるようになる。そうとばかり考えていた八坂は、何も言えなくなった。焦りが顔に出ていることは、八坂自身にも分かった。お母さんはそんな八坂の表情を見て、距離を近づけて、優しく声をかける。

「ICUにいる間は面会はできないから、一般の病室に移るまでは、病院に来なくてもいいわ。あなたもいろいろとやることもあるでしょ?」

 八坂は力なく頷く。鞄から数枚のプリントが入ったクリアファイルと取り出し、お母さんへ差し出す。

「今日学校で配られたプリントです。渡しておこうと思って」

 お母さんは受け取らず、首を横に振る。

「あなたから渡してあげて。そのほうが、あの子も喜ぶから」

 八坂はファイルを鞄に収めると、頭を下げて背を向けた。少し歩みを進めると、呼び止められた。顔だけお母さんへ向ける。

「面会可能になったら連絡するから。その時は、あの子に会いに来てくれる?」

 その声は、今にも泣き出しそうな声をしていた。憂いに満ちた表情で八坂を見つめるお母さんの顔を、八坂は見ていられなかった。このままだと、自分も泣いてしまう。はい、とだけ答え、病院を後にした。

 

 いじめられていた時であっても、学校に行きたくないと思ったことはなかった。しかし今、初めて行きたくないと思っている。朝、携帯のアラームを消すと、気だるそうに起き上がる。熱でもあれば休めるが、身体は元気だった。ずる休みをしたくない真面目な性格というわけではないが、それはどうにも気が進まない。休まず行くことにした。

 行ったところで授業に集中できるわけもなく、一日中上の空。由比たちと話をしている時も、優愛のことを考えていた。

 優愛のお母さんに会いに来てくれるかと聞かれた時に、はいと答えたが、それは心からの返事ではなかった。八坂の正直な気持ちは、会うのが怖かった。意識のない状態の優愛に、どう接すればいいのか分からなかった。何をしてあげればいいのか分からなかった。無力な自分に、何ができるのか。

 ICUに入った翌日には、一般病棟に移された。八坂が病室の前に着く。大部屋の左奥のベッドに優愛は眠っていた。他に三つのベッドがあるが空いており、この部屋には優愛一人だった。お母さんは席を外している。

 八坂は病室の入り口で躊躇していたが、ゆっくりとベッドへと近づく。優愛のベッド付近には、いろいろと機材が並んでいる。映画で見たことある光景だ。心拍などを可視化しているのだろうが、詳しくは分からない。

 ベッド脇にある丸椅子に腰掛け、優愛の顔を見る。頭を打ったこともあり、包帯がまかれ、網状のネット包帯も被せられている。右の頬にガーゼが貼られ、小さなあざがいくつかある。痛々しい姿だった。涙がこみ上げてくる。プリントが入ったファイルを棚の上に置き、足早に病室を後にした。


 八坂は病院からの足で、柿の木学園に向かった。施設内を力なく歩く。

彼の姿を見つけたこころが声をかける。八坂は目を瞑り、俯き、両手を強く握りしめた。

 空き部屋の椅子に座り、八坂はこころに、優愛のことを話した。こころは驚くが八坂の状態のほうが心配に感じた。

「りゅ、龍くんは、大丈夫?」

 昨日から我慢し続けていた涙がこぼれた。

「……怖かった。怖いんだ。高山さんを見ると、怖くなるんだ。彼女の姿がじゃなくて、これから俺はどうすればいいか分からなくて、怖くなって逃げてきたんだ……」

 涙がどんどんあふれ出てくる。こころが八坂の背中をさする。涙で歪んだ顔をこころに向ける。

「ここちゃん。俺、どうすればいい?何をすればいい?分からない、分からない……」

 こころは八坂の泣き顔をあまり見たことがなかった。子供の頃によく泣いていたのはこころのほうで、八坂がなだめる役だった。こころは視線をはずして少し考える。すると笑顔を八坂に向けた。

「…考えすぎだよ」

「え?」

「な、何か特別なことしないといけないことはないんじゃないかな。そ、そばにいてあげて。人が一番つらいのは、…自分の周りから人がいなくなることだから。わ、私がそうだった。りゅ、龍くんもそうだった。…あんな思いは、も、もうしたくない。と、友達にもしてほしくない」

 八坂は崩れた顔でこころを見ている。こころは鼻をすすると、小さく頷く。

「…優愛ちゃんのそばにいてあげて。しょ、小学生の時、わ、私のそばにいてくれたように」

 こころの言葉と笑顔がとても眩しく思えた。八坂は胸のつかえが取れたように、声を出して泣いた。こころは優しく八坂の頭を撫でた。


――ここちゃんの言うとおりだ。俺は考えすぎていた。彼女は、俺が障害者であることを知っても、それまで通り普通に話しかけてくれた。笑顔をみせてくれた。真っ直ぐな性格のまま接してくれた。だから今の俺がいる。変われた自分がいる。特別なことなんか必要ない。俺ができることをやればいい。それでいいんだ。それだけのことだ……。


 八坂は病室を訪れるたびに、優愛にかける言葉がある。彼女の右手を両手で優しく握りしめて、柔らかい口調で語りかける。

「高山さん、早く起きて。みんな待ってるよ。君とまた、話がしたいよ」

 いつも、何度でも、その言葉をかけ続ける。


――……声、声が聞こえる。誰の声だろ。……あ、彼だ。彼の声だ。何を言ってるかは分からないけど、彼の声が聞こえる。真っ暗で何も見えないけど、そこにいるんだよね。また話したいな。話したいことがたくさんあるから。聞きたいこともたくさんある。早く話したいな……。


 深夜の病室。優愛の心拍に合わせて機械音が響く。暗い部屋で一人眠っている優愛は、ゆっくりと目を開いた。

 見慣れない天井、カーテンで囲まれた狭い空間、テレビで聞いたことのある音。頭痛を感じ、顔をしかめながら目を動かし、ゆっくり顔を動かしながら辺りを見回す。ここがどこか分からない。鼻の穴に違和感を感じ、呼吸器を触ってみる。左腕を上げようとするが、思い通りに動かない。

 目線を左腕に移したとき、カーテンがゆっくりと開き、看護師が入ってきた。

「あ、高山さん、目が覚めたんですね」

 小さいが、喜びの感情が含まれている看護師の声。

「あの、……ここは?」

 鼻にかかった声で尋ねる優愛。

「ここは病院ですよ。今先生呼んできますので、そのまま安静にしていてくださいね」

 看護師は踵を返し、病室を出ていった。優愛はもう一度、視線を左半身に向ける。


 翌日、優愛のお母さんから連絡をもらい、はやる気持ちを抑えながら優愛のいる病室に向かう。廊下を曲がると病室のドアが見えるのだが、そのドアの前にお母さんが立っていた。

「お母さん」

「八坂くん、来てくれてありがとう」

「いえ。あの、彼女は……」

 お母さんの表情が曇る。優愛の状態が良くないのかと思ったが、曇った要因は別だった。

「ごめんね。優愛がね、今は、八坂くんに会いたくないって言ってるの」

「え?」

「麻痺した姿を、あなたに見せたくないって」

 八坂は伏せ目になり、少し考えると、笑顔を作って顔を上げた。

「仕方ないですよ。受け入れるのには時間がかかると思いますし。落ち着いた時期にまた来ます」

「ごめんなさい。せっかく来てもらったのに」

「いいえ。じゃあ、今日はこれで」

 八坂は頭を下げ、病室のドアを一瞥し、その場を後にした。お母さんは後ろ姿を見送り、病室に入った。

 起こしたベッドに背を預け、動かない左腕を睨んでいる優愛。ベッド脇に置いてある椅子に座り、お母さんは優愛の顔を覗き込む。

「本当に会わなくてよかったの?八坂くん、笑顔だったけど、気にしてると思うわよ」

「無理だよ。こんな姿見せたら、嫌われちゃう……」

 今にも泣き出しそうになる気持ちを必死に堪え、左腕を右手で握る。お母さんは呼びかけ、優愛の顔を自分に向けさせた。

「お母さんはそうは思わないな」

「どうして?」

「八坂くんは、麻痺が残るってこと、とっくに知ってたんだから。知ってたうえで、あんたのお見舞いに来てたのよ。それも毎日」

 優愛は驚いた。それは初耳だった。お母さんは、八坂から直接伝えたほうがいいと思い、それはあえて伝えていなかった。

「平日は学校終わりに、休日はできる限り病室にいて、眠っているあんたに話しかけていたんだから……」


 お母さんが病室を離れ、一人となった優愛。これまでの八坂とのことを思い出していた。笑っていることより、悩んだり苦しんだり、涙を流すことのほうが多かったように思える。しかし、優愛にとっては全てがいい思い出だった。

 テレビが置かれている棚に目をやると、冊子型のクリアファイルが置いてある。今まで気が付かなかった。身体の左側にあるため、身体をひねり右手を目一杯のばして、それを掴みあげる。太ももの上に乗せ、冊子を開いていく。授業で配られたのであろうプリントや学校からのお知らせが書かれた配布物とともに、手書きのルーズリーフがとじられていた。

 それを見た瞬間、目を見開き驚いた。初めて見る文字だったが、八坂が書いたものであるとすぐに分かった。ところどころ誤字があり、バランスが悪い文字もある。文字を書くことが苦手な彼が、必死になって書いた数枚。

 身体を今一度大きくひねり、棚の引き出しから携帯を取り出した。


 優愛と一緒に何度か行ったことのあるカフェに、八坂は一人で席に着いていた。普段はブラックコーヒーを頼むのだが、今日は優愛がいつも注文する抹茶ラテを飲んでいた。ガラス窓から空を眺める。彼女と話をするようになってから、八坂は空を見上げることが多くなった。それまでは下ばかり向いていた気持ちが上向きになるように、視線が空へいくこともしばしばある。

 しかしここ最近は、つらい思いをどうにかしたいと思って、空を見上げている。人の悩みは大空に比べればちっぽけなものだと、前に読んだ本に書いてあった。その大空を見続けていても、自分の悩みが小さいとは思えない。

 ため息をつきコップを持ち上げると同時に、携帯の通知音がなった。口をつけずにコップをトレーの上に戻すと、ポケットから取り出し画面を見た。優愛からのメッセージだった。

『君に会いたい』

 飲みかけの抹茶ラテをそのままに、八坂は店を出て、急いで病院へと向かった。


 病室のドアは、開け放たれていた。いつもそうなのだが、さっき来たときは閉まっていたため、少し驚きがあった。小さく息を吐くと、優愛の見える位置まで歩を進める。優愛が起きていた。ベッドの上に座り、窓の外を眺めている。起きている姿を見たのはいつ以来だろうか。少しドキッとした。

 部屋の入り口で立ち尽くしている八坂の姿に、優愛は気がついた。

「おはよう」

 もう昼を過ぎている。時間には相応しくない挨拶。しかしようやく目が覚め、八坂の姿を見た優愛にとっては、ぴったりの言葉だった。

「おはよう」

 挨拶を返し、ゆっくりとベッドへ歩く。椅子に座る八坂だが、どういう顔をすればいいのか分からず、目を合わせることができない。

「八坂くん」

 しばらく沈黙が続いた後、優愛が口を開いた。名前を呼ばれ、八坂はゆっくりと顔を上げた。優愛は小さく微笑む。

「見てて」

 優愛は右手で左腕を下から持ち上げ、肩の位置で止める。右手を横に引き抜く。支えを失った左腕は、重力に抗うことなくベッドの上へ落ちた。麻痺が残るということは知っていた。だが実際に麻痺のある腕を見たのは初めてだ。麻痺の状態にもよるが、今の優愛の状態では少しも保つことができず、すぐに力なく落ちてしまう。

 しばらく優愛の左腕を見た八坂は、視線を顔に戻す。

「こんなになっちゃった」

 優愛の儚げの笑顔が、八坂の心を痛くする。

「このプリント、八坂くんが書いたんでしょ?」

「うん。読めなかったり分かりづらいとこがあったら言って」

 優愛は微笑む。八坂は優愛の笑顔が見られているのに、どんどん心が締めつけられるような思いがする。

「私、夢見てたの。夢の中で八坂くんの声が聞こえた。でも、夢じゃなかったんだね。毎日来てくれてたんでしょ?」

 八坂は頷く。

「ならちゃんと、君の声が聞こえてたんだね」

 また少しの沈黙。八坂には伝えたいことがあった。優愛が目を覚ましたら、ちゃんと伝えたいことがあった。それを言おうと口を開きかけたとき、優愛の謝る声が聞こえた。

「ごめんね」

「どうして謝るの?」

「会いたくないなんて言って」

「それは仕方がないよ。誰だって気になることだし、すぐに受け入れるなんてできな…」

 八坂の言葉を遮るように大きく首を横に振った。

「あんなこと言っちゃいけなかった。君には絶対に言っちゃダメなのに。あんなひどいこと……」

 優愛の声が上ずる。目に涙が溜まる。

「疑ってたの、八坂くんのこと。こんな身体見たら、私のこと嫌いになるんじゃないかって。もういなくなっちゃうんじゃないかって。毎日お見舞いに来てくれてたのに。……ごめんなさい……」

 優愛は涙を流しながら頭を下げた。八坂の顔が見られない。反応が怖かった。

頭を下げ続けていると、すすり泣く声が聞こえた。顔を上げると、八坂が泣いている。鼻を大きくすすり、八坂は優愛の目をしっかり見据えながら話し始める。

「謝らないでよ。俺は感謝してるんだ」

「え?」

 優愛は八坂に感謝される覚えはない。怒られたり、きついことを言われても仕方がないことなのだが。

「俺、不安だったんだ。もしこのまま意識が戻らなかったらって。俺はどうなるんだろうって。俺、もうダメなんだ。君がいないと、もう俺はダメなんだよ」

 八坂は涙をこぼす。優愛の目からも流れ落ちる。

「信じられる人。心の底から信じられる人は、君が初めてだった。こんなに誰かのことを思って苦しくなるのは、君が初めてだった。俺の大切な人、好きな人、絶対に失いたくない人。だから良かった。戻ってきてくれて良かった。ありがとう。戻ってきてくれて、本当にありがとう」

 八坂は涙で歪んだ顔を満面の笑顔へと変えた。優愛の顔はますます歪んでいく。

「私のこと、信じてくれてたの?」

 八坂は大きく頷く。

「嬉しい……」

 優愛は右手で顔を覆い、声を出して泣いた。八坂に信用してもらえるようになりたかった優愛にとっては、とても喜ばしい言葉だった。八坂は椅子から離れ、ベッドに腰掛けると、優愛の身体を優しく包み込むように抱きしめた。優愛の耳元で囁く。

「俺は嫌いにならないし、いなくなったりもしないから。これからも、ずっと君と一緒にいるから……」

 優愛は自分の身体の前にある八坂の右腕を掴み、声を出して泣き続けた。八坂は左手で優愛の頭を撫で続けた。病室には、優愛の声が響き続けた。


 優愛の目覚めの知らせは、八坂によって美緒や穂高、由比たちに直ちに広がった。翌日には揃ってお見舞いへ。将棋クラブの長谷川、久世も含まれている。一度のお見舞いにしては大所帯であろう。優愛は驚くが、自分のことを思ってくれている人のありがたさに胸が高まり、満面の笑みを浮かべる。

 リハビリにも精を出す。リハビリというものはつらい部分が大きいため、不満を漏らす患者は多い。しかし優愛は、文句一つも言わず、理学療法士の言葉を一字一句聞き逃さずに、頭に入れる。時には療法士が焦ってしまうほどの歩行訓練を行う姿を、八坂は笑って見ている。

 リハビリ中にお見舞いに来たこころと森内は、目を見開いた。何よりも、笑顔でリハビリをしている姿には、驚くことしか反応のしようがない。まるでつらいリハビリを楽しんでいるかのように。


 病室で休んでいるところに、八坂がコンビニの袋を持って入ってくる。袋の中から、優愛の大好物である抹茶ラテが顔を出した。病院であることを忘れて喜ぶ優愛。八坂は声を出して笑った。

 ベッド脇でコーヒーを飲む八坂の顔を覗く。彼はストローをくわえながら小さく首をかしげた。

「八坂くん。この前、私と一緒にいるって言ってくれたでしょ?」

「え?あ、うん」

「もしかして、清谷大学の受験、やめようとしてる?」

「え?」

 八坂は図星だった。優愛は、やっぱりというような顔。持ってるカップをテーブルに置くと、八坂に向かい首を振る。

「それはダメだよ。ちゃんと受けてほしい。八坂くんの足を引っ張ることはしたくないし。これじゃ君も私も、苦い思いをするだけだから」

「けど……」

 八坂も持ってるカップをテーブルに置く。

「君が心配だよ」

 優愛はにっこり笑う。

「ありがと。心配してくれて。でも私は、八坂くんには自分がやりたいこととか、夢をちゃんと追いかけてほしい。誰のためでもなく、自分のために生きてほしい」

 優愛の顔は笑顔から真剣な表情に変わり、右手を伸ばして八坂の手を掴んだ。

「私も頑張るから。いっぱい勉強して、しっかり成長して、無事に卒業したら、また一緒に過ごそうよ」

 優愛にはいつも驚かされる。こんなにも他人を羨ましく思ったことはない。再び笑顔になった優愛の顔を見ながら、空いている手を彼女の右手の上にのせる。

「君は強いね」

「周りのみんなのおかげだよ」

「周り?」

「美緒とか穂高とか、由比くん、三浦ちゃん、小金井くん……」

 優愛は微笑む。

「それに八坂くん。みんなと関わって、話したり、一緒に時間を過ごしたりしていくなかで、みんなの言動が……ううん、みんなの存在が、私に大きな影響を与えてくれた」

 優愛は一度目を逸らし、また視線を八坂に戻す。少し照れたような、そんな表情に変わる。

「だからね、もし私が強く見えるのなら、それは君のおかげなんだ」

 優愛の照れが八坂に伝染する。顔が赤くなったのも自分で感じた。しかし八坂は顔をそむけなかった。優愛の笑顔を見ていたい。そう思い、照れ笑いで返事をした。

「清谷大、ちゃんと受けてね」

「うん」


 優愛の身体の回復力は凄まじいものがあり、主治医や理学療法士は目を見張った。終業式には間に合わないとされていたが、それに合わせて一時退院することができるほどまで回復した。

 終業式当日。優愛と八坂は陽葉高校の正門前に並んで立ち、校舎を眺めていた。八坂は優愛がふらついたときなどにいつでも支えられるように、彼女の左側に立っている。優愛は目を閉じ、大きく深呼吸をした。

「久しぶり」

 微笑を浮かべ、優愛は校舎に語りかける。八坂も笑顔になり、頷いてみせる。優愛は八坂に視線を移す。

「八坂くん。好きだよ」

 ここで言われるとは思っておらず、少し面食らう形になった八坂。しかし、言われてとても嬉しい言葉であり、少し恥ずかしさもあった。

「俺も好きだよ」

「私、君に出会えてよかった。気になって、話をしたいって思って、好きになって、大切な存在だって思えるような人が、君でよかった。運命ってあるのかどうか分からないけど、もし本当にあるんだとしたら、八坂くんとの出会いが運命だったんだと思うんだ」

 照れを隠し切れなくなり、口元を手で押さえ照れ笑いを見られないようにする八坂。

「どうしたの?こそばゆいよ」

 優愛は笑顔のまま視線を校舎に戻す。

「人間ってどうなるか分かんないから、言えるときに言っときたいなって思っただけ」

 その言葉は八坂の心に刺さった。事故に遭い、数日眠り、半身が麻痺する状態になった優愛が言うのだから、それはとても重たい言葉であった。

「そうだね」

 八坂はそれだけ答えると、校舎を眺めた。優愛はまた目を閉じると、もう一度大きく深呼吸をする。

「よし、行こ」

 優愛の満面の笑みが八坂の目に入る。八坂は笑顔で頷く。二人はゆっくりと正門を抜け正面玄関の下駄箱へ向かう。

 靴を上履きに履き替え、廊下に出て階段の方向へ向かおうとすると、優愛の名を呼ぶ声が聞こえた。美緒、穂高、由比、小金井、三浦が笑顔で出迎えていた。みんなの姿が目に入った瞬間、涙があふれそうになったがなんとか我慢し、笑顔を返した。

 教室に着くまでの道のりが、今までよりもとても長く感じる優愛。廊下の長さや階段の段数など、今まで考えたことのなかったことが気になっていた。正直この道のりはつらいものがあった。登校するのに、教室にたどり着くのにここまで苦労するものなのか。左半身麻痺の弊害を感じた。しかし優愛は笑顔であった。周りは普段通り、たわいない話をして笑い合っていた。変に気を遣わず、事故の前と変わらず接するみんなの顔を見て、優愛は安堵して心から笑っていた。

 教室前の廊下にたどり着くと、大正寺谷先生が立っていた。笑顔で手を挙げる先生に対し、優愛も笑顔で手を挙げ返す。美緒と穂高は優愛に一声かけて、自分の教室へ戻っていく。由比、小金井、三浦は先に教室に入る。

 優愛は不自由な左腕を動かし、八坂の右手を握った。簡単に振りほどけるほどの弱々しい力であった。八坂は自分の右手を見て、優愛の顔に目を移す。優愛の表情は、前を向いた生き生きとしたように感じられた。八坂は柔らかく優愛の手を握り返すと、微笑んで頷いてみせた。優愛も頷くと、ゆっくり教室のドアへと歩みを進めた。


――私は幸せ者だ。こんな身体になっても、そばにいてくれる人がいる。笑ってくれる人がいる。リハビリを続ければ、もっと良くなるかもしれない。このまま改善しないかもしれない。この身体のせいで、周りから冷たい目で見られるだろう。理不尽な仕打ちを受けるだろう。

 怖くないと言ったら、嘘になる。だけど、悲観はしていない。私には、見守ってくれる仲間がいる。支えてくれる大切な人がいる。

 だから私は、偏見や差別なんかに、負けない。

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わたしと偏見とキミと 芳武順 @jun_homu1830

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