対峙
夫が帰宅したのは、事前に聞いていた時間よりもかなり早い21時過ぎだった。いつもなら真っ先に食事をしたがる夫だが、今日は違う。おどおどした様子で私の出方を伺っているようだ。とりあえず今日行ったショッピングモールで買った弁当を差し出す。ビニール袋に書かれた店名を見て昼のことを思い出したのか少しビクついていたが、弁当を取り出して黙々と食べだした。
4人がけダイニングテーブルの、夫の正面に座る。テレビのリモコンは夫の目の前にあるが、夫は手を伸ばそうとしなかった。チラチラと上目遣いで私を見る。
「何?そんなに見られると食べづらいんだけど」
「話は食事の後にするわ」
箸先をくわえた夫の口が歪む。しばらくして夫は食事を再開した。
「で?話って?」
平らげた弁当の箱を机の隅に乱暴に押しやった夫がふんぞり返って言う。その姿は反抗期を迎えた子どもそのものだったが、実際は中年にさしかかった男だ。この人はいつからこんな"気持ち悪い"男になりさがってしまったのだろう。
「私今日のお昼あなたを見かけたの」
「あー、モールだろ?打ち合わせの合間に食事してたんだよ」
私と目を合わさずに言う。
「盗撮、してたよね」
夫の視線がテーブルに落ちる。
「は?何て?」
「盗撮。中学生を」
「いや、するわけねえだろ」
簡単には認めないだろう。少し揺さぶりをかけることにした。
「レイ、でしょ。あの子」
夫の顔が目に見えて強張った。無言でテーブルの上に落ちたコップの水滴を見つめている。
「バンドの子なんでしょ」
夫の下唇が微かに震えている。
「好きなの?」
夫が私を見る。冷たい、道でぶつかられた通行人に向けるような目付きだ。
「だったらなんだよ」
「…何考えてんの?」
「好きなもんはしょうがねぇだろ。手ぇ出したわけじゃないんだし」
夫はすっかり開き直るつもりだ。
「当たり前でしょ。相手はいくつだと思ってんの?」
「それくらいお前に言われなくてもわかってるんだよ!」
「じゃあ何やってんのよ!犯罪でしょ!」
『犯罪』という言葉に一瞬ハッとしたようだが、すぐにイライラしたような表情で睨んできた。
「だからなんだよ。第一、証拠も何もないだろ。勝手なこと言うなよ」
夫は徹底的にしらを切るつもりのようだ。
「あるわよ。パソコン見たもの」
夫の顔色が変わった。額に一筋の汗が流れ落ちていった。
沈黙の時間が流れ、ようやく観念したように夫が呟いた。
「どうして欲しいんだ」
夫は眼を閉じて祈るように指を組み合わせていた。
「あの子のことは忘れて欲しいの」
まだやり直せるかもしれない。私に対する愛情が少しでも残っているのなら。
「相手は中学生の女の子よ。本気になっても振り向いてなんてもらえないん……」
俯いていた夫が静かに顔を上げ、私と眼を合わせた。泣きそうな、それでいて不思議と穏やかな表情を浮かべていた。
「なんだ。やっぱりわかってなかったんだな」
「え?」
「レイは、女の子じゃない」
「は?」
「お前はきっとデスクトップの写真しか見てないんだろう。中を見ればわかったのにな」夫が自嘲気味に呟く。
夫の言うことが頭に入ってこない。写真でも今日実際に見ても『レイ』は確かに女の子だった。セーラー服を着ていたし…。そこまで考えてふと気付いた。
「もしかしてあのキーボードの……」
「そう。竜崎玲一。彼がレイだよ」
それで何もかも合点がいった気がした。
何年も前にEDと診断された夫が最近になって急にセックスができるようになった理由。フードコートでキーボードの男の子が笑うたびに、泣きそうな顔で見つめていた理由。
『どうして欲しいんだ』なんて聞いた割には、私に選択肢なんてなかったのだ。
夫は男の子、あの竜崎玲一のことがストーカー行為をしてしまうほど好きなのだ。勝ち目なんて、もうとうの昔になかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます