第9話 マヌタラの卵 (チリ共和国イースター島)
1.
篝火は夜空に緋色の粉を吹きちらし、”ホア・ハカ・ナナ・イア(波を打ち砕く師)”の端正な顔(注①)を照らした。
モアイの
およそ千二百年前、最初にラパ・ヌイに到着したホトゥ・マトゥアたち(注②)も、こうして夜明けを待っただろうか――。
キオエは薪のはぜる音を聞き、焦げた炭のにおいに鼻をひくつかせた。斜め下を見ると、メラヒの視線と出会う。彼女は両手を胸のまえで組み、大きな
この儀式が終わったら、結婚しようと約束している。もっとも、キオエが晴れて鳥人タンガタ・マヌ(注③)になれたなら、潔斎に入るため、一年間は会えないのだが。
鳥人儀礼の勝者となって創造神マケ・マケから
ドン……と太鼓が鳴る。
直後、炭を塗りこめたような闇の真ん中に紅い灯が点り、強く輝いて水平線と空をきりさいた。真っ赤な光が、みるまに夜の
ドン! と再び合図の太鼓が吼える。
ホプ・マヌたちはオロンゴ(注④)を駆けだした。海へつづく急な斜面を、われさきに駆けおりる。応援の人々の喚声が、わあっと地を揺らす。
葦を束ねた小さな浮きを脇にかかえ、キオエはまだ暗い海へとびこんだ。
2.
むかし、ポリネシアから一族ハナウ・モモコを率いて航海に出発したホトゥ・マトゥアは、ラパ・ヌイ(イースター島)の北東、アナケナ湾に到着した。ラパ・ヌイは巨大なヤシの木がそびえ、深い森におおわれた島だった。
ホトゥ・マトゥアは、石の祭壇アフを築き、創造神マケ・マケに豊かな島を与えてくれた感謝の祈りを捧げた。
その後、耳長族ハナウ・エエベがやってきて、島に住みついた。ふたつの部族はそれぞれ村を築き、アフとモアイを築いていった。
人が殖えると、島では食べものや木材が足りなくなり、奪い合いが始まった。戦争は、互いの村を護る先祖のモアイを倒し、ときに勝者が敗者を焼いて食べる悲惨で烈しいものになった。
*
ある老女が、村同士のいさかいから逃れ、海辺の洞窟のなかに隠れ住んでいた。彼女はひとつの
髑髏と老女は、マチロヒヴァという島の海岸にうちあげられた。老女はそこで気を失った。
老女が意識をとりもどしたとき、ひとりの男が彼女の顔をのぞきこんでいた。男は、驚く老女に
「お前は誰だ? どうしてこんなところにいるんだ?」と訊いた。
「髑髏を探しているんです」
と老女が答えると、男は、
「あれは髑髏ではない。マケ・マケという神だ。私はハウアという。マケ・マケに仕える者だ」
と名乗った。男が髑髏を祭壇に祀ると、中から鳥の頭と人間の体をもつマケ・マケ神が姿を現した。
ハウアとマケ・マケは、マチロヒヴァ島で渡り鳥を獲ったり魚を捕ったりして暮らした。マケ・マケは、老女にも獲物をわけてくれた。ラパ・ヌイには鳥がいなかったので、老女は鳥の肉が好きになった。
「どうしてラパ・ヌイには、こんなに美味しく食べられる鳥がいないのだろう?」
老女の言葉を聞いたマケ・マケは、ハウアと顔を見合わせて提案した。
「この鳥をラパ・ヌイに連れて行こう。あそこの人々は喜ぶだろう」
マケ・マケとハウアは、鳥の群れを連れてラパ・ヌイへ渡った。食べ物が足りず困っていた村人たちは、たいそう喜び、ふたりに礼を言った。
しかし、鳥というものをよく知らなかった彼らは、あっという間に食べつくしてしまった。島には鳥がいなくなり、人々は神が来てくれるのを待つしかなくなった。
数年後、鳥の様子をみにラパ・ヌイを訪れたマケ・マケとハウアは、鳥が一羽も残っていないと知って呆れた。ふたりは再び鳥の群れを連れて行き、人々に言い聞かせた。
「よいか。鳥は卵を産むのだ。卵を産む前の鳥を食べてしまってはいかん。わかったな?」
村人たちはうなずいた。
マケ・マケ達が去った後、鳥たちは巣作りを始め、たくさん卵を産んだ。けれども島の人々には、これがどういう意味か分からなかった。
そのうち、村人のひとりが言いだした。
「おい、大変だ! この卵は凄く美味いぞ!」
そこで人々は、鳥だけでなく卵も全部食べてしまった。結局、島にはまた鳥がいなくなったので、人々はマケ・マケが来てくれるのを待った。
三度目に島を訪れたマケ・マケとハウアは、鳥がたくさん殖えていることを期待していた。ところが、鳥は一羽もいない。ふたりは村人を捕まえ、詰問した。
「おい、鳥に卵を産ませてやれと言っただろう? 出来なかったのか?」
「はい、ありがとうございました。卵があんなに美味しいものとは知りませんでした。それで、全部食べてしまいました」
「なんだって?」
マケ・マケと神官ハウアは、ほとほと呆れ果てた。
「彼らには、先の見通しを立てるということが出来ないのだ。どうしたものか……」
仕方なく、ふたりは鳥の群れをラパ・ヌイではなく、対岸のモトゥ・ヌイという無人島(注⑤)へ導いた。鳥たちは安心して巣を作れるようになり、たまにラパ・ヌイへ飛んで行った鳥だけが村人たちの食料になった。
3.
空が明るくなってきた。春とはいえ九月の海はまだ冷たく、波は高い(注⑥)。浮きを抱えたキオエたちは、激しく揺さぶられ、流されそうになりながら泳いだ。
葦の浮きの中には、モトゥ・ヌイ島で過ごすための数日分の食料と、マフーテ(カジノキ)の樹皮布が入っている。キオエのものはメラヒが用意してくれた。ホプ・マヌたちの成果には、各部族の
キオエたちは、鍛えた筋肉に描いた渦巻きや風神ホアハカ、マヌタラ(セグロアジサシ)のタトゥーをひらめかせ、力強く波をかいた。その姿は、オロンゴの崖の上から見守っている人々には、紺碧の海を飛ぶ鳥の群れのようにみえた。
岸から沖へ二キロメートル、するどく立ち上がった剣のようなモトゥ・カオカオ(細く小さな島)の脇をすりぬけ、モトゥ・イティ(小さな小さな島)の岩の上でひとやすみしたのち、ホプ・マヌたちは目的地モトゥ・ヌイに上陸した。創造神マケ・マケがマヌタラの群れに与えた聖なる島だ。
男たちは、島をおおう草のなかにマヌタラたちが巣を作っているのを確かめると、小さな岩の洞窟に入った。洞内には、ラパ・ヌイの他の洞窟と同様、マケ・マケ神や鳥人タンガタ・マヌ、
これから数日間、マヌタラが最初に産んだ卵をみつけるまで、ここで待機するのだ。キオエは、メラヒの織ったマフーテの布を体に巻いて寝た。
波は高く、潮の流れは速く、海には
4.
翌朝から、卵さがしが始まった。
マヌタラたちが餌を獲りに島を離れている間に、男たちは洞窟から出て、ひとつひとつ巣の中をのぞいた。うっかり巣を壊したり、卵や親鳥を踏みつぶしたりしたら、マケ・マケ神の加護は得られない。彼らは
日が暮れて鳥たちが戻ってくると、キオエたちの探索も終了する。初日は誰も卵をみつけられなかった。男たちは安堵と落胆をおぼえながら就寝した。
翌日も、その翌日も、卵はなかった。男たちは、誰が最初の卵をみつけるだろうかと、互いに警戒していた。水と食料が減るにつれ、彼らの焦燥はいや増した。真っ赤に膨らんだ夕陽が水平線に沈む瞬間、その頂点が緑色に染まる現象――観ると幸せになれる
頭のなかを占めるのは、卵、タマゴ、たまご……マヌタラの卵のことだけだ。
四日目。鳥たちが群れをなして波の向こうへ去った後、巣を探っていた男のひとりがあっと叫んだ。続いてもうひとり。キオエが弾かれたように振り返る視線の先で、卵を得た男は 『鳥の叫び』 と呼ばれる岩によじのぼり、聖地オロンゴへ向かって握りこぶしを突きあげた。
「あったぞ! 最初の卵だ!」
続いて二番目の男が岩に登る。叫び終えた男は
儀式はまだ終わってはいない。
キオエは焦り、目をかっとみひらいて叢をかきわけた。と、丸く籠状に作られた巣の中に、小さな卵がひとつ置かれていた。やさしい淡紅色の地に褐色の斑が散っている、まだほんのり温かいそれを、キオエは慎重にすくい獲った。
「みつけたぞ! マヌタラの卵だ!」
対岸の崖の上で、彼に応える人々の声があがったように思えた。
5.
キオエは卵をしっかり髷の中に挿しこむと、急いで岩を下り、浮きを抱いて海へとびこんだ。波の高さも水の冷たさもものともせず、泳ぎだす。先頭の男はすでに海峡の半ばへさしかかっている。
風は向かい風で、男たちの体には疲労がたまっていた。しかし、今は目前に希望がある――勝利が。キオエは、息をつぐ暇すら惜しんで泳いだ。
岸に着いたとき、キオエの心臓は胸腔内でとびはね、どくどくという脈の音のほかは何も聞こえなかった。浮力を失った体は重く、足が砂に埋もれたが、構っている余裕はない。男たちは浮きを投げ捨て、次々に崖を登る道にしがみついた。二五〇メートルの断崖を、時に這い、時によろめきながら登っていく。
キオエの目に、青い空を背景に日差しを反射してきらめく
先頭の男の背が、迎えの人々の間に駆けこむのが見えた。キオエはひゅっと息を吸い、最後の力をふりしぼった。
◇
今年の鳥人タンガタ・マヌは決まり、首長は選ばれた。みごと最初に卵を届けたホプ・マヌは、首長とともに洞窟にこもり、一年間潔斎する。その間は家族にも友人にも会えない。
一番になれなかったキオエは、残念ではあったが、同時にほっとしていた。かつて敗者となったホプ・マヌは人身御供にされたというが、今はそんなことはない。何ものにも代えがたい栄誉と達成感があるだけだ。――そして、
「キオエ」
両手を膝において呼吸を整える彼の傍らに、柔らかな気配がよりそった。メラヒだ。アスクレピアス(トウワタ)の花を髪に飾り、水を入れた器を手にした彼女は、彼の背に片手をあてた。榛色の瞳が誇らしげにきらめく。
キオエは、笑って彼女を抱きしめた。
~『Shakin' The Tree』第九話・了~
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『Shakin' The Tree』第九話、解説
《チリ領イースター島(ラパ・ヌイ)》
ポリネシアン・トライアングルの東端に位置する火山島。正式名は 「イスラ・デ・パスクア (スペイン語:Isla de Pascua)」、現地の名は 「ラパ・ヌイ (ラパ・ヌイ語)」 です。チリの首都からは3700km、タヒチからは4000km以上離れています。現在の島民は6000人です。
四~五世紀、タヒチ或いはサモア諸島から最初の住民(ポリネシア人)が渡って来ました。七~八世紀頃より石の祭壇(アフ)が作られ、十世紀ごろよりモアイが建てられるようになりました。モアイは凝灰岩を石斧を用いて削った首長の像と言われます。十七世紀ごろまでモアイは作られましたが、十八世紀以降は作られず、部族間の 「モアイ倒し戦争(フリ・モアイ)」 によって破壊されていきました。
1722年のイースターの日、オランダ海軍のヤーコプ・ヘップファーンが島を発見しました。
1774年、イギリス人のジェームズ・クックが上陸します。
十八~十九世紀にかけ、西欧人とペルー人による奴隷狩りと外部から持ち込まれた感染症(天然痘、結核など)により、島民は激減しました。当時の王族や知識階級も死に絶え、文化の伝承は途絶えてしまいます。3000人いた島民が、1872年にはわずか111人に減っていたそうです。
1888年にチリ領となり、島全体が 「ラパ・ヌイ国立公園」 に指定されました。
1995年に世界遺産に登録されました。
「鳥人儀礼」
モアイ倒し戦争(フリ・モアイ)が行われた十七~十八世紀、祖先(モアイ)に対する信仰は衰退し、代わりに創造神マケ・マケに対する信仰が隆盛しました。マケ・マケの化身である鳥人崇拝から生まれた儀礼が「鳥人儀礼」です。
島の宗教指導者たちは、島の南端オロンゴに儀礼のための集落をつくり、石板(ケホ)を積んで家を建てました。毎年七~八月になると、モトゥ・ヌイ島に渡り鳥マヌタラ(セグロアジサシ)が来て営巣します。各部族から選ばれた族長の代理人ホプ・マヌたちは、ラノ・カウ火山の麓で崖のぼりや水泳の訓練を重ね、渡り鳥の到来を待ちます。鳥がくると、彼らは特別な食事をとりボディ・ペイントをして、海峡を泳いで渡ります。島に着いたら洞窟内で待機し、マヌタラが産んだ最初の卵を持って泳ぎ帰ります。崖をよじ登ってきたホプ・マヌから最初に卵を受け取った族長が、その年の鳥人タンガタ・マヌとなって島を統治しました。
この儀礼は、島の統治者が、世襲ではなく実力によって戦士階級から選出される制度への移行を示し、部族間の争いを終わらせました。しかし、西欧人が来て文化が衰退し、1866年を最後に行われなくなりました。現在は、この儀礼をモデルにしたトライアスロンが、年に一度の島民の祭り 「タパティ祭り」 で行われています。
(注①)ホア・ハカ・ナナ・イア(波を打ち砕く師): ラパ・ヌイで最も崇拝されるモアイ、玄武岩で作られている。現在は大英博物館所蔵。
(注②)ホトゥ・マトゥア: 最初にラパ・ヌイに渡った人物、伝説の王。アナケナビーチに到着、四~五世紀とも十二世紀ごろとも。ポリネシアの習俗では新しい島ではリーダーが王となり始祖として神となる。
(注③)鳥人タンガタ・マヌ: 創造神マケ・マケの化身で、鳥の頭と人間の体をもつ。
(注④)オロンゴ: 島の最南端にあるラノ・カウ火山、この外輪山の南の先にある聖地。
(注⑤)モトゥ・ヌイ(大きな小さな島): ラパ・ヌイの南方、約2km離れた海にある無人島。鳥人儀礼の目的地。ラパ・ヌイとの間に モトゥ・カオカオ(細く小さな島)と、モトゥ・イティ(小さな小さな島)がある。
(注⑥)南半球のイースター島では、九月は春。
(注⑦)髷(まげ): ラパ・ヌイ人の風習で、髪を切ると霊力(マナ)が失われるとされ、男は長く伸ばした髪を髷に結い上げた。
(注⑧)タウラレンガ(四つの入り口のある家): 玄武岩の石板(ケホ)を積んで作られた家。
本作品は、十七世紀に行われた鳥人儀礼の様子を想像して書きました。
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