第8話 獅子と少年 (アフリカ・カメルーン共和国)


1.

 したたるような黄金の満月が、紺青の空にのぼった。

 虫も獣も息をひそめる草原サバンナを、女はひとり彷徨っていた。大きくふくらんだ腹を抱え、空腹と悲しみによろめきつつ。

 女は奴隷だった。主人の子どもを身ごもったために第一夫人にうとまれ、家を追い出されてしまったのだ。肉食獣の気配におびえつつ、安全に出産できる場所をさがしていた。

 町の灯りがほとんど見えなくなったところに、巨大な岩が重なり合っていた。周囲には木々が繁り、ちょうど目隠しになっている。女はじゅうぶん気をつけながら身をかがめ、岩と岩の隙間に這いこんだ。内部はすわって頭をあげられるくらいの広さになっている。女はほっと息をついた。

 ここなら大丈夫だろう。ひらけた草原では、産まれたばかりのシマウマの仔やガゼルの母子が、血のにおいを嗅ぎつけたライオンやハイエナに襲われている。この穴の中なら、狙われることはあるまい。

 女は居ずまいをただし、やってくる陣痛にそなえた。



 小さいが力強い赤ん坊の啼き声を耳にすると、女の全身からどっと安堵の汗がふきだした。彼女は我が子を抱き上げ、ぎこちない手つきでへそを切った。後産あとざんの痛みに耐え、張った乳房に赤ん坊の顔をおしあてる。無事に出産を終えた感慨にふける彼女の額を、岩の隙間からさしこむ月光が優しく撫でた。

 呼吸をととのえる若い母親の耳に、そのとき、低い唸り声がとどいた。

 女はびくりと身をすくめ、おそるおそる首をめぐらせた。彼女ひとりでいっぱいな穴の奥に、細い闇の裂け目がある。目を凝らすと、闇のなかに金緑色の光がふたつ並んでいるのが見える。こちらをじっと凝視みつめる眸のさらに奥から、威嚇する声が聞こえた。

 女は息を呑み、赤ん坊を抱く腕に力をこめた。出産で体力を使い果たした今、逃げることはできない。産まれたばかりの赤ん坊とともに、ここで喰われるのか……と思いかけ、妙なことに気づいた。

 ぐるぐるという声に、哀切な響きが含まれたのだ。怯えているような、痛みに耐えているような――

 牝ライオンはまさに出産中だった。安全を求めて岩陰に身をひそめたのに、そこへ彼女が侵入し、逃げるに逃げられずにいるうちにお産が始まったのだ。母子を襲うどころではなかった。


 こうして、同じ日、同じ場所で、一匹のライオンと一人の人間が誕生した。



2.

「あまり遠くへ行っては駄目よ」

「はあい!」

 奴隷の女が産んだ子はすくすくと成長し、活発な少年になった。ライオンの仔も、元気よく成長した。二組の母子は岩陰の穴で同居している。

 母ライオンは気持ちよさそうに岩の上にねそべり、草原を見渡している。その金緑色の眸は獲物を狙う猛獣のものではなく、我が子の成長をよろこぶ母のものだ。

 彼女たちは協力して子ども達を育てていた。

 母ライオンが狩りに出かけている間、女は息子とライオンの仔を守った。女が瓢箪ひょうたんを持って水汲みに行っている間は、母ライオンが赤ん坊に乳を与えた。母ライオンが狩ってきた獲物を女が料理し、女が得た獲物を彼女たちは一緒に食べた。

 子ども達は、独特の言葉をもちいて意思を通じさせた。二人と二匹は家族として、不自由なく暮らしていた。

 人間の母親が、ライオンに襲われるまでは。


 ある日、いつものように川へ水汲みに行った女を、見ず知らずのライオンが襲った。彼女は一撃で殺され、群れを養うために引きずられていった。彼女が帰ってこないことを心配したライオンの母子と少年は、惨劇の跡をみつけて事情を知った。それ以降も、母ライオンは少年を我が子とともに育て続けた。



 成長した少年は、人間の暮らしに興味を示すようになった。彼は母ライオンにきりだした。

「お母さん。ぼくは人間の町へ行こうと思う」

「そうだね。お前には人間の仲間が必要だろう。行くがいい」

「今まで育ててくれて、ありがとう」

 こうして少年は町へ戻った。人々は彼の出自に驚いたが、温かく受け入れた。少年は学校へ通い、人間の暮らしに馴染んでいった。



3.

 学校を卒業した少年は靴を売る商売をはじめ、得た利益を元手に牛の飼育をはじめた。財産は順調に殖えていった。他の牧場がライオンに襲われても、彼の牛たちは襲われなかったからだ。

 豊かになった青年は、結婚したいと考えた。彼はライオンの弟に相談した。

 たてがみを生やした若ライオンは、首を傾げて彼の話を聞いた後、提案した。

「僕は娘たちが水浴びをする場所を知っている。君はそこへ行って、好きな娘を選ぶといい。僕がその娘を襲うから、君は僕を追い払うんだ」

「分かった」

 彼らは川へ、娘たちが水浴びをする場所へ出かけた。そこで若ライオンは大声で吼え、牙をむいて娘たちに襲い掛かった。逃げ惑う娘たちのうち、ライオンは王の娘だけを追いかけ、押し倒した。

 青年は王に駆け寄った。

「僕に任せて下さい。ライオンを追い払ったら、王女様と結婚させてくれますか?」

「分かった。王女を助けてくれたら、結婚させよう」

 首尾よくライオンを追い払った青年は、王女と結婚することができた。


 作戦がうまくいって得意になった若ライオンは、新婚の兄に告げた。

「これから毎晩、君は僕にご馳走を食べさせてくれ。それから、日差しから守るためにバターを僕の体に塗って欲しい。いいだろう?」


 

 青年は、夜ごと大皿に肉料理をのせ、牧場のはずれで待つライオンの弟のところへ届けた。

「持ってきたよ!」

 若ライオンは、彼が来ると喜びに喉をごろごろ鳴らして迎え、一緒にごちそうを食べた。時には町はずれの草原へともに狩りに出かけることもあった。母ライオンは老いて死に、若ライオンはひとりきりになっていたのだ。

 ひとしきり遊ぶと、青年は弟の体にバターを塗って労をねぎらい、夜明け前に別れた。

 豊かなたてがみを生やした若ライオンは、青年の住む町の周りをなわばりにした。彼は決して人間の家畜を襲わなかったので、町の人々はライオンの被害に遭わずにいられた。

 数年間、彼らはこういう暮らしを続けた。

 


4.

 ある夜、青年はひどく疲れていて、ライオンの弟のところへご馳走を持って行くのが遅れた。腹をすかせた若ライオンは、兄の屋敷の窓の下へ来て、吼えて催促した。

 青年はついぼやいた。

「なんてことだ。いつまでこんなことを続ければいい? アッラーが槍で突いて、あいつを追い払って下さればいいのに」

 小声だったが、その呟きはライオンの耳に届いた。弟は驚いて黙りこんだ。


 兄がご馳走を持って階下へおりていくと、ライオンの弟はくらむらのなかに座り、項垂れていた。ライオンは食事を食べず、バターを塗られることも拒んだ。

「どうしたんだ?」

 青年が不審に思って問うと、弟は唸るように答えた。

「君は、誰かが僕を槍で突いて追い払えばいいと言っただろう。触ってみろ、傷があるか?」

 青年は(しまった)と思ったが、黙って彼の体に触れた。

「傷なんてないよ」

「そうだろう。では、君のナイフで僕の脇腹を刺すといい」

「冗談だろう? そんなこと出来ないよ」

「やらないと、僕は君を噛み殺すぞ! さあ!」

 兄弟はしばらく言い争っていたが、結局、青年はナイフを手にとり、ライオンの弟の脇腹にうすく傷をつけた。ライオンは痛そうにしていたが、しばらくすると、よろめきながら草原へ去って行った。



5.

 それから何年も、ライオンは青年の前に姿を見せなかった。青年は大人になり、子どもを数人得て幸福にくらしていた。ときどきライオンの弟のことを思い出し、寂しいと感じたが、探そうとは思わなかった。


 晴れた満月の夜、ひとりで屋敷の庭にいた男のところに、一匹の牡ライオンがあらわれた。黄褐色の見事なたてがみを持つライオンだ。男は驚いたが、すぐに弟のライオンだと分かった。

 ふたりは懐かしさに歩み寄り、挨拶を交わした。兄はまた弟の体にバターを塗ってやった。

「今までどこにいたんだ? また仲良く暮らそう」

 牡ライオンは、たてがみを振って答えた。

「あのとき君が僕の体につけた傷は、残っているかい?」

 兄は彼をざっと眺め、それから手で脇腹にふれた。

「傷なんて分からないよ。消えてしまったんじゃないか」

 牡ライオンは金緑色の眸で彼をみつめ、静かに言った。

「傷は治ったよ。傷痕には毛が生えて、すっかり消えてしまった。でも、君の言った言葉の傷は癒えていない。あの言葉は僕の心に深く刺さり、手に負えないんだ。……僕はもう間もなく死ぬ。僕が死んだら、センダンの葉で体をおおっておくれ」

 そう言うと、牡ライオンは死んでしまった。


 男は兄弟同然に育ったライオンの死を悼み、センダンの葉で彼の体をおおい、丁重に弔ったという。





~『Shakin' The Tree』第八話・了~

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『Shakin' The Tree』第八話・解説


《カメルーン共和国》

 中央アフリカに位置し、周囲をナイジェリア、チャド、中央アフリカ、コンゴ共和国、ガボン、赤道ギニアに囲まれています。首都はヤウンデ、面積は約48万平方キロメートル(日本の1.3倍)、人口は約2600万人(2020年世界銀行)です。

 公用語はフランス語、英語。バンツー系のバミレケ族、ファン族、フルベ族など、約250の部族が暮らしています。宗教はカトリック、プロテスタント、イスラーム教、自然崇拝などです。綿花、カカオ、コーヒーの生産で有名ですが、最大の輸出品は原油で総輸出の40%を占めています。

 もとはドイツ帝国の植民地でしたが、第一世界大戦でドイツが敗れた後(1922年)、イギリスとフランスの植民地に別れました。

 1960年に仏領カメルーンが独立、1961年に英領カメルーン(南カメルーン)が独立し、同年に合併して連邦制になりました。1972年に連邦制を廃止し、正式に共和国となったのは1984年からです。二院議会制で大統領制をとっています。

 1990年に複数政党制になってからは、議会・大統領・地方選挙などで民主化プロセスを進めています。


 2013年以降、北部でイスラム系過激派組織「ボコ・ハラム」による誘拐や暴力事件が発生。2016年からは英語圏地域で独立分離派と治安部隊の衝突が起きています。2019年以降、国民対話がすすめられています。現地の安定と平和をお祈りします。


 本作品は、北部カメルーンに暮らすフルベ族から蒐集された民話に基づき、脚色・編集再話しています。 

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