第8話 白百足

 ギャーッって叫び声。ドカン、ドサッという普通じゃない物音が連続して聞こえた。

 同棲中の彼女の部屋から。彼女は妊娠してるんだが籍はまだ入れてない。


 駆け付けると、彼女はドアのすぐそばの部屋の隅にいて、対角線上の隅に向かってそこらへんの本やら何やらを投げつけていた。その隅には2メートルくらいありそうな白い蛇がうねっている。彼女はウネウネ系の生き物、蛇とかミミズとかが死ぬほど嫌いだ。

 机の上の木製の小さな棚まで投げた。棚っていうかレターケースみたいなやつね。ヒステリーの最中とはいえ、木製のケースは凄い勢いで部屋の隅から隅まで飛んで行った。そんなに力があるとは思ってもいなかった。

 その棚が蛇の頭を潰した。

「イヤーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 彼女はさらに絶叫した。

 ただでさえ気持ち悪くて恐ろしいものが、あたりに血をはじめ気味悪い液体を飛び散らせたんだ。自分でやったこととはいえね。ビタビタビタビタビタアって蛇の胴体がうねり狂って、しばらくしたら動きがゆっくりになって、やがて動かなくなった。

 彼女は俺が来たのに気づいて、しゃくりあげながら抱きついてきた。

 妊娠でホルモンとかのバランスが崩れてるとはいえ、まあそのくらい蛇が嫌いなんだ。

 抱きしめて背中をポンポンと叩いてあげ、リビングに連れてって落ち着かせる。まだ泣きながら、どうしようあんなの掃除できないよとか言ってる彼女に、全部俺がやってあげるからと、とにかく宥めた。お腹の赤ん坊が本当に心配なくらい取り乱していた。

 実際、ヘビの死体の後始末は俺一人でやった。

 ビニール袋何重にもグルグルに詰めて、近くのコンビニのゴミ箱に入れてきた。血や汁が飛び散ったところは洗剤で本格的に洗って、彼女が納得するまで完全にきれいにした。


 甘いと思うだろうけど、ほんとに可哀想な娘だった。

 兄弟が多いくせに、家族は誰ひとり高校卒業してない。刑務所に入ってるのまで2人もいる。ていうか本人も高校は卒業してない。中学で酷いイジメに遭って不登校になって、そのまま進学しなかったらしい。兄弟もギャンブルで借金こさえてくるわ他所とトラブル起こすわ、家庭内で暴力振るわれることもしょっちゅうだった。自殺もよく考えてたらしい。俺という彼氏ができると、すぐ一緒に住みたいと言ってきた。家から逃げたかったんだな。

 いつも、俺に出会えて幸せだって、今でも夢みたいだって言ってくるんだ。俺だって金も学歴もない、見た目も全然ランク高い男じゃないのに。俺のこと「マンガに出てくる彼氏みたい」って言うんだよ。どこがそうなのか聞いたら、優しいって。殴らない男初めて見たって。それだけなんだよ。普通に優しくしただけなんだけど、それが彼女にとっては、少女マンガの夢の世界の話でしかなかったらしいんだ。

 そういう家族関係のある子だからさ。俺、両親に結婚を反対されてて籍も入ってなかったのね。でも俺は心底彼女に同情してたし、必ず一緒になると心に決めていた。


 でも、その日を境に、俺らに……特に彼女に悪い事が続くようになった。

 車に轢かれそうになったり、飛んできたボールが目に激突して大痣を作ったりがしょっちゅうになった。包丁で指を切ったりする事故も増えた。そのたびに「お腹は打たなかったよ、大丈夫」と子どものことばかり心配してたが、生傷が絶えず痛々しい。

 ある日、駅のホームに2人でいるときに、とつぜん「ドン!」と突き飛ばされたように前のめりになったんだ。よりによって通過列車が目の前にいる時だ。

 俺と腕を組んでなかったら、彼女はもうこの世にいなかったはずだ。

「誰だ!!」と怒鳴って後ろを振り返っても誰もいなかった。

 彼女の注意力が妊娠中のホルモンバランスとかで落ちてる、それだけが事故の原因じゃないんだとその時分かった。

 さらに最悪なことに、彼女が俺んちにいることが彼女の実家にバレた。

 彼女が一番恐れている家の人間だ。柄の悪い奴らが金を無心に来るようになった。家から出るところを待ち伏せまでされるようになった。警察に連絡したが、動機が恋愛でないと法律的にはストーカーにもならないらしい。民事不介入と言われたので、常に俺と連れだって外に出るようにした。

 彼女はだんだん精神的に参ってきていた。

 普通の状態ならともかく、今の彼女は妊婦だ。ほうってはおけない。

「お前も赤ちゃんも、絶対守るから」

 そう約束してみたものの、外出時に護衛してやることと、家に来た時に追い返す以外には特にできることはない。


 そんなある晩。

「ギャアアアアアアアアーーーーーーーーー!!」

 彼女がとんでもない叫び声を挙げて、一緒に寝てた俺は飛び起きた。


 震える彼女の指先の向こう。とんでもないデカさのムカデがいた。

 でかいムカデ見た事あるって言っても30cmぐらいだろ? その何倍もあった。しかも真っ白いのが。完全に化物だった。

 さすがに二人とも部屋を飛び出したよ。

 とにかくピッタリとドアを閉め、その夜はリビングに置いてある炬燵の中で寝たよ。

 翌日バルサン買ってきて、さっと焚いてすぐまた扉を閉める。

 焚き終わった後、おそるおそる部屋を徹底的に調べたが、ムカデなんかどこにもいなかった。

 でも幻覚じゃない。あの夜には2人とも巨大ムカデを見てたんだ。


 白い大ムカデは、それからもしょっちゅう現れた。彼女の嫌な家族とかは来なくなったが、そいつらと入れ替わるようにして纏わりつかれた。

 どんなに殺虫剤を撒いても駄目だった。

 寝ている彼女の体の上を這いまわってた時には体が凍りつき、声さえ出なかった。そのうちに布団に入り込んだ瞬間、俺は彼女を叩き起こした。布団をひっくりかえしても何もいない。

 二人で家を出て、その後はネットカフェに泊った。

 とにかくあんなキモい悪夢みたいな体験を毎晩のようにさせられたら、妊婦の精神が持たない。

 俺の実家に彼女を預かってもらうことも考えたんだが、何しろ俺の実家も彼女との結婚に反対しているので断られた。


 ついに相談した知人の勧めで、ダメ元で神社に行った。

「ムカデ……ですか」

 一連の話を聞いて、神主さんの爺さんはお祓いをしてくれ「もしまた何かあったら来てください」と言われた。

 でもその夜にも、白ムカデは嘲笑うように現れたんだ。

 俺たち二人の周囲をグルグル這いまわって、こっちを見た。そしてまるで、ヒヒヒとでも笑うように、口を上下にカッポリと開けた。

 俺らはただ抱き合ってジッとしているばかりだった。俺でさえ小さく身体が震えているのが自分で分かった。彼女はもう、小さく震えるというレベルじゃなかった。癲癇の人が酷い痙攣を起こしたときのようにガクガクして、歩く事もできなかった。

 自分の震えをむりやり押さえて俺は立ち上がった。彼女を抱いて車に乗せ、無理とわかっててもその神社に夜中に駆けこんでチャイムを鳴らして叫んだ。

 神主の爺さんが出てきた。

 キレられて当然なんだろうけど、そうはならずに親身に話に聞いてくれた。

 洋画でさ、教会で懺悔を聞いてくれる神父さんいるじゃん? 本当にあんな感じだった。こっちは夜中に叩き起こしたんだぜ? 何教でも変わらないのかもね、ああいう聖職者ってのは。

 で、神主さんはもう一度お祓いをしてくれて、御守りもくれた。


 でも消えないんだよ!! 出るんだよ毎晩!!


 他の寺や神社にも行ってみた。

 俺ら2人とも頭がおかしくなってるんじゃないかと思って心療内科にも行った。彼女が産婦人科の先生に勧められたんだ。

 一も二もなくその日のうちに受診したよ。

 彼女が通ってた産婦人科が総合病院のだったから、すぐその足で同じ病院の心療内科の受付に行った。

 なにしろ本気で彼女が流産するんじゃないかと気が気じゃなかった。

 それでも駄目だった。あのムカデがどうしてもいなくならない。

 ついに俺は彼女を入院させてもらうことにした。


 一週間ぐらいして。

 最初の神社から電話が掛かってきた。あのムカデについて分かったかもしれないと。仕事休んでその日のうちに行ったよ。

 神主さんは何かの紙をもってきた。写真が印刷されている。

「もしかして、そのムカデはこういうものに似ていませんでしたか?」

 それを見たとたん、俺は叫んでしまった。

「これ!これです!」

 でも叫んだ直後に違和感が凄かった。

 上にネットのURLが書いてあるコピー用紙。いかにも今プリントアウトしましたって感じしかしない。百歩譲ってネットで落としたのはいいとして、元画像じたい古文書や心霊写真じゃなさそうだった。

 オカルトつながりでUMAのインチキ写真の類か? とも思ったけど、なんとなくそんな感じでもない。こんなもんを伝統ある(と思う)神社で年老いた神主に見せられていることに違和感があった。

「やっぱりそうですか」

 年寄りの神主さんはそう言った。

「これはムカデじゃないんですよ。蛇の骨格写真です」

 思わず写真を2度見した。

 違和感の理由が分かった。霊とか神社とか祟りとか、そういうイメージとは縁遠い雰囲気の理由。

『まっとうな理系』の雰囲気だった。

 確かに白かったし、骨格って言われりゃそれっぽいかも……。

「ムカデのお化けに祟られてるとおっしゃるので、私らも心当たりのやり方でお祓いなどやってみたのですが、手応えがなかったのです。それで付き合いのある神職の者に話をしてみたら、たまたま学のある者がおりまして。口が上下に開いたというお話から、蛇なのではないかと教えてくれたのです。ムカデでなく蛇と分かれば、あとはこちらの専門でしたから」

 ムカデなんかキモくてじっくり見たことない。でも神主さんに、ムカデの頭は平べったくて触覚もあると説明されて、確かにそんな気がした。でもこのコピー用紙の写真は、そして俺があの夜に見たあれも、頭がとんがっていた。触覚もなかった。でも足は?

「ムカデの脚に見えるのは肋骨です」

 そうなんすか。

「蛇は家の守り神となっていることがあります。お宅でもそうでしたよ」

「俺の実家のことまで分かるんですか」

 神主の霊感ハンパねえ。

 後で俺の祖母から聞いたところ、その神社から電話があったらしい。家の守り神とか、付き合いのある神社とか聞かれたが、よく分からないと答えると、実家の墓がある寺の名前を教えて欲しいと言われたそうだ。別に構わないだろうと思って教えると「失礼しました」と電話を切ったそうだ。

 さすがに気になって寺に行って聞いてみた。


 住職は「あそこは信用のおける神社さんだから大丈夫ですよ」と請け合っていた。寺では俺の爺さん婆さんの何代も前の人から近所付き合いがあり、祭りの歴史とか、地元にどんな信仰や風習があったかとか、そういうのを家単位で知ってるんだという。俺はその時まで、いたって不信心な人間だった。寺なんか葬式や墓の管理やってくれる業者くらいに思ってたんだけど、心底感心した。


 つまり、最初に彼女が棚投げつけて殺したのが、そもそも守り神として出て来てくれたものだったらしい。でも神主さんによると、ムカデ――じゃなくって蛇の神様は、彼女に殺されたのを恨んで祟っているわけじゃなかったらしい。

 彼女が家から持ってきた色んな悪い空気、嫌なものが寄りつきそうなものから、死んでもまだ守ってくれていたらしいんだ。確かに、ムカデだと思ってたあれが来るようになってからは、それ以外の事故や、彼女の家族による迷惑行為がなくなっていた。

「でも、蛇を殺したのに祟られなかったんですか」

 俺は当然の疑問をぶつけてみた。

「お二人がちゃんと結婚していたら危なかったでしょう」と言われた。

 俺らが正式な結婚をしてなかったから、家の者が神様を裏切ったとは見なされなかったらしい。

 今後も籍は入れない方がいいだろうとのこと。


 そもそも彼女が俺と出会うまでの色んな不幸には、少なからず霊障の要素もあっただろうという。俺の子を宿していた間、それらを神様が遠ざけていてくれてた。彼女が殺した事で一時期それがなくなったけど、それでもまた俺の子を守りに帰って来てくれていたらしい。骸骨の蛇になってもまだ。

 それがあの「大きな白いムカデ」の正体だった。

 話を聞いて、信仰心のない俺が自然と手を合わせていた。頬を涙が伝うのが分かった。

 ありがとう、神様。本当にありがとう。


 でも、一つ懸念があるらしい。

 彼女が神様を殺したにもかかわらず何もされず、逆に守ってくれてたのは、守るべき家の者-―俺の子が彼女のお腹の中にいたから。子どもが生まれるってことは、神様を殺した彼女と、神様が守ってくれてる子が別々になってしまうということ。

 そうなった時に神様がどう出るか。

 何もないかもしれないが、一転して彼女は祟られるかもしれないという。

 彼女の不幸を遠ざけてた、つまり今まで彼女を不幸にしていた“悪いものたち”よりも、もっと強い神様に。

 祟られなくても、彼女は庇護から外されるだろう。そしたらまた彼女には悪いものが寄りついてくるだろうし、結果として俺も少なからぬ迷惑を被るのではということだった。


「そうなったら別れますか?」


 俺は首を振った。絶対嫌だと言った。

 神主の爺さんはにっこり笑って、できるだけのことをしようと約束してくれた。


 あと1月半で、俺たちは娘を授かる。

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