第2話 少女と世界

ミレニアは気管に入った水を咳き込み、排出する。

背後にある湖には可哀想な鉄の翼がほんの少し顔を覗かせていた。

ミレニアは僅かな怒気を孕んだ瞳でファルを睨めつける。


「やぁ⋯怖い顔で見ないでくれ」


ファルがおどけた様に両手をヒラヒラと振れば、一瞬怒鳴りつけそうになる、が…

そもそも相手がまともに話を聞いてくれるかどうかと考えると、のらりくらりと躱されて終わりそうなのでぐっと飲み込む。

これはきっと、あの空飛ぶナニカの動かし方を教えなかった父が悪いのだ。

姉の教育はちゃんとしろ、と顔を殆ど覚えていない父親に対し、心の中で八つ当たりをした後。

溜息をひとつ、大きく吐いて感情を切り替える。


「それで、ここからどうするんですか?」


炎月がミレニアを見て瞬きをする、まるでもう切り替えたのかと言いたげだが、

ミレニアにとってファルという叔母は17年間大体こんな人だったので慣れたものであり、もはや修正不可能である事は良く知っている。


「そうさなぁ⋯先ずはお前にある程度の常識を仕込まなければ」

「ファルさんに常識知らず扱いされるのは何だかとてもプライドが許してくれないんですがまあいいでしょう」


けれど、こんな濡れ鼠で街に出たら怪しまれないか? とミレニアは思うのだが、ファルは全く気にした様子なく建物らしき物が見える方向へ歩いていく。

こういう時のファルが何かを聞いてくれるとは思わないので、ミレニアは黙ってついていき、その後ろに炎月も従う。


建物はどうやら大きな街の様でレンガの塀が周囲を覆い、高い建物の一部が僅かに塀から顔を出している様だ。

壁の向こうからは耳を澄ませば雑踏らしき音に混ざってなにか、聞いた事も無い音が沢山している。

塀はこの中で一番身長の高いファルより高く、登れそうには見えない。


「炎月、台になってやるから跳んで塀の上に登ってくれるか?」


ファルは塀のすぐ側に立ちながら腰を落とし、手の上に乗れるようにしている。

ミレニアが不法侵入では? と心配するも、炎月は「ほいきた」と軽く返事して助走をつけてファルの手に飛び乗り、ファルが跳ね上げた勢いを利用して跳び上がる。

⋯そして、塀の向こう側へ落下し、衝撃音が届いた。


「⋯⋯⋯落ちましたね」

「まさかあそこ迄跳躍力が高いとは思わなんだ」


────


「ぃいい⋯ってぇ⋯!!」


落下してしまった炎月は額を抑えて蹲っていた

跳躍した、飛び越える事は出来た、着地も⋯足首をくじく事は無かった

だが、勢いがつきすぎて想定より着地点が塀を通り過ぎて住宅の壁スレスレになった事、そしてその勢いを殺す事が出来ずにそのまま勢いよく前に向かって倒れた事で

額を強かに打ち付けたのだった


じんじんと痛む額に何かを思い出しかける


​───────立て炎月、休んでる暇などないぞ


「うるっせぇな⋯分かってるよ畜生」


と呟いて立ち上がった所で、今の言葉は誰から聞いたのかと首を傾げる

と言うかそもそも、なぜ自分はミレニア達に着いてきたのかとも。


「炎月くん、大丈夫ですか?」


と、塀の向こうからミレニアの心配するような声が聞こえてくる

濡れた服がかなり不快だし頭は痛いし散々だ、と思いつつ炎月は「まぁ」と答えた


「額を強かに打ち付けていたところ悪いんだが塀の上にもう一度登ってくれるか? ミレニアを引き上げなきゃならないからな」


なんで額を打ち付けた事が塀を挟んでるのに分かるんだとか、そんなツッコミを飲み込みつつ炎月は周囲を見渡してみた


現在地点はどうやら街の路地裏

人通りの多い所からだいぶ離れているらしく、雑踏の声や音は聞こえない

炎月が全力で額を打ち付けたのに誰の気配もしない辺り、倉庫なんかが多いのだろうか

人の目は気にしなくてよさそうだ、と判断すると

今度は塀の方に視線を向けて、登れそうな場所を探す

外側同様登るのには適していないように見えるが、内側には幾らかゴミや不用品が積み重ねられており登れそうな所があった

その中からミレニアが降りても大丈夫そうな、安定した足場の多い場所を選んで登る

多少ミレニア達の場所からズレるが、呼べば届く距離なので問題ない


塀から顔を出せば、呼ばずともファルが反応してミレニアを連れて歩いてくる


「ミレニアを持ち上げるから引き上げてくれるか?」


ファルがそう言いながらミレニアの腰辺りを抱えて、軽々と持ち上げる

なんの声掛けもせずにミレニアは大丈夫なのか、と顔を見ればミレニアの表情は何かもう全てを諦めた様な顔をしていた

コレがファルに慣れ切った人間の顔なのか、と炎月は遠い目をしつつミレニアの両腕を掴んで塀の上に引き上げた


「足場悪いから気を付けてなー」


と声を掛けてからファルを引き上げようと振り向いて見下ろした所で、ファルの姿が無いことに気付く

何処に行った、と見回していると後ろから「何をしているんだお前は」と声が掛けられて

慌てて振り向くと「きゃぅん!?」と悲鳴をあげながら転んだミレニアをファルが受け止めていた


炎月は2、3度瞬きをしてゆっくりと目の前の事を咀嚼する

ファルは極当然のように塀の内側に居るし、ミレニアはファルがそこにいるのが当然の事の様に礼を言っている


「⋯⋯記憶喪失の弊害か」


そういう事にしておこう、炎月は胸に刻んだ


────


路地を進むこと数分

何やら管が沢山、壁に並んでいる事にミレニアが気付いた


「ファルさん、これは何ですか?」


ミレニアがそう訊ねれば、炎月がじぃっと視線を投げる

まるで、何故知らないと言いたげなのは何故だろうか


「ああ、そうだったな」


何がそうだったな、なのかは分からないが

ファルはおもむろに管に触れて、何かを確かめるようにさする


「⋯えいっ」


実に軽い一言の後、管が引きちぎられる

管の中に入っていたらしい水が勢いよく3人に襲い掛かる

再び水を被ったミレニアはじとりとファルを睨め付けた


「⋯あの」


公共の物って壊しちゃダメだと思うんですが、と視線でファルに訴えかけるも、ファルはやはり気にしない様子で「これでいいな」と言っている

その説明とやらも宿でするつもりなのか、とミレニアは自分を納得させて何とか大きな声で怒鳴りたくなるのを抑える

炎月をちらりと見れば、困惑した様子はあるものの、深刻そうな顔では無いと分かれば安心して息を吐く

今すぐどうにかなるという訳ではなさそうと、取り敢えずの判断だ

だからと言って壊していい訳では無いのだが

ビショ濡れのまま気にせず進んでいくファルに2人は追従する


────


炎月は納得した


街に出たミレニアはあたりをキョロキョロと見回しながら歩いているため、車に引かれないか炎月はヒヤヒヤしていた

そして実際車が通った時は「新手の羊ですか?」と大真面目に言い出したのを聞いて、思わずファルの顔を見るも

ファルは気にしていない様子で真っ直ぐどこかを目指している


「そうだ、ミレニア。財布は持ってきているか?」


と、ようやくファルが口を開いた

ミレニアが「どうぞ」と不思議そうな顔をしつつ手渡せば、ファルはそのまま方向転換して建物の中へ入っていく


「ここ、は⋯?」

「宿屋⋯じゃねぇかなぁ⋯?」


と、ミレニアより先に看板を見つけていた炎月が答えてやれば

ミレニアは「成程」と言いながら宿屋へ入っていく

どの辺に納得したのかは不明だが、取り敢えず納得したようで良かった、と炎月も若干2人の雰囲気に慣れつつ進む

案の定、他の客からも宿の人間からも、濡れた状態は不審に思われるも

ファルが宿の人間に「途中、管が破裂していてな。水を被ってしまった」と言えば周りの人間は納得した様に視線を逸らす

破裂させたのはファルだが。

破裂というか、引きちぎったのは。


「拭くものと、部屋を一つ用意してくれないか」


とファルが言えば、宿の女主人は同情するような苦笑いと共に了承してくれる


炎月は納得した

確かに、飛空艇が落下しましたなんて言ったら若干引かれるだろう

どんな操縦をしてたんだ、とか思われるのはまあ良いが

何かに追われてたんだとしたらここ迄連れてきてしまってはいないか、と怯えられて追い出されかねない

実際、追われてきたのだし


「ほら、行くぞ」


とファルが声を掛けて歩いて行く

ミレニアは慣れない様子で口を閉じて辺りをキョロキョロと見回し、ファルから離れたがらない様子でついて行く

⋯見た目がちょっと不審だ


────


客間に入り、ベッドに腰を落ち着かせてからミレニアは問う


「⋯一体どういう事なんですか?」


ファルを真っ直ぐに見つめれば、彼女は振り返る

「財布を返そう」と差し出してくるが、きちんと質問は届いているようで、ミレニアの目をじっと見つめ返していた。


「⋯まず、国について教えようか」

「⋯くに?」


「うっそだろ⋯」と声が聞こえたので炎月を振り向けば、信じられないものを見るような表情をしていた

自分の生きる場所の名前を知らない事は、そんなに不思議だろうかと首を傾げる


「⋯国どころか村の名前にすら興味を持たなかったからな、教えなかった」


そんな様子を面白がるようにファルがくすくすと笑う

ミレニアは確かに1度も聞こうとは思わなかった、と思い出す

何故聞こうと思わなかったのか、きっかけはあった気がするのだがいまいち思い出せない。

案外どうでもよかったのかもしれない


「この国の名前はウェルス帝国。皇帝が治める国⋯とだけ覚えておけばいい」

「ウェルス⋯帝国⋯皇帝?」


聞きなれない言葉を一気にぶつけられて首を傾げていると、炎月が「ウェルス帝国は土地の名前、皇帝は⋯あだ名みたいなもん」と補足する


「商会の話はしたな?」


と、ファルが訊ねるので頷きつつ「悪い人達ですよね」と答えれば、ファルは「そうだな」と頷いた

⋯面倒だから説明を省いた気配がしたが、聞いても理解出来る気がしないので、一先ず流す


「今のウェルスは半ば商会に支配されつつある」

「⋯⋯なぜです?」


と首を傾げれば、ファルは言葉を選ぼうとしてくれているらしく

ふむ、と手を口元に近付けて考える様な仕草をする


「⋯機械に依存しているからだな」


最終的に言葉を選ぶのをやめたらしく、結局分かりにくい言葉で告げられて炎月を見つめた

最初から最後まで炎月に説明してもらいたいくらいだが、恐らく炎月はミレニアが何処まで知らないのか分からないだろう

「機械に頼らなきゃ生活できないって事」と何処か呆れ気味に答える炎月に、思わず申し訳ない気持ちになる


「⋯キカイって⋯なんですか?」


と、訊ねれば炎月は唸る

記憶喪失で分からない、と言うよりはどう説明すべきか分からないと言いたげだ

今度はファルが補足しようと口を開く


「ミレニアは井戸の水を汲む時どうする?」

「ポンプを使って汲み上げますが⋯それが⋯?」


「そうだな」と頷くファルの質問の意図が分からずに、視線を炎月に向けるが

炎月もどうしてそんな質問をしたのか、とわからない様子で首を傾けていた


「ポンプを使わず水を汲めと言われたら、どう思う?」

「ファルさんが言った場合私は怒ります、とても」


だろうな、と頷くファルは普段何もしていない自覚はあったらしい

炎月は「⋯ああ」と納得した様に声を上げる

「つまりどういう事ですか?」と訊ねれば炎月は


「機械ってのは、便利な道具で。それを作って売ってるのが商会の奴らで。それを禁止されたら困るくらい機械が使われてるって事」


何となく把握する。

確かに、今から手で一回一回水を汲み上げろと言われたら難しい。

ミレニアはほとんどその方法を知らないし、あの井戸には滑車がついていないので全て自分の力で引き上げなくてはならない


「機械を作る、直す、設計する技師を商会はほぼ独占したからな。技師を無理やり商会所属にさせることで、商会の力無しでは社会が成り立たないようにした」


君の祖父も、無理矢理所属させられていた

と何処か苦く笑うファルはミレニアの知らない顔をしていた


「お前の父で⋯私の弟は、最後の無所属技師⋯と言うべきか。商人ギルドや職人ギルドなんかにも全く登録していないらしいしな」

「⋯ギルド?」


首を傾げれば、炎月がファルをじっと見つめていた

ファルはそう睨むな、と言いたげに肩を竦めている

無言の内に会話が終わったらしく、炎月がため息と共に教えてくれる


「俺国についての知識とかそんなに詳しくないんだけどなぁ⋯ギルドっていうのは⋯そうだな⋯ミレニアって何してたんだっけ?」

「羊を飼っていました、売りに行ったりするのはファルさんに任せていましたが」


成程、と頷いた炎月はそのまま続ける


「じゃあ、ミレニアが売りに出た時、ミルクチャーンに入った羊乳を1ペニーで売れって言われたらどうする」

「普通にキレます」

「だよな」


炎月がサッと顔を背けた、そんなに恐ろしい顔をしていただろうか、と頬を触って揉みほぐしつつ、続きを促す


「でもミレニア1人だともしかしたら其の値段で買い叩かれる⋯或いは売る事すら出来ないかもしれないよな」

「ええ、まあ⋯」


不服に思っていても、例え心の中でどんなに怒っていても売ってしまう可能性の方が高い気がする

圧力に弱い、とミレニアは何となく自覚はしていた


「そういう事を防ぐ為に、羊飼い同士とかで集まったりしたのが始まり⋯だったっけ?」


炎月も詳しくは知らないらしく、首を傾げる

記憶喪失の弊害で忘れた、等ではなく単に興味がなくて知らなかっただけの様に思える


「⋯まぁ、詳しい事情はそこまで知らなくてもいい。取り敢えず、羊飼いなら羊飼い同士で、技師同士なら技師同士で。己の権利と責任を守る為に集まる集団⋯とでも覚えておけ」


ざっくりした説明だ、と感じ

同時にファルは急いでいるように感じた、急いでいると言うより焦っている


「さぁ、もう寝ろ。慣れない土地に来たから無理をすれば体調を崩すぞ」


と、ミレニアに眠る様に言い聞かせてくるが、ファルは眠るつもりがないのか窓の外へ顔を向けている

炎月はベッドではなくソファーに腰掛け、「なんか⋯疲れた」と言いながらそのまま横になった

事情は分からないが、ミレニアはファルが自分の為に動いている事だけは解る

ミレニアを守ろうとしている事も、昔から知っている

取り敢えず今は彼女を信じて従うしかない、とミレニアはブランケットを手繰り寄せて被り、目を閉じた

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