羊と機械
ラスクのみみ
一章 羊飼いの少女
第1話 少女と羊
少女は羊にチュニックの裾を食まれながら、彼等の毛をハサミで刈り取る。
夏になる前に彼等の毛を刈り取らなくては暑いだろうというのと、冬場に必要な布材の為だ。
放牧用の柵の中で自由気ままに羊たちは歩き回るが、少女が柵の中に入ればわっと群がってきてしまう。
歩くのが困難に見えるが、少女は自分の進みたい方向にいる羊の鼻面を優しく押して退かせている。
少女を困らせるのは彼等ではなく、髪を食んでくる農耕用の雌牛とハサミや農具の錆である。
切れ味の落ちてきたハサミに眉を顰めて柵を乗り越える。
追いかけて出ていこうとする羊は彼女の忠実な部下がワンワンと吠え立てて柵の中で大人しくしている様に言い聞かせる。
少女は自宅に戻り、声を掛ける。
「ファルさん、砥石を持っていませんか、刃物用の」
のぞき込んだのは調理場だ。
大抵探し人はいつもここに居る。
ファル、と言うのは同居人であり、彼女が唯一顔を知る家族である。
関係を言うならば叔母だ。
想像通りファルは調理場の椅子に座って茶を飲んでいる所で、顔を上げた彼女は嫋やかに微笑んだ。
「昨日布を切るハサミを研ぐのに使ったのでな、リビングにあるんじゃないか?」
ファルの視線はゆらり、と窓辺に逸らされる、そこには手付かずの林が広がるばかりで特に面白いものはないのだが、クスクスと笑っている。
その思考はとても少女に読み取る事はできないが、いつもの事なのでと流してリビングに向かう。
砥石はわかり易い場所に置いてあったので早く見つけることが出来た。
一応礼を言っておこう、と調理場に再び顔を出すと。
「⋯あれ」
そこには湯気がほんのり上るティーカップが置かれているのみだった。
───────
ファルには姪がいる。
名前はミレニア。
弟似の茶髪と、義妹似で翡翠色の目が特徴的な
どこにでも居る可愛い姪である。
ファルにとって彼女は目に入れても痛くないような可愛い娘で、彼女を溺愛しているファルは彼女を何かと甘やかしてしまいがちだ。
だが彼女に対して、ファルは隠し事をしている。
というか、この世界のどんな娘より可愛いと思っているからこそ彼女に対して黙っている事がある。
彼女とその父親は、とある組織に追われている。
父親⋯ファルの弟は特に問題はなさそうなのだが
彼女は子供だ、誰かが守る必要がある。
そうして白羽の矢が立っているのがファルなのだ。
ファルの手には鉄の棒が握られている。
手の甲からくるり、掌へ。
握りこまれた棒は剣の一太刀を受けて真中から両断された。
「全く、いい腕をしているな」
と、ファルは小さく笑った。
切断された棒は断面が鋭く尖った形になり、棒と言うよりは粗末な槍に変わっている。
かさ、と足音のした背後に向かって振り向きざまに突きを繰り出した。
鈍い破裂音がした時には、槍の先にあった木の幹が消し飛んでいた。
槍に威力は殆ど無い。
つまりは槍を突き出す圧だけで、消し飛ばしたのだ。
ファルは強い。
それだけがちょっとした自慢であり、故にミレニアを守る為にどんな相手であっても立ち塞がることが出来ている。
腰を落とし、突きの体勢で止まっているファルの背後に影が踊る。
振り向いたファルの口角が艶やかに三日月を描いて見せた。
───────
「⋯いえ、あの⋯ファルさん」
羊の世話を終えて、ミレニアは家に戻っていた。
ファルも暫くしたら戻って来た
…のだが。
肩に見知らぬ青年が抱えられていた。
ぐったりとした様子の青年は意識が無いようで、ぽいと雑に床に投げ出されても特に呻くこともなかった。
「⋯もし、ファルさん。この人はどちらから⋯?」
見上げた叔母の表情は読めない、いつも通りの笑顔だ
青年を見下ろしながら言う。
「拾った」
拾ったなら仕方ない。
溜息を吐いて青年に近付き、頬を軽く叩く。
起きる気配はなさそうだ、目に見える怪我は⋯額のあざと、後頭部に強打したらしい瘤位か。
取り敢えず頭を冷やしておく必要はありそうだ、と
水桶を持って裏の井戸へ向かう、前に。
「ファルさん、彼を私の部屋で寝かせておいてください」
と声を掛けて向かう。
背後から「私の部屋に寝かせておこう、そちらにおいで」と返事が聞こえた。
歳頃の娘の部屋に異性を寝かせないという保護者らしい常識がファルにあったのか、なんて一瞬ミレニアは感心してしまう。
調理場にある勝手口から家の裏に出る。
この家の井戸はポンプ式なので、普通にやると中々水が出なくて苦労する。
ので、予め組んであった水をポンプの中に入れて呼び水にする。
水が出てる事を確認してから水桶に流し込み…
「もし」
知らない内に背後に人が立っていた。
見慣れない人間だ、と言うよりミレニアはファル以外の人をあまり知らない。
少し歳を重ねた、位の男性が質の良さそうな生地の服を来て立っていた。
帽子を脱いで、やんわりとした笑顔で話し掛けてくる。
「此処は君の家かなお嬢さん」
迷子だろうか、とミレニアが首を傾げつつ「ええ」と答えれば、男性は困ったように眉を下げる。
「失礼かもしれないが、お名前は?」
成程、家を間違えているのかもしれない等と思いつつ「ミレニア」と答えた。
男性はやはり困った様に笑って、
「失礼、家を間違えたようだ。またねお嬢さん」
と一つ会釈をして帽子を被り直し、踵を返して歩いていく。
気を取り直して水桶を持って、なるべく新しい布を持ってファルの部屋に向かう。
飾り気のない部屋、寝具の上に青年は横たえられていた。
ファル自身は椅子に座って青年をじっと観察している
彼女に何かしらの労働行為を期待する方が間違いだと、ミレニアは記憶しているので特に何も言わない。
水桶に布を浸して水気を手早く絞り、青年の少し腫れが目立ってきた額を冷やす。
後頭部の方も冷やしてやりたいのだが、この家に氷嚢は無い。
氷は冬場でなければ手に入らないからだ。
額に濡れた布が乗ったからか、青年が呻く。
目が覚めるか、と顔を覗き込もうとした瞬間ファルに襟を後ろから摘まれて引き戻された。
激しくは無いが、結構な速度を持って青年の上半身が起こされる。
「目が覚めたか」
と、ファルが声を掛ける
彼女が他人に対してこう興味を持つのは珍しい気がする、と思いつつ青年の様子を見る。
青年はきょろきょろと辺りを見回す、その瞳はまだどこか寝惚けた様子だ。
「⋯頭痛い」
「それは悪かった」
青年のつぶやきに、何故かファルが謝罪する。
明らかにファルが何かやったのだろうが、いちいち問いつめていたらキリがないので、とりあえずミレニアは理由を聞かないことにした。
「他に痛い所はありますか?」
ミレニアが問うと青年は首を横に振る。
顔を上げた青年の目は赤い色をしていた。
時折光を反射してチラチラと光る様子は炎のそれに似ている。
「何処から来たのかわかります?」
青年はぼんやりとした目でミレニアを見つめる。
その様子に困惑するが、ミレニアは「まだ、ぼんやりしているみたいですね」と言って取り敢えず飲み物か何かを取ってこようと腰を上げる。
その瞬間、ほんの僅かにたどたどしい口調で青年が呟いた。
「⋯ここ何処だ⋯どうやってここまで⋯それに⋯俺は誰だ⋯?」
額に手を当てつつ呟く青年に、ミレニアは思わずファルに視線を投げやった。
流石に記憶まで無くすようなことをしでかすのは看過できない。
…ファルはミレニアの視線を強く受けて
「反省はしている」
と笑顔で答えた。
つまり理由は語るつもりは無いが後悔はしていないという事だ。
恐らく痣も瘤も記憶喪失も彼女のせいなんだろう、と結論付けたミレニアは。
「⋯本当に⋯ごめんなさい」
と、ただ一言、真っ白な顔で謝罪の言葉を青年に呟いた。
青年は今にも火をつければ灯りになりそうな位真っ白になったミレニアの様子に、記憶喪失の身ながら「おまえ⋯大丈夫か?」と、心配した様子を見せた。
───────
「お名前は⋯分かりますか?」
ミレニアの問いに青年は頭を悩ませる。
目が覚めたら名前も思い出せないとは、一体気絶する前、自分の身にどんな災難が降り掛かったのか心の底から知りたいのだが、生憎何処から来たのかすら思い出せない状態だ。
「⋯確か⋯名前に⋯炎が入ってた気がするんだよな⋯」
ミレニアの翡翠色の瞳が不思議そうに丸められる。「炎?」と鸚鵡返しに呟く様子から珍しい名前なのだろうかと考える。
ただ分かる事は、青年にとってはミレニアやファルの名前の方が聞き慣れない事だ。
もしかして自分は異邦人なのだろうか、と首を捻っていると。
「ホムラ、ホノオ、エンは東の国では炎を表すらしいぞ」
とファルが語る、ミレニアはほぼ彼女の話を聞いていないようで「そうですか」と流すが。
青年の耳には引っ掛かる。
誰かがそんな響きで自分を呼んでいたような、誰か、そうファルに似た誰かが、
「エン⋯そうだ、エン⋯月⋯?
と、青年⋯炎月は最後で自信をなくした。
ミレニアの背後でファルが笑っているからだろうか
ファルの顔を見ていると何故か額が強く傷んで、首の後ろから背中にかけて冷たい感覚が走るのだ。
「しかし、君が何も覚えていないというのは少し困るな」
ファルの呟き。
一体何が困るのだろうと炎月が首を傾げていると、ミレニアが思い出したと言いたげに口を開く。
「そう言えばファルさん、先程男性に声を掛けられましたよ。もしかして炎月さんはその人の連れなのでは?」
連れ、とはつまり自分の知り合いだろうか。
そう、若干炎月が期待した所でファル目が少し鋭くなる、その目を見た瞬間炎月は総毛立った。
警戒、それを通り越して殺気の様な物を感じたのだ。
「⋯名前を聞かれはしなかったか?」
ファルの様子にミレニアは気付かないのか、ごく普通の様子で「はい、訊ねられたので」と答えたミレニアに、ファルが「そうか」と目を伏せながら呟く。
そして、次の瞬間笑顔になれば、
「ミレニア、旅は好きか?」
と何の脈絡も無く話題が切り替わった。
炎月は思わず、こいつ大丈夫か? とファルに不安げな視線を送る。
大丈夫だろうか、頭とか。
ミレニアは何処か慣れた様子で「何の話ですか」と怪訝そうな表情で聞いてみるものの、ファルには届いていない様子で。
「羊らの世話は知り合いに頼んでおこう。だから旅に出るぞ」
「常日頃から会話してて感じ続けていた事なのですがファルさん自由ですよね、自由過ぎますよね」
ミレニアはそう文句を言いつつも、ファルの言う事に従って準備を始める為か部屋を出て行った。
何だかんだ言うことを聞いてしまうから自由なのではないか、と炎月は思ったが口には出さなかった。
ファルは炎月を一瞥した後、窓の外へ視線を移す。
一瞬の冷ややかな目に、居心地があまり良くないな、と炎月が身動ぎをした所でファルが何を見ているのか気になった。
窓の外へ炎月も視線を移し、彼女が何を見ているのか意識を集中させてみる。
何も無い、強いて言うなら林が遠目に見える程度…と思った矢先炎月の目が不自然に揺れた何かを捉える。
「⋯なにか居る」
「成程、目もいいな」
納得した様子の言葉、「目も」という言葉が気になってファルを見れば。
ファルが炎月の目を射抜く様な貫く様な鋭い目で見つめている事に気付く。
「お前、本当に記憶喪失なんだな?」
真剣な問いかけ
炎月はそれにどんな意味があるのかわからない、本当に何もわからないのだからしょうがない。
等と質問の意味を把握しかねて考え込んでいると、
「⋯ふむ、いいだろう」
とファルが笑顔になった。
何が正解だった一切分からないまま呆然と、ファルが腰掛けていた椅子から立ち上がる様を眺める。
「後でミレニアと、ロセの倉庫に一緒においで」
とファルが軽く手を振りながら部屋を出て行くのを炎月は眺める。
一体なんの話なのだ、まずロセって誰だと目を瞬かせているとミレニアが大きな鞄を肩からかけて現れる。
「あれ、ファルさんは⋯?」
と首を傾げるミレニアに炎月はベッドから立ち上がりながら「ロセの倉庫? に来いってさ」と伝える。
ミレニアにはロセの倉庫というのが分かるのか溜息を吐きながら歩き出したので、炎月はその後ろについて歩いた。
おいで、と言われたら取り敢えずついて行くしかないのだ。今は。
───────
ロセの倉庫、とはミレニアの父親の倉庫を示している
母屋から少し離れた位置にある、若干寂れた建物へとミレニアは歩を進める。
その後ろには炎月が着いてきているのだが気付いてはいない。
全く、叔母の突拍子もない行動には困ったものだ。と溜息を吐くと同時に背後から突然押さえ込まれて地面に伏せる。
「何ですか!?」
「良いから伏せてろ!!」
炎月から地面に隠される様に抑えられ、上を覆うように被さられている。
何かが破裂する様な音が遠くで聞こえて、何かが甲高い音を立てて幾つも通り過ぎるのが聞こえた。
「撃たれてる!! 今顔上げたらホントやばい!!」
と、炎月が何故ここに居るのかも驚きだが。
撃たれていると言うのはどういう意味なのか、ヤバいとはどういう事なのかミレニアはただ混乱した。
「⋯止んだ!! 走るぞ」
と炎月に引っ張りあげられて立ち、倉庫に向かって走る。
倉庫の大きな扉が開く、中から車輪と鉄の翼らしき物をもった物体が現れてミレニアの混乱は激しくなる。
あんなものが倉庫に入っていたのか、それは何故?
立ち止まれば炎月に引き摺られてしまうので、必死に足を動かす.
鉄の鳥のような物に近付くと、炎月は両腕でミレニアを抱えて飛び上がる。
見事に翼に着地した炎月はそのままファルの座っている操縦席の奥の空間にミレニアを押し込んで、自分はそのまま背もたれと翼に捕まる。
「多分こうだな、飛ぶぞ」
と、まるで全ての事情を知っている調子で告げたファルにもしかして全ては仕組まれた悪戯か何かなのかと思いかけるが、顔を出して母屋の方角を見ると。
名前どころか顔も知らないような男達が筒のような何かをこちらに向けているのが見えた。
その筒が何なのかをミレニアは知らない。
だがそれが危険だと言うことは、ミレニアとファルを庇うように片手を伸ばしている炎月の表情を見て察した。
ぐん、と視界が下方にブレて家が下の方に小さくなっていくのを見て。
この鉄の鳥が飛んでいるのだと、ミレニアは遅めに理解した。
────
「⋯説明をお願いしても?」
「ああ、何処からがいい」
ファルの声は相変わらず穏やかだ。
ミレニアは何処から知らないのかすら分からない、まず何故ああやって追われたのかすら分からないと言いたげな、困惑した様子で「最初から」と答えた。
ファルは暫く考え込むように黙って、
「私とロセの父は、医者であり同時に技師と言う奴でな」
「技師?」
初めて聞く職業に、ミレニアは首を傾げる。
炎月はその様子に目を瞬かせた。
現在炎月には記憶が無い、が世界の常識程度は頭に残っている。
技師、とはこの世界の常識では機械を作る人間⋯あるいは職業の事である。
その、筈である
炎月はミレニアをじっと観察するものの、ミレニアは本当に知らなさそうな顔をしている。
だがファルは説明する暇を惜しむのか、単に面倒なのかなんの補足もせず続ける。
「彼の得意な分野は義手や義足の開発でな、それを兵器の作成に応用したいとかなんだとかで、ヤツらはやってきた」
「奴ら?」
ファルは振り返りつつ、目を笑わせないまま口だけで笑顔を作って微笑んで見せている。
空の上で障害物が少ないとはいえ、前を見てくれと炎月は思うものの…そのファルの笑顔の冷たさに口を閉ざす。
凍り付いているように炎月の目には映った。
「正式な名前は西洋商会、いわゆる商売人の集まりだな」
「商売人……がなぜ兵器を求めるんですか?」
「戦争が起こりやすければ儲かるからな」
ミレニアは彼女なりに一生懸命咀嚼しながら話を聞いているらしいが、イマイチ理解が追い付いていなさそうに見えるのは、炎月だけだろうか。
ファルは気にせず続けてしまうので、少し待ってやればいいのに、なんて考えが浮かぶ。
取り敢えず炎月が「お前の爺ちゃん達の腕が欲しい奴らがお前の事を狙いに来た」と噛み砕いて伝えれば、首を傾げながらも頷いた。
「⋯けれど、何故私なんですか? お祖父さんの事なら別に私でなくてファルさんでも⋯」
呟く炎月の頭が強く痛んだ、何故だろうか心当たりがある気がする。
詳しく感覚を告げる事は出来ないが、その辺にとても心当たりがある、炎月の無くした記憶に関係しているのだろうか。
ファルと目が合ってにっこりと微笑まれたので、炎月は口を噤む事にした。
ファルは答える
「それは彼よりもっと重要となった人物が居るからだな」
そろそろと炎月がファルの顔を伺ってみれば、何処か誇らしげで寂しげで悲しげな顔をしていた。
それにどういう意味が有るのかは分からなかったが、ずっと前にそんな表情をした誰かが居た気がして首を傾げる。
ミレニアが不思議そうに「誰ですか?」と訊ねれば、
「お前の父親だよ」
前を向いたままのファルから答えが返ってきた。
そして「詳しい話は宿でも取ってから、もう一度してやろう。着陸するぞ」と告げる。
炎月は前を見て、そのまま気を失いそうになった。
この女正気か?と口に出さなかった自分を褒めたいくらいだ。
「ああ、着陸の仕方は分からないからな。舌を噛むなよ」
すぐそこに水面が迫って来ていた。
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