真っ昼間の幽霊

 第三棟のその空き教室は、未使用の机や椅子、教卓なんかが放りこまれいるでもなく本当にからっぽなのに白いカーテンだけはつけられていた。むっわ〜んとした暑く重たい空気が重くわだかまっているのを入れ替えようと窓を開けても薄いカーテンが揺らぐ様子はなくて、廊下の窓も全開にしてやっと風が通って心持ち涼しくなる。

「窓開けてたら見つかっちゃわないかな~」

 心配を口にする私をよそにしおちゃんは「大丈夫でしょ」と口調そのままにでんと構えて窓の下の壁のところに背中をもたせかけて床に直接座った。私も隣に座って壁にもたれてみたら冷たくて心地よかったし、ちょうど頭の上を風が撫でていく形になって、外ではぎらぎらとした真夏の太陽が照りつけていると思えないくらい快適で、休日の午後みたいにゆったりと時間が過ぎていくその眠気を誘うひそやかさが、かえって授業をサボってしまったのだなと意識させた。でも不思議と後悔はなく諦めの境地にも似たすがすがしさに満ちている。「やっちゃったね」「そうだね」とうなずき合いたい気分になって隣を見ればしおちゃんの横顔がある。美人によくある、見るものに冷たさを感じさせる造形ではあるけど、真横から眺めてみると涙袋のかすかなふくらみが下まぶたのラインを柔らかいものにしていて澄ました表情なのに笑みを湛えているような優しげなまなざしで、それがそのまましおちゃんの性格を表しているようで好き。

「で。なにがあったの?」

 しおちゃんが不意打ちでこっちを向いて真正面から訊いてくる。

「どう説明したらいいのかな~。授業中にトイレに行きたくなって我慢してたんだけど」

「瞬間移動?」

「えっ!?」

「だってそうでしょ。事実だけ見たら、教室に服を残していつの間にか身体だけトイレの個室に移動してるんだから」

「そう!たぶんそれ。瞬間移動!」

 透明化の能力を私が有しでいるなんて告白したとして信じてもらえるだろうか、今日はすでに一度使ってしまっているから実演もできないしな~と悩んでいたせいってわけでもないけど、会話の流れでしおちゃんの言葉に乗っかってしまった。でも、よく考えてみたら瞬間移動だって超常の力の一種でどちにしたって私が超能力者だってことで大して差がないし、実際の力とは異なった認識をされたらめんどくさいことになるんじゃないかって不安になる。

「つまり、トイレに行きたいという強い思いによって秘められた力に目覚めた、と」

「そうなるのかな」

 私のなかに眠っていた秘められた力が排泄欲に呼応して目を覚まし無自覚なままに発動したってことになってしまった。たった一度の肯定でこんなふうにねじ曲がってしまうのだから言葉ってすごい。けど、周囲に能力をひた隠しにしていたわけでなく私自身もその力を把握していなかったとしおちゃんが推測したのは仕方のないのかも。今回はやむを得ず力を発現させただけで、いままでずっと、積極的に能力を利用してなにかしてやろうなんて企んでなかったし、そもそも五分でできることなんてたかが知れていて大して便利でもないからほとんど利用したことはなかった。私の感覚としては、意外な特技があるだとか生活に支障がない程度のちょっと変わったアレルギーを持ってるとかそんな感じの認識で、口にする機会がなかったから言わなかったけど、別に隠しているつもりもなかった。私自身にそのつもりがないのだから外側からも隠し事があるようには見えなかっただろう。いざ明かすタイミングになっても思い当たるふしがなく、ずっと黙ってたのではなく、単に初めて能力が出て困惑しているだけだと勘違いしたってわけ。

「溜めこむに溜めこんで一気に開放って守璃らしい」

「トイレの話?」

「そうじゃなくて、いやその話ではあるけど。ほら、マンガとかであるじゃん。追い詰められて新しい力に目覚める、みたいな」

「あ~、覚醒イベント」

「燻っていたものに火がつくってのは、いかにも守璃らしい」

 小さく息を漏らして笑うしおちゃんは、過去にあった出来事を具体的に思い出し脳裏にその光景を蘇らせているような懐かしむ目をしていたけど、わたしには彼女がなにを思い浮かべているのかわからなかった。

「そういえば私さ〜、普段ほわほわしてるのによくわからないところでいきなりキレたりするから、なに考えてるのかわからないってたまに言われるの」

「知らない人にはそう見えるかもね」

 自分のなかでは急でもなんでもなく感情として地続きでゆっくり蓄積していったものなのだけど、他人の目にはそう映らないようで変なところで火がつく怒らせたらヤバい人みたいに捉えられている。不思議ちゃんみたいな扱いを受けることも。それでもつき合いの長いしおちゃんなんかは、私が爆発しそうになる予兆を察して宥めたりしてくれるし、明確に原因が相手にある場合なんかは代わりに怒ったりもするのだから、やっぱりわかる人にはわかるのだ。気持ちを掬い取ってくれる誰かがそばにいるというのは、それだけで、自分自身の存在が肯定されているよう。

「けど、とうめ……じゃなくて、瞬間移動能力なんて信じるの?なんか意外。否定するタイプだと勝手に思ってた」

「信じるよ」即答。「守璃がそういうのならそうなんだろうし、もし仮にそうじゃないのだとしても、なにか理由があるんでしょ。そういうことにして欲しいっていうのならそのまま言葉を受け取るよ」

「ありがとう~」

「たぶん、さ」

 ぽつりとしたつぶやき。けれど、「世の中に溢れてる超能力とか幽霊とか怪談は、きっとそういうことなんだよ」と漏らすしおちゃんの口ぶりには少し熱がこもっていて、妙な重みがあった。

「どういうこと?」

「おばさんの話なんだけど」

 しおちゃんが語りはじめたのは、車の運転中に交通事故にあったおばさんの話だった。小学校の五年生になる息子が入っているスポーツ少年団の野球チームで練習試合があって、試合が行われる県下の小学校まで友達何人かも含めてミニバンで送った帰りに、交差点で信号無視をしてきた軽ワゴンと接触したという。横合いからぶつかられて慌ててハンドルを切ったせいでガードレールに衝突してミニバンは前面が大破、運転していたおばさんはエアバックで上半身こそ守られたものの潰れたフロント部分に足を挟まれ身動きが取れなくなる。死を覚悟したおばさんは、最後に家族と話したいと胸中で願ったらしい。周囲が騒然とするなか、ふいにバッグに入れておいたスマートフォンが鳴る。なんとか手を伸ばし電話に出ると、一人暮らしをしている大学生の娘だった。娘が電話口で声をかけ続けたおかげで、落ち着いてというのもおかしな話だけどパニックに陥らずに救助を待つことができ、通報によって駆け付けた救急隊によって病院へと運ばれた。脚にボルトが入るくらいで大事には至らなかったけど、あのときに取り乱して無理に抜け出そうとすれば片脚切断もあり得た、あとになって医師からそう聞かされる。傷口が開いて出血多量になれば脳に回る血が足りなくなって意識障害になっていたかもしれないとも。そうならずに済んだのは娘が励ましの言葉をかけていたからこそ。急に帰省を思い立って電話を入れた当の娘は、お見舞いで一緒になったしおちゃんに、思えば虫の知らせだったのかもしれないとその胸のうちを打ち明けた。

「虫の知らせが本当にあるのかはわからない。おばさんの心の声がテレパシーとなって届いたとも思わない。でも、あのときおばさんが家族を思い出していたのは本当だし、かほねぇ――いとこのお姉ちゃんが実家に帰ろうと思ったのも本当。そしてそれでおばさんが助かったのもまた事実。どんなに嘘っぽくても、そういうそれぞれの気持ちがそこにはあって、それを語るとき、形を与えるときに虫の知らせとかテレパシーってわかりやすい物語になるんだと思う」

「よくわからないけど、おばさん大丈夫でよかった~」

「うん、そうだね」

「ふと思ったんだけど」

「うん」

 おばさんの事故なんて重い話でもなくただなんとなく連想しただけの軽い思いつきで、それは口調にもはっきりと表れていたはずなのに私が話そうとすればしおちゃんは耳を傾ける姿勢になって小さく頷いて先を促してくれる。

「ツイッターとかでこんな出来事があったって面白エピソードでバズったりするでしょ。あれもそういう感じなのかな。嘘認定されたりしてるけど」

「注目されたいっていう承認欲求もあって嘘も混じってるのはそうなんだとは思う。けど全部がそうだとはも思わない。なんでもかんでも嘘だとは思わないし、思いたくない」

 承認欲求の暴走というものを私は自分の感覚として理解できない。もちろん誰かに認めて欲しいというのはあるけれど、誰かというのは友達や家族であったり身の回りの特定の誰かで、ネット上のよく知りもしない顔も思い描けないような誰かではない。注目を浴びて多くの人に見つめられたとしても私は彼らの全員を見つめ返すことはできないし、そんなにいっぱいの人と繋がっても手に余るだけ。関わる人が増えれば増えるほど一人の相手に割ける手が減って結果として繋がりが薄くなってしまうのなら、無駄に手を広げずそのぶん近くの人を大切にしたい。

 私がしおちゃんを見つめると、しおちゃんが「ん?」とかわいくこっちを見つめ返してくれる。私がしおちゃんの幸せを祈れば、きっとしおちゃんも私の幸せを祈ってくれる。世界平和なんて漠然とした祈りは私の心には収まりきらない大きすぎる願いで、私はしおちゃんのいとこやおばさんのことなんて全然知らなくて、彼女たちの生活を想像してみたり彼女たちのために祈ってみたりすることはできない。けれど、私が自分の家族に幸せであってほしいと思うように、しおちゃんもしおちゃんの家族を大切にしていると私は知っている。私が見たしおちゃんはしおちゃんの家族を見らるれし、そしてその家族たちはそれぞれまた別の誰かを見られる。そうやって温かいまなざしが連鎖して、遠く離れた見ず知らずの誰かを間接的に見られればいいなと思う。

 私はすぐ隣にいるしおちゃんの透き通ったとび色の瞳を見つめながら、彼女の言葉に同意する。

「その感覚はわかる。あれも嘘これも嘘ってなってるの見てるとちょっとげんなりする」

「まるっきり作り話というのは、ごくごく一部なんだと思う。起こったことをそのまま語ってもそこにある感情が全部伝わるわけじゃない。だからこそ大げさになって逆に嘘っぽくなる。技術の問題なんだよ。そうやって言葉と感情が乖離していってどんどん言葉は薄っぺらくなる。薄っぺらくなるから余計に盛らなければ伝わらなくなる。そういう悪循環で、感情を離れて言葉だけが独り歩きしているんじゃないかな」

「じゃあ、あれもそうなのかな。ほら、七不思議の」

「幽霊?」

 七不思議とは言っても他の六個はよく知らないけど、七不思議のひとつとして第三棟ができたころから生徒の間で代々語り継がれてきた幽霊話で、その時々によって細部は変わっていくけれど、一か所だけ、昼間の廊下に現れるというのは一致している。

「そう、それ。なんで真っ昼間に幽霊なのかなってずっと疑問だったんだよ〜」

「たしかに、夜の人気のない場所でという怪談の定番から外れててそこが逆に印象に残るね」

「それ!日光あっても見えるのかな〜って疑問に思ってたんだけど、噂の出所の、最初にこの話を広めた人が体験したのが昼なんじゃないかな。幽霊に遭遇したという恐怖だけじゃなくて昼に幽霊に出くわしたおかしさを違和感として抱いていたからこそ、しゃべるときにそこが強調されてしまう。で、恐怖体験の一要素に過ぎなかった昼だけが聞き手の印象に残ったって感じなんじゃないかな」

「昼がまずあって、そこを補強するように変化してきたんじゃないの、と」

 私の頭のなかを覗いたみたいにしおちゃんが完璧に言いたいことを汲み取って言葉にしてくれた。

 そんなふうに幽霊の話をしていたせいかな。

 三時間目が終わりのチャイムが鳴って休み時間になり、窓を閉めて空き教室を出たところで背後に視線を感じたように思えて振り返ったら中央階段のところに黒い影が横切ったのが見えた。人影ってほど明確に見えたわけでもないけど、何かが階段を降りていったような……。

「ほら行くよ」

 しおちゃんに引っ張られて教室に戻ってからも、まさか幽霊見ちゃったのかな~と不安半分、噂になっていたものを実際に見ちゃったという高揚感を半分抱えたまま授業を受けていたけど、そんなことがあったという記憶は終業式になるころには薄れていた。

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