しお対応
三時間目の終了を告げるチャイムが耳に届いてはいても呆然としたまま動けなくて、頭も心も凍りついた私を置いてけぼりにするみたいに時間が流れていく。廊下から話し声が聞こえるようになっていた。スリッパがリノリウムを打ち付けるぱたぱたという足音がドアのすぐそばまで迫って来て、ようやく危機的状況にあるのだと理解した私は慌てて個室に滑りこむ。蝶番をキーキーと鳴らしてドアが開き、しゃべり声とともに数人の生徒が入って来たのは、閂を閉めた直後だった。
ほっと胸をなで下ろす。もう少し遅れていたら素っ裸で佇んでいるところを目撃されヘンタイの誹りを受けていたかも。冷静になってみれば裸で校内を移動していた時点で、女子、それも女子高生というブランドを着てJKJKともてはやされている女子としてどうなの?って感じではあるけど、誰の目にも入ってないのだからセーフ。ステージで華々しく踊るアイドルだって自室では、がさつでずぼらかもしれないのと一緒。透明化という障壁に守られていた私の醜態は犯されざるプライバシーだ。
個室に逃げこんでひとまずのピンチは脱したけど、制服を取りに行けないのは相変わらずだったし、女子がひっきりなしにトイレ休憩にやってくるせいで、むしろこの板で四方を囲まれただけの狭い場所に追い詰められたと言ったほうが近いんじゃないかって気がしてくる。私が一室占領しているから、回転率が下がって順番待ちの生徒で無駄にトイレ内が賑わっている気配すらある。
男子トイレではどうだかわからないけど、女子は鏡の前に陣取って髪いじったりメイク直したりしながら駄弁ってなかなか出て行かないしドアが開いたり閉まったりするしで、どったんばったん大騒ぎってほどではなくともがやがやと音が絶えない。だから、このむこうにいま何人いるかなんて把握できないし、ましてや誰がいるかなんて全然わからなかった。
けど、カクテルパーティー効果というのか、小さなころから耳に馴染んだその声だけは聞き分けられた。
「しおちゃん!」
思わず幼馴染みの名を叫ぶ。
「あれ?
私の声量に応えるように張ったしおちゃんの声は入り口のほうにいるのかちょっと遠い。
「こっち来て、こっち」
何?と短く発音して歩いてきたその足音が私が個室の前で止まったのを確認にして薄くドアを開く。
「えっ?なに?なにやってんのそれ」
私の姿を認めたしおちゃんは驚愕とも戸惑いともつかない表情を浮かべていたけど、それでも機転を利かせドアの隙間の前に立ちはだかって死角を作ってくれる。
「教室から私の制取って来て」
顔を寄せてささやき声で言うと、事情も聞かずしおちゃんは頷いて踵を返した。トレードマクークのワンレンの長い黒髪が揺れる背中を一瞥してドアを閉めてふたたび閂をかけて一息つく。
なんとか難を乗り切れそうだと崩れ折れそうになりながら便座に座りぼんやりとしているうちに、トイレから人がはけていく。予鈴にせっつかれて飛び出して行った生徒がいなくなると静寂が戻ってくる。教室では授業がはじまっているとは信じられないくらいにトイレはひっそりとしていた。
おかしい。私の席の椅子の座面に畳まれるでもなく乗せられた服一式を取ってすぐにしおちゃんはここに帰ってくるはずなのに。受け取った制服を急いで身につけて四時間目が始まる前に何食わぬ顔をしてクラスの皆に混ざれない。
いったいしおちゃんはどうしているのだろう。鼻筋の通った端正な顔立ちで近寄りがたい印象に違わず素っ気ない感じではあるけど、あれでいてなかなか面倒見が良く、しおちゃんから話しかけなくても常に誰かしらがそばに居て、昔からそんなふうにして彼女のまわりには自然にグループができていた。輪の中心にはいても人間関係を掌握し女王として君臨するってのではなく、サポート系?とでも呼ぶのだろうか、たとえば流れが滞った会話の切れ目にしゅるりと言葉を滑りこませ自分が主役になるでもなくグループをまとめ上げる。調停役とか緩衝材というのが近いけど必ずしも衝突を避けるわけではなく、ときとしては積極的に誰か肩を持ち諍いになることも厭わなかった。親しい人の気持ちに寄り添えるからそ慕われているのだと、幼いころからしおちゃんの隣にいた私は思っている。友人のなかには熱心な信奉者もいて、いまだってきっと休み時間にクラスメイトに絡まれて抜けるに抜け出せなくなってしまったのかも。
しおちゃんを疑うつもりなどはなからなかったし、そもそも信じて待っているくらいしかできることがなくて、私はひとりのほのんとトイレの個室で暇な時間を過ごした。
やがて甲走ったような軋んだ音をたて女子トイレのドアがゆっくりと開かれる。
「しおちゃん?」
休み時間に用を足せなかった女子が中途退室して来た線も捨てきれずに念のため訊ねてみたけど応えはなくて、タイルを踏む硬い足音だけが室内に反響しながら近づき個室のドアの前でぴたりと止まる。
ノック、それから一拍おいて声。
「持って来たよ」
「おそかったよ~」
内開きの扉を開くと紺のスクールバッグを肩にかけ上履きのスリッパを手にしたしおちゃんがいた。制服としか言ってないのに、脱ぎっぱなしになったスリッパにもしっかり気づいてくれるなんてさすが。思わず抱きしめたくなって腕を広げて近寄ろうとしたけど、額に手を当てて押し返される。
「はいはい、着替えてからね。ってか汗くさいよ」
「え?うそっ」
肩を上げて二の腕、脇それから腕と順番に鼻を鳴らして嗅いでみてもにおいはしなかったけど、嫌な汗をかきまくったのだから自分ではわからなくても他人からしたら汗臭いのかもしれない。たしかに、てのひらで首筋を撫でてみたらべちゃべちゃとした感触があった。
「はい、これ」控え目な大きさの黒猫のストラップがついているのはしおちゃんのスクールバッグ。「制服と、あとデオドラントシートとかも入ってるから」
「ありがとう」
受け取ってファスターを開いてなかを覗いてみたら、机の引き出しに入れてある教科書や筆記具以外そのままのところに私の服一式を綺麗に畳んで仕舞ってあって、取り出し順番を考慮したってわけでもないんだろうけど下着が一番上になっていた。
すでにこうして裸体を晒しているし気にする間柄でもないとはいっても、鞄を床に直置きするわけにもいかなくて個室で着替えることにする。扉を閉めたその裏にはフックに付随した戸当たりがあった。持ち手を片方だけかけて口を開けたままにしておくのも勝手が悪そうで、結局便器の蓋の上にスクールバッグを下す。デオドラントシートがあるのはありがたい。服だけでも良かったのにこうやって色々持って来てくれるなんて気が利くなぁ。あ、でも制服だけ手にしてってのも変か。だからスクールバッグなのか。それならこんな時間になったのも目立たないようにってことなのかも。休み時間なんていつも誰かトイレにいるから、個室いる私に制服を手渡してるとこなんて見られたら何があったんだって勘繰られるし。なんて考えながら身体とついでに足の裏を拭いてデオドラントシートを汚物入れに捨て、それから衣類一式を身に着ける。ソックスはもともと自分の鞄の中。
「おまたせ~」
それじゃああらためてって感じで抱きつこうとしても「行くよ」ってかわされて仕方なく私はしおちゃんのあとを追う。
「ん?そっちじゃないでしょ」
人気のない廊下に出て教室のある左手に折れるとばかり思いこんでいたのに、しおちゃんはどういうわけだか渡り廊下のほうへと歩いていく。
「サボるよ」
中央階段の横からのびた渡り廊下の入り口は、外光がまばゆいだけに階段の影が溜まった空間が薄暗くて、真っ白なブラウスとつややかな黒髪は、のしかかる影を跳ね除けて進んでいく清廉な雰囲気があったというのもあるけど、なによりその迷いのない足取りとぴんとのびた背筋がとても頼もしい。
私はしおちゃんを追いかけ、いつものように隣に並んで「うん」と笑いかけた。
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