幽霊たち
十一
まず服を脱ぎます
服を脱ぐのは着替える行為の一部で毎日ほとんど意識することなくやっているわけだけど、教室でとなると、知識としては男の子女の子ってのがありながらも感覚としてはその区別がはっきりしていなかった小学校低学年のころ体育の水泳でラップタオルをかぶった下でもぞもぞとやってスク水になったのくらいで、授業を受けている最中ともなればこれはもう当然はじめてで、いくら大丈夫だと頭で理解していても周囲の視線が気になってしまう。うちのクラスは生徒が38人で、六×六の正方形から窓際の二列は後ろにひとつずつぽこんとはみ出す形で机が並んでいて、そのはみ出した部分の窓から遠い方、教卓に向かって右側が私の席。最後列からクラス全体が見渡せる。ただでさえ期末テストが開けてだる~んとした雰囲気が漂っている教室は短縮授業の三時間目の中盤、一週間で言うなら木曜日あたりの全然気持ちの入っていない感じがひしひしとしている。教科書を読み上げる先生の声にも覇気がなく、ギャン泣きする赤ちゃんみたいにありったけの力を振り絞って鳴くセミの声が静けさに染みいりもしないで響き渡っている。注意すべきは左隣の男子生徒と先生くらいだけど、坊主頭の野球部の生徒は外を眺めて物思いにふけっているし、教師は教師で黒板を向いたまま振り返りもせず淡々と説明を加えているだけで生徒の授業態度に気を払っている様子もない。
これならいける。
座面のふちに両てのひらをついて指をうらにかけた状態でおしりを浮かせ、そのま椅子をほんのすこし持ち上げて後ろに引いて、それから慎重に床へと下ろす。椅子を擦る音で衆目を集めるような事態にはならず難なく第一関門を突破。私の行動を察知しているものは誰もいなくて、さっきまでと変わらず中弛みでゆるんだ空気をまといながらも授業はつつがなく進行していた。けど脱衣のために直立するのは抵抗がある。必要もないのに前の席の背中の大きな男の子の陰に隠れるみたいにして縮こまった体勢でスカートのホックを外す。ファスナーを下ろして手を離すとスカートは重力にまかせ太ももの上の滑って行ったものの、中腰の半端な姿勢のせいですとんと落ちてくれずに膝にひっかかって変な位置で止まってしまった。一直線に落下していたら大きめの音を響かせるはめになったのだから、ウエストの部分をつまんで脚を抜けたのは結果オーライなのかも。
ブラウス、ブラ、靴下とぽいぽいと脱いでいって最後にショーツにとりかかる。腰回りのお肉にびっちりと張り付いたゴムに親指をかけて左右にひっぱって広げ、そのまま膝上まで下ろしていくと、下着の生地がわしゃわしゃと拠れてささめく。一度も洗濯していない綿の、柔らかくありながらどこか硬さを含んだその感触は、片足をあげて抜き取るときも、もう片方の脚のつま先のほうから抜き取るときにもつきまとった。ほぐれきっていない繊維特有の肌触りが、肌に食いこんだゴムのきつさよりもずっと強く真新しい下着なのだと実感させる。
いよいよもって全裸になってしまった、うわ~やっちゃったなんて感慨に浸っている余裕なんてなく、服をまとめて椅子の上に置いて私は教室の後方の戸から廊下へと出る。窓も扉も全開で風が流れているから夏の盛りとは言ってもそれほど汗をかいているつもりはなかったけど、リノリウムの冷たい床にぺったらぺったらと足の裏が吸いつくのだからやっぱり体表は湿り気を帯びているのかもしれない。ときどき休憩を挟みながら人気のない廊下を進んで、授業をしている教室の横をひとつふたつと通り過ぎていく。
目的地目前で本格的にやばいのがきて思わず立ち止まって膝に手をつく。息をするのも忘れたようにというか呼吸にリソースを割いてられなくなり、あ~やばいやばやばいダメダメと胸中で早口に唱える。いや、マジでほんとやばいって。全裸なんだからここでやっちゃっても問題ないんじゃという考えが一瞬脳裏をよぎった。もともと最悪の事態を想定してすっぽんぽんになったわけだけど、いざその場面に直面してみると、それを実行してしまえばヒトとしての尊厳が根こそぎ奪われてしまいそうで開き直る気分にはとてもなれない。つるりとした床を見下ろし奥歯を食いしばって我慢する。耐えろ私、負けるな私。こんなところで終わっていいわけないでしょ。
自分に発破をかけながらなんとか大きな波をやりすごして安堵感と共にふは~と息を吐き出し顔をあげると、教室の廊下側の窓の桟に四角く切り取られた授業中の光景があった。見慣れた視点とは異なる外側から眺めるのは、他のクラスだからというのもあるかもしれないけどなんだか奇妙、と思っていたら、一人の男子生徒がこっちを見ていた。同じ階には同一学年の教室が入っていて、目の前にあるのは二年生のクラスだから去年クラスメイトだった生徒の見覚えのある顔もいくつかあって彼もそのうちのひとりだったけど、印象の薄くて名前をはっきり思い出せない。その舞坂とか舞浜って男子は黒板ではなくて私がいるほうを見つめている。
バレてる?いやまさかね……真ん中あたりの列の後方に位置する彼と私とでは距離があってそのまなざしの焦点がどこで結ばれているのかまでは判別できない。廊下を挟んでその奥にある窓外の景色を眺めてるんじゃないかって振り返った先にあったのは、抜けるようなと表現できそうなさわやかな空でもなく、金魚鉢に色水を放置しておいたら底にドロリッチと絵の具が沈殿したって感じで空の高いところに濃い青が広がった夏の昼の空だ。なんだかわからないけど無性にむしゃくしゃして例の男子をにらみつけてやろうと視線を戻したら、もうこっち見てないし。
内心悪態をつきながらずかずかと歩いて行って女子トイレに辿りつき扉を開く。
「あっ」
開放的な廊下に降り注いでいた強い陽光に慣れた目にはトイレは少し薄暗く見えたけど、それでも床の光沢はタイルが光をはねつけているだけでないとわかる。床に水が散っていてタイルがほぼ全面に渡って湿気を孕んで暗く沈んだ色に変色していた。
足を見下ろして泣きたくなる。裸足だ。トイレの床を素足で踏むというだけでも嫌なのにその表面が濡れているなんて。足音が響きやすくなるからと上履きのスリッパを教室に脱いできてしまったのが悔やまれたけど、後悔なんてしていても時間を浪費するだけで体調が改善するわけもなく、行動を起こさなければならなかった。
つま先立ちになって極力濡れたタイルに足をつけないように、でも滑って転倒しないよう留意してトッ、トッ、トッ、トッ、と跳ねながら個室まで漕ぎ着けて鍵を閉める。
間に合った。誰にも悟られずに教室を抜け出してトイレへ行くという目的を私は成し遂げたのだ。
いつもの癖でスカートに手をかけようとしたけどもちろんそんなのは履いてない。宙を掻いた手をそのまま両のふとももに添えて便座に腰を下ろし、おしりに体重が乗って安心しきった途端、ジョビジョババババと激しい水音が響きだす。周囲を憚る必要もなければ余裕もなく身体を弛緩させたまま膀胱の収縮にまかせて尿を絞り出し、便座の心地よい冷たさを肌に感じながら私はなかば放心していた。
下腹部に居座っていた圧迫感がなくなると緊張から解放された反動からなのかは不明だけど、なにもかもが遠い、自分とは関係のない物のように思えて教室からも廊下からも隔てられたこの小部屋にひとり閉じこもったまま眠ってすべてをやり過ごしたいような誘惑に駆られた。実際、水分に乗って熱が逃げて行き虚脱感に支配された身体には、日陰の室内の凪いだ空気が気持ちよく、目を閉じて半分眠りに落ちていた。
頭がガクッとなって我に返る。危ない危ない。タンクに背中を預けでもしていたら本当にこのまま寝こけていたかもしれない。たしかにトイレは済んだけど、教室に帰ってふたたび制服を身に着け何事もなかったかのように授業に戻るという重大な使命が残っている。もぬけの殻となった私の席を誰かに発見するかもわからないのに、こんなとこで油を売っている場合じゃない。
時間がなかった。急がないと。
股間をちょいちょいと拭いたトイレットペーパーを便器に捨てて、ついでに足の裏も綺麗にしようかと思ったけど、どうせトイレを出るまでにまた汚れてしまう。水を流して個室を出て、またつま先立ちになって跳ねながら出口のドア脇にある手洗いの水道まで行く。
手を洗うつもりだった。けど蛇口に指をかけたとろころで鏡が目に入り動きが止まる。
ちらりと視界の隅に入ったその違和感の正体を探ろうと頭を上げて愕然とした。
鏡には私が映っていた。
え?うそでしょ。能力が切れている。もうそんなに時間が経っていたなんて。一日に五分という限度を超えて力は発動しないとわかっていても試さずにはいられなかった。お願いします。神さま、あと数分、数分だけでいいから私の身体を透明にしてください。もうこんなバカなことに自分の力を使いません。だからあと一度だけ、一度だけ身体を透明にしてください。祈りながら集中を高めていくと眉間のあたりがうっすらと熱を持つ感覚があったけど、力場が安定して全身を包みこむ前に、脳裏で思い描いたオーラのイメージは臨界に達したかのように弾けて、それにともなって力そのものも雲散霧消してしまう。何度やってみても結果は同じだった。
嫌な汗をかく。どうしてこんなことに。クラス全体が授業中にも関わらずゆる〜い雰囲気で、その独特の静けさを破って挙手をする勇気が湧かず「トイレに行っても構いませんか」の一言が言えなかった。けれどチャイムが鳴るのはあと十五分以上先で休み時間まで我慢できそうになかった。そんなときにひらめいてしまう。透明化の能力を用いればこっそりとトイレに行けるのではないかと。透けるのは身体だけで服を脱ぐ必要があるというネックはあったけど、私の席ならば悟られずにできるという発想に至ってしまった。裸になれば万が一途中で力尽きて漏らしてしまってもせっかくのおろしたてのショーツを汚さずに済む。
一石二鳥じゃないかなんて軽々しく考えていた自分を呪いたかった。このまま全裸を晒して廊下を戻るわけにはいかない。私は教室に帰れない。けれど、このまま校舎から人がいなくなるまで女子トイレに篭っていたら、教室に放置してある制服を誰かが見つけ異変を察知されてしまう。
ここを出てもここに留まっていてもロクな結果にはならない。
気づけば床のタイルに完全にかかとをつけ、自分の鏡像を見つめて立ち尽くしていた。あれほど足の裏をぺったりとつくのに抵抗を覚えていたのに、いまはもうそんなことなんてどうでもいい。
絶望しかない。
ほんとどうしたらいいの、これ。
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