朝と夕方の狭間で

ゆずりは わかば

朝のバス、夕方のバス停

 それは、信じられないほどに晴れた日のことだった。


 ***


 目覚まし時計が壊れてしまっていたのをすっかり忘れて、予定よりもだいぶ長く寝てしまった。これでは三限目の講義には間に合わない。そう悟った私は、三限目を諦めて、四限目から出席することにした。

 並び立つ空き瓶の林を横目に、薄く伸びた髭を剃り、ルーズリーフとメビウスだけを薄い鞄に詰めた。寝ている間も、つけっぱなしにしていた腕時計を見ると、今は午前11時40分。正午過ぎのバスには、確実に乗れるだろう。軋むドアを開けて、外に出ると、外はかつてないほどの快晴だった。

 バス停までの道のりは、道とも言えない細い道を行くため、複雑怪奇である。手すりのついた急な石の階段、雑木林の切れ目、境内の砂利道、それらが交わったり、離れていく場所を、毎日なぞっている。皮膚を焦がす日差しと、騒がしい蝉の声にうんざりしながら、烟草の煙を細長く流して歩く。三番目の雑木林を抜けた右側に、バス停がある。傾いた待合所には、私が設置した灰皿がある。昨日の吸い殻の上に、今日の吸い殻を落として、バスを待つ。

 額に浮いた汗をハンカチーフで拭ったのは何度目であろうか。煙草をくゆらせながら、ぼんやりと雑草を眺めていると、バスが来た。腕時計を見ると、正午ちょうどである。普段より少し早いが、なにぶん田舎のバスである。多少ルーズなくらいが良いのだ。普段のバスとは、雰囲気が違うことにも気付かず、私はそのバスに乗り込んだ。


 ***


 バスの空気は、ひんやりしていて、そして少し湿っていた。いつも通りに、右の窓際の席に座って、私はようやくバスの異様さに気づいた。

 この時間にしては、乗客が多すぎる。朝の通勤通学の時間ならともかく、この時間に、椅子がほとんど埋まるほど人が乗っているのは、おかしい。その乗客も、見慣れない顔ばかりである。通路を挟んで向こう側に座っている老人に、声をかける。


「すみません、少しお聞きしたいのですが」


 精も魂も枯れ果てた、といった様子の老人が、緩慢に振り向く。なんでしょう、と、零した老人に問う。


「このバスは、普段と何か違う様なんです。このバスがどこから来て、どこに行くか、ご存知ですか?」


「このバスがどこから来たかなんて、わたしには判りません。ただ、行きたい場所に連れて行ってくれるバスなのは、貴方もご存知の通りですよ」


 体内の言霊を全て吐き出し終えたかのように、老人は喋らなくなった。今ひとつ具体性に欠ける返答に、私は呆然としてしまう。仕方がないので、席を立ち、通路を抜けて運転席に向かう。運転手なら、何か知っているだろう。

 運転席に辿り着くまでに、多種多様な人間を見た。赤いランドセルの小学生、点滴を引き連れた浴衣の男、怪しい鞄を抱えた老婆、床の滲みを見つめる背の高い青年、窓の外をぼんやりと眺める常木さん。


「常木さん?」


 思わず声をかけてしまった。常木さんは、私と同じ学部に通う三年生である。1つ上の学年だが、同い年だ。『朝と夕方の狭間』なる論文で、哲学部の捻くれた教授たちを、1人残らずノックアウトした。という逸話を持ち、学部の皆から遠巻きにされている。彼女はそれを知ってか知らずか、独り身を楽しむように、通学時にはアルコールを摂り、四畳半の狭い下宿で、陽気にラッパを吹き鳴らす。らしい。大学内で、挨拶を交わすことはあっても、まともに会話をしたことは無かった。


「ああ、君か。奇遇だね。君もこのバスに乗れたんだね」


 常木さんの隣に座ると、なにやら不思議な香りがした。


「常木さん、このバスはなんですか? 普段のバスだと思って乗って見たら、なにやら様子が変なのです」


「君は何も知らずに、このバスに乗ったのか。幸せなものだな。ボクなんて、一年挑戦し続けて、ようやく乗れたというのに」


 彼女は、窓の外をじっと見たまま、振り返りもせずに話を続けた。


「これは、どこへでも辿り着くことのできるバスだ。底抜けの晴天の日の、正午ピッタリに現れる。このバスに乗ったということは、君には行きたくても行けない場所があるのだろう」


 常木さんの言葉を聞きながらバスの中を見回した時、私は、違和感の正体に気づいた。


「スイッチがないですね」


 次のバス停で、バスから降りる際に押すボタンが無いのだ。


「そんなものはない。必要ない」


 彼女は、ずっと窓の外を眺めている。


 ***


 決まった行き先の無いバスは、気づけば見慣れぬ街の中を走っていた。バスは、そこをスイスイと走り抜けて、消防車も真っ青の高い高いマンションの前で止まった。ぶしゅう、と開いたドアから、赤いランドセルの小学生が降りて行く。再びぶしゅう、と音がしてドアが閉まると、バスは再び走り出した。遠ざかって行くランドセルを見ながら、高木さんがつぶやく。


「あの子は、お母さんに会いに行ったのだな」


「なぜそんなことがわかるんです?」


「そんなの、見ればわかるだろう」


 わかるものか。へそが曲がりかかったその時、いつの間に乗ってきたのか。怪しげな風貌の二人組が声をかけてきた。


「どうもこんにちは。僕らは、これから桃を採りにいくところなのですが、貴方達はどちらへ?」


 真夏だというのに、2人揃って真っ黒な皮のコートを羽織り、ニット帽を眉が隠れるほど深く被っている。右側の男は毛糸の手袋、左側の男は皮の手袋をしていた。


「実は、ボクも彼も、行き先が決まっていないのです。でもまあ、ボク達は若いですから、すぐに決まりますよ」


 窓に映る彼らを見ながら、常木さんが返す。


「それはそれは。行き先が決まっていないのなら、我々と一緒に来ませんか? 桃を採るのは、とても楽しいですよ」


「どこのどんな桃なんですか? あまり高くないのなら、桃を採るのも良いかもしれません。ね、常木さん」


「どこの、どんな桃か、ですか。あまり大きな声では言えませんが、我々は盗みに行くんですよ。どこにも、誰にも、桃はあります。それを沢山盗んで自分の物にすれば、とても豊かで楽しい生活が送れるようになりますよ」


 哲学科の教授が、古事記の話をしていたことを思い出した。この二人が採りに行く「桃」とは、果実のことではない。人間の、希望の元となるものを指しているのだ。と気づき、鳥肌が立つ。


「お断りします。残念ですが、ボク達は、そんなものに興味はありません」


「そうですか。それは残念」


 お近づきの印に。と、毛糸手袋の男が、私に萎びた桃の種を握らせた。


「三年ってやつですよ。我々に残った、我々自身の桃の残り物です」


 バスが停まり、二人組は降りていった。鞄に、握らされた物をとりあえず仕舞っていると、乗り口に、見覚えのある人物が現れた。

 隣の部屋に住んでいる、棚木さんだ。話したこともないし、何をしているかも知らないが、彼が毎夜毎晩、こっそりと弾いているギターの音は、よく知っていた。音が響かないようにサウンドホールを何かで塞いで、弦をシャラリと爪でなぞる様子を夢想して、床に着くのが好きだった。でも、そんな彼がなぜここに?

 気づけばバスは見知らぬ都会の街を走っている。それに、なにやら窓に当たるような……


「雪?」


「雪くらい降るでしょう。行き先が、冬だったり、外国だったりしたら、当然ね」


 私は、もうこれしきのことでは驚かなくなり始めていた。このバスはある種の異次元ワープ機関であるのだと、脳の奥深くの、本能に近い部分で納得している。

 バスが停まり、点滴を連れた男が、降りる。テレビで見たことのある都会の駅前では、アマチュアバンドが演奏をしていた。男は、その演奏を全身で抱きしめるようにして聴いている。バスのドアが閉まる刹那、バンドのボーカルの顔がちらりと見えた。


「棚木さんだ」


 ここでは、誰もバスに乗ってこなかった。


 ***


 その後も、バスは場所も時間も関係なく、行ったり来たりした。様々な人が乗ってきて、降りていった。私達は、たまに言葉をポツポツと交わしながら、じっと席に着いていた。

 そして気づけば、バスに乗っているのは、私と常木さんだけになっていた。


「人、いなくなっちゃいましたね」


 バスの窓を開けると、桜の花びらがキラキラと舞い込んでくる。


「常木さんは、どこに行くためにこのバスに乗ったんですか? さっきの行き先が決まってないって言葉、嘘だったんでしょ」


 ああ、と、ため息のように呟いて、常木さんは、窓から流れ込むように吹いてくる、桜吹雪を眺めている。彼女は、ポロポロと語り出した。


「ボクは、自分がマイノリティであることに、疲れてしまったんだ。変人が集まってるっていう哲学科に入ってみても、やはりボクはマイノリティだった。だから、ボクは、自分がマジョリティになれる所へ行くんだ。無象の衆の歯車になって、楽になりたいんだ」


 毎日を傍若無人に過ごす、彼女の心の内に、そんな悩みがあったなんて、知らなかった。朗らかに他人を踏み台にするような彼女が、こんな普通の女の子みたいな悩みを抱えていたなんて、知らなかった。

 バスが停まり、ドアが開く。エアサスペンションがぶしぅ、と音を立て、バスが傾く。


「君の、終点だ」


 窓の外を見ると、私たちの大学がそこにあった。


「常木さんは、ここで降りないんですか?」


「ここは、私の終点じゃないから」


 さっさと行け、とでも言うように手をひらひらを振って、それっきり、彼女は黙り込んでしまった。席を立ち、出口へ向かおうとした時、私はふと思い出して立ち止まった。半分ほど吸ってしまったが、メビウスの箱を常木さんに差し出した。


「これ、今日は楽しかったです」


 彼女は、キョトンとした顔で、私の差し出した箱を見る。


「ボクはまだ未成年だよ。でも」


 彼女は箱を手のひらに乗せて、微笑んだ。


「でも、せっかくだからもらっておくよ。ありがとう。君との、長いか短いかわからない小旅行は、とても楽しかったよ。まさか、同じ大学の人だとは思わなかったけどね」


 ああ。そうか。そういうことか。彼女は、私の知っている彼女ではないのだ。私と毎日挨拶を交わしている、あの常木さんではないのだ。


「最後に1つ、良いことを教えてあげます。自分の場所が欲しいなら、掴み取ることです。例えば、一番簡単なのは、哲学科の教授たちを論文でねじ伏せるとか」


「どんなものを書けば、教授たちを打ち倒せるか、君は知っているのか? 教えてくれ」


「論文のタイトルは、『朝と夕方の狭間』なんてどうでしょう」


 ***


 バスが走り去るのを見送ってから、正門をくぐって周りを見回した。普段なら、常木さんとはこの辺りで顔を合わせるのだが、彼女の姿はなかった。しばらく正門を通る学生の顔を、じっと睨んでいたが、彼女が正門に現れることはなかった。


 1日分の講義を終えて、私は、ぶらぶらと歩いて帰った。今日はもう、バスに乗りたくなかったのだ。彼女にならって、裏門正面の酒屋で安酒を買って、ちびちびと舐めながら歩いた。夕方の蝉時雨は、朝とはまた違った色で、私と、私がぶら下げたビニール袋に、パラパラと打ち付けた。

 少し遠回りして、朝、バスに乗り込んだバス停に寄ると、バス停には、見覚えのある姿があった。

 私は、彼女のことを知っている。彼女は、私と同じ学部に通う三年生である。1つ上の学年だが、同い年だ。『朝と夕方の狭間』なる論文で、哲学部の捻くれた教授たちを、1人残らずノックアウトした。という逸話を持ち、学部の皆から遠巻きにされている。彼女はそれを知ってか知らずか、独り身を楽しむように、通学時にはアルコールを摂り、四畳半の狭い下宿で、陽気にラッパを吹き鳴らす。らしい。

 傾いた待合所には、私が設置した灰皿がある。昨日の吸い殻と、今日の吸い殻の上に、彼女は新しい吸い殻を重ねて、私がやってくるのを待っている。


「やあ、常木さん」


 私が声をかけると、彼女は、メビウスの箱を鞄にしまって、顔を上げた。


「学校の外で会うのは、2回目だ」


 彼女は、夕日のオレンジで全身を染めて、蝉時雨の中でキッパリと立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝と夕方の狭間で ゆずりは わかば @rglaylove

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ