第2話 トラウマを超えていけ
「待ってたわ。」
学校で見た姿とは違う。搔き上げていた前髪は編み込まれて、残りの髪の毛は右横で結ばれていた。上にはジャージを羽織っていて、その裾からはシンプルなスケート衣装が覗いていた。
「叔父さんから鍵はもらってきたから、ちゃっちゃと入ろ。日付変わるまでには帰れってさ。」
転校生は手際良く建物の鍵を開け、入っていった。後に続いて入ると、なんだか懐かしい感じがした。
「...思ったより変わってねえな。」
自動販売機の位置や、受付の位置が全くと言っていいほど変わっていない。強いて言えば、少し新しくなったくらいだろうか。いつもの定位置だった場所に荷物を置き、ストレッチを始める。一回踊れたからといって準備を怠ると、思わぬ怪我につながりかねない。それに、少し体も硬くなっている。筋をよく伸ばし、程よく体があったまってきたら靴を履く。久しぶりに履くからか、手つきがおぼつかない。時間がかかったがようやく履き終えた。早歩きでリンクへ向かう。入口付近にきた時に、嫌な感情が這い上がってきた。ここに立つと、あの時を思い出してしまう。リンクに入ろうとした時から、大きな歓声を受けていた頃の自分。でもその数十秒後には、その歓声は裏切りへと変わっていく。今更ながら、恐怖心が顔を出す。足が震え、シューズで立つのがきつくなってくる。
ガクッ
バランスを崩してしまった。
(やばいーー転ぶーーー!!)
痛みに耐えるため、咄嗟に目を瞑る。しかし、いくら待っても地面に体がつかない。気になって恐る恐る目を開けてみると、目の前に転校生の胸(らしきもの)があった。
「ほら、御門君ちゃんと立って。危ないよー?」
転校生は丁寧に俺を抱き上げて、手すりがあるところまで起こしてくれた。やだ...かっこいい。お胸も控えめだったから、余計かっこ良く見えた。俺を安全なところまで連れて行くと、転校生は自分の準備に取り掛かった。まだ体操が終わっていなかったらしい。視線を前に戻してリンクを見据える。大丈夫。俺ならいける。呼吸を整えて、一歩足を踏み出してみる。
「...ぅわ」
思わず声を漏らしてしまった。外から見るのとはまるで違う。世界線が違うんだ。氷の上は別世界だったのだ。久しぶりの感覚を取り戻すためにまずは壁伝いに滑っていく。大丈夫。怖くない。そう自分に暗示をかけながら滑っていくと、氷は俺を受け入れてくれた。
(今なら、いけるーーー!!!)
勢い良く壁から手を離し、スピードをつけて滑走する。冷たい風を切る感覚が気持ちいい。カーブも問題なくできた。しばらく滑っていると、フリーレッグの処理が追いついていないことにも気づけるくらい余裕ができた。やっぱりブランクあるな。スピードを緩めて、リンクの中心へ立つ。周りを見渡すと、あの時の光景が浮かんできた。また失敗するかもしれない。でも、転校生が言ってた。
『やってみなきゃ、わからない』
ああ、その通りだな。やってみないと、何もわからない。俺は目を閉じてポーズをとり、心の中で「月の光」を流し始めた。
一通り準備を終えて、リンクに入ろうとしたら、楽しそうに滑っている御門君が見えた。まるで長年遊ぶことを禁止されていた子供がようやく、遊ぶことができたような目をしている。やっぱりもともと上手かったからか、スピードがケタ違いだ。いきなり止まったかと思うと、オーラが変わった。
「っ...!!」
正直、「怖い」と思ってしまった。氷なんて生ぬるい。もっともっと冷たい絶対零度の「何か」。しかしその恐ろしい「何か」は、一瞬で表情を溶かし優しい仮面に付け替えた。覚えている、この感覚。生まれて初めてこの人を見たときにも感じた。一つ一つの動きから目を離せない。音楽なんてかかっていないのに、まるでプロの演奏家が曲を奏でている気がする。指の先の動きから、呼吸のタイミングまで、全身を使って魅了してくる。いや、魅了なんてレベルじゃない。これはもう思考統制の域に達している。見る人すべて引き込んでいくステップ。
(御門君ーーー!?)
アタシが見ていた御門君だった氷上の魔術師は、あろうことかジャンプの助走に取り掛かっていた。
一通りのステップが終わり、ジャンプの体制に入る。あの時とは違う。緊張と、少しばかりの恐怖。それもそうだ。あれは俺の人生最大のトラウマだ。そう簡単に超えられるわけがない。でも、今の俺には歓声を上げてくれる観客がいる。小さいながらも一生懸命拍手をしてくれる人がいる。
「...観てくれる人がいるのに、跳ばないスケーターはいねぇよなっ!!!」
一番の得意技、三回転トーループ。地面を勢い良く蹴って、飛んでみた。一瞬だけ世界がスローモーションになったみたいだった。その時見えたのは、目を輝かせながらこちらを観ている転校生。今までのジャンプで一番跳べてない自信はある。でも、今までで一番気持ちいいジャンプだった。このジャンプでようやく2年間のトラウマを踏み越えた...いや、跳び越えられた。着氷し一度演技を止める。ほんの1分ほどだったが、もう息が上がっていた。転校生のいた方向を見ても誰もいない。
「転校せーー」
たった一人の観客を求めて視線を動かすと、急に背中に大きな衝撃がきた。驚いてバランスを崩してしまう。でも、抱きついてきた誰かが俺を支えてくれたおかげで転ばなかった。まって...惚れてまうやろ...。この感覚、さっきもあった。支えてくれた主をみると、そこには涙を流して感動している転校生がいた。
「みかどくぅぅん!!がっごよ"がっだあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」
もうすべての言葉に濁点がつくのではないかと思うほど泣いていて、地味に何て言ってるかわからなかった。でも、今の演技で感動してくれたことだけは感じ取れた。泣き喚かれながら抱きつかれて思う。あの時のインタビューで俺は「自分のため」と答えた。でも、いまこうされて思う。俺は「観てくれる人」のためにスケートをしたいんだって。
「転校生...」
「えっ!?なに!??」
顔を上げて鼻水をすする転校生を見て、少し笑いそうになる。
「ありがとう...俺に拍手を送ってくれて。こんな俺に...ほんと...、あ、ありが...」
途中で耐えきれなくて、涙が溢れてしまった。みっともない。でも、嬉しくて涙が止まる気配がしない。すると、どこからともなくハンカチが出てきた。転校生のだ。
「礼を言うのはこっちの方だよ!これからも沢山演技見させてよね!」
少し乱雑な手つきで顔を拭いてくれる。まってちょ、痛い、いや、痛いってば。でも、何だか嬉しい気持ちが溢れてくる。そして、俺の心の中に一つやりたい事ができた。
「俺...、またスケート始めてもいいのかな...?」
もう一度あのスポットライトを浴びに、頂点へ行きたい。疑問系で聞いたのは、未だに自分に自信が持てないからだ。転校生は「なに言ってんの!」と強気な声で肯定してくれた。
「アタシはまた御門君をあのリンクで見たい。だから、戻ってきて良いんだよ!辛くて、転びそうになったらアタシを呼んで。どんなことでもさっきみたいに受け止めてあげっから!」
あまりの頼もしさについ笑いが溢れる。だって、転校生が「アタシがいれば百人力だね!」とか言い始めるから。何か面白くて。
「まって、笑いすぎて腹痛いんだけどwどうしてくれんの。」
「え!?アタシ何か変な事言った!?」
自覚が無いのがまた面白い。どれほどの時間笑っていただろうか。いつの間に時計の針が9時を指していた。かなりの時間が経っている事に気付いて、帰るために出口に二人で向かう。その時に転校生が楽しげに話しかけてきた。
「ねぇ御門君。今日からウチらスケート仲間だよね。だから御門君のこと翔って呼んで良い?」
転校生が鍵を締めながら聞いてきた。
「スケート仲間...いいよ、転校生。自由に呼んで。」
「いや、その転校生っていうのやめてよー!ちゃんと羽奏って呼んで!」
そう言って羽奏は手のひらを出してきた。これは...ハイタッチ?
「ほら、ハイタッチ。仲間でしょ?」
やっぱりか。今まで一人でスケートをやってきたから、初めて仲間というものができた事に対して少し緊張する。でも、羽奏は裏切らない。そんな気がする。俺も裏切らないようにしよう。それの誓いの証として、俺たちは控えめなハイタッチをした。もう、スケートに対する恐怖は消え去った気がする。
「...うん。一緒にあの光を浴びに行こう。」
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