High Five

@sakura399

第1話 アタシは感動した!

あ、いける。


ジャンプの姿勢に入った瞬間、わかった。今までで一番良いジャンプが出来る。快楽の匂いのする方へ、勢いよく氷を踏み切る。そのあとに見た景色は、想像と真逆のものだった。目に入るのはリンクの煌びやかな景色ではなく、天井の無機質な照明。耳に入るのは歓声や拍手ではなく、人の騒めきの声。身体にくる感触は涼しい風ではなく、氷の冷たい感触。すべての情報を整理して、ようやく理解する。


ああ、俺ジャンプ失敗したんだ。


『本日ジュニアスケート選手の橘.C.ダイアナ選手が11月の全日本フィギュアスケートジュニア選手権に向けて調整に入られました。新しい振付け師をつけて新プログラムを考えるようです。一方でーーー』

テレビのニュースキャスターが嬉々としてジュニアスケート選手について語っている。よほどスケートが好きなのだろう。テレビの音量を少し下げて、朝飯にかぶりつく。うん。やっぱり朝はパンだ。たっぷりとジャムがついたトーストを頬張り、感動する。パンを生み出した人類には感謝でしかない。最後の一口を食べ終わり、食後のコーヒーを楽しむ

「...苦い。」

いつも飲んでいるコーヒーより砂糖が少なかったようで、舌が拒絶反応を起こす。砂糖を足しに台所まで行こうとするとニュースキャスターがテンションを急に跳ね上げて話し始めた。

『そういえば、安藤選手の衣装って2年前に引退された御門選手のファイナルの衣装をモチーフにしてるんですよね。』

『そうなんですよ!!!私御門選手の大ファンで、あの事故の日、私もその会場にいたんですよ!!...あの事故さえなけれ』

ブチッ

条件反射でテレビを消してしまった。思い出したくないトラウマを抉られて気分が悪くなる。もう金輪際スケートのことは思い出さないようにしたのに。飲みかけにもかかわらずコーヒーをシンクに投げ捨て、急ぎ足で家から出る。

「おはよ〜...って翔兄ちゃんもう行くの?」

ドアを閉める間際に愛しい妹の声が聞こえたが、お兄ちゃんにそんな余裕はなかった。ごめんな。てか地味に安藤美羽許さんぞ貴様。勝手に俺の衣装モチーフにしやがって。


学校までは自転車で登校している。体力をつけるにはもってこいのコースだ。まだ8月ということもあって、日差しが痛いほど照りつけてくる。こういう日に限って日焼け止めを塗るのを忘れてしまった。日焼け止めを塗るのは、スケートをやっていた時からの習慣だ。一度たりとも忘れたことはなかったのに。

「あ...。」

また思い出してしまった。忘れたかったのに。また思い出した忌々しい記憶を振り払うように、ギアを上げた。


早くですぎたのか、教室には誰もいなかった。朝練の生徒の元気な掛け声だけが教室に響く。俺は携帯の音楽アプリを開いて「月の光」を聞く。ゆったりした曲に身を委ねていると、いつも通りのホームルームが始まった。イヤホンをさしたままなのであまりよく聞こえなかったが、どうやら転校生が来たらしい。黒板の方を見ると、そこには猫目が愛らしい黒髪が綺麗な華奢な女子がいた。

「初めまして!柊南校から来ました、観月 羽奏です!小学校の頃からスケートやってます!よろしくお願いします!!」

今日は異常なまでにスケートについて触れる。厄日かな。あんまり近づきたくないな。

「え〜じゃあ観月の席は、...御門の隣が空いてるな。そこで良いや。」

なんという奇跡。なんで俺の隣誰もいないんだよ。さっきからあの観月ってやつこっち見てるんだよな。嫌な予感がする。転校生は俺の隣に来てからも、こっちを見てくる。まるで何か確認してくるように。そして、ようやく確信を得たのか、話しかけてきた。

「...ね、君もしかしてさ、ジュニアスケート選手の御門 翔君?口元のホクロとかそっくりなんだけど...違う?」

なるほど、やっぱり。スケートやってると聞いた時から嫌な予感はしていた。

「あー...いや、うん。そうだけど...なにか...?」

「やっぱりそうだよね!アタシよく君がリンクで滑ってるの見てた!」

俺はお前のこと知らないけどな。でも、観月って名字はなんとなく聞いたことがある。確か俺の通ってたスケートリンクがそんな名前だったような...

「ねぇ、今日学校終わったらスケートしに行かない?アタシ、良い場所知ってるの。」

こいつ、なんで俺が引退したのか知らないのか。俺はもうスケートなんてしたくないのに。

「ごめん」

と、一言だけ告げて俺はイヤホンを再びさし、別の曲を聞いた。その時、彼女はどんな顔をしていたのかは知らない。



『100年に一人の天才スケーター』『グランプリ制覇最有力者』『彼のステップに酔わない人間はいない』数々の褒め言葉で飾られてきた。小さい頃からスケートをして、誰よりも努力した結果こうなった。人々はそれを『天才』のひと言で片付けようとするのが嫌だった。大会に出ては優勝し、金を逃さなかった。普段からコメントを残さない俺が一回だけ、記者の人の質問に答えたことがある。

『御門選手はなんのためにスケートをするのですか?』

子供に話しかけるような声ではなく、一選手に質問する声。敬語なんて一切使われなかった俺に、ちゃんと敬語で話しかけてくれた。その記者の質問だけは答える気になれた。滑った後で息も整わない中、最高の笑顔で俺は答えた。

「...自分のためです。」

5回目の全日本ジュニア選手権大会。フリー。第17滑走。曲は俺の勝負曲「月の光」。一回目のジャンプ。何がダメだったのかわからない。完璧と言えるレベルのジャンプができそうだったのに、失敗してしまった。起き上がって演技を続行する気にもなれない。足も痛めた。演技を途中で終えてしまった俺に労いの拍手すらない。競技後のキスアンドクライでは涙すら出なかった。その事故を機に、俺はスケート人生に鍵をかけた。


放課後、屋上でまた「月の光」を聴きながらステップを踏む。トラウマの曲を未だに聞いてるなんて、我ながらドMだと思う。足の痛みはもうない。きっと元のレベルまではすぐに戻れるだろう。失敗した部分のジャンプも今は綺麗に飛べた。ああ。やっぱり気持ちいい。この感覚は何物にも変えられない。一通り踊り終わって、最後のポーズを決める。すると、入り口の方から拍手が聞こえてきた。あの転校生だ。

「凄い!!!やっぱり凄いよ!!御門君の演技かっこいい!!!」

幼稚な褒め言葉を並べて一生懸命褒めてくれた。そんな言葉は今まで言われてきた褒め言葉の中で一番拙い。でも。不思議とそれが今までで一番心に響いた。こんなに感動してくれる人がいるなら、またーーーー

「...やめてくれ。」

無理だ。

「どれだけ上手くても業界は厳しい。一度挫折した人間を受け入れるはずがない。俺にはブランクというものが存在してるし...こんな人間を新たに引き入れるより、今いる優秀な人材を育てた方が手っ取り早い。...それくらい、わかるだろ。」

自分で言うと余計悲しくなった。でも、正論だ。ごめんな、転校生。こんなに褒めてくれたのに、俺はそれを受け入れられない。ただ胸にかかった鎖をきつくするだけだ。転校生の隣を通って屋上を後にしようとすると、転校生はこちらを向かずに口だけ開いた。

「...でも、アタシは感動した!今の演技に引き込まれた。アタシはあなたじゃないから、あなたの気持ちはわからない。苦しみもわかってあげられない。それでも、...やるだけやってみたらいいと思う。やらないより絶対良い。」

こっちを振り向いてもう一言言う。

「アタシの叔父さんがここの近くでリンク開いてるの。...よかったら今日の夜来て。待ってるから。」

そう言って一枚のチラシを渡してきた。そこには見慣れた場所が載っていた。詳しく聞こうとすると、そこにあの子はいなかった。呆然としていると下校のチャイムが夕空に鳴り響いた。チラシに目を落とす。地図を見て納得する。

「ここって...俺の通ってたスケートリンクじゃん...。もしかして...。」

2年前までは毎日のように通っていたので、地図をパッとみればなんとなく場所がわかった。あの子は俺のボロボロな演技でも感動してくれた。そんな人がいるなら。俺はシューズを探すために自転車を最速でこいで帰った。


シューズはすぐに見つかった。戸棚の一番上に大事そうに置いてあった。どうやら母が手入れをしてくれているようだ。ブレードのビスもしっかり止まっている。練習着を取り出して再び思う。本当に戻って良いのか、と。2年も離れていた自分が、今のトップスケーター達に追いつけるのか。地面の上では踊れたけど、いざ氷の上に立ったらどうなるんだろう。嫌な予感が次々湧いてくる。でも、ふと頭の中にあの転校生の一言が頭に思い浮かんだ。

『...でも、アタシは感動した!』

俺がスケートをやめようと思ったのは、演技に失敗したからではない。自分のステップに感動してくれなかった観客に愛想を尽かしたからだ。失敗したジャンプまで、20秒ほど俺はステップ踏んでいた。この時のために新しく自分で考えたもので、振付け師さんも感動していた。俺は最初のここだけでも称賛されると思っていた。でも、現実は厳しい。一番の見せ場のジャンプを失敗してしまっただけで、観客は俺を突き放した。転倒後に待っていたのは静寂と絶望。他人の所為にするのは良くないが、これも立派な理由の一つだ。でも俺には一人、感動してくれる人ができた。たった一人だけど、一人いてくれる。それだけで、十分心の支えになった。若干手が震えたが、練習着に袖を通してシューズを持って、外ぐつを履きに玄関へ向かった。その途中、母が見送りに来てくれた。

「翔さん...また、またスケートをしてくださるのね。」

嬉しそうな母の表情。母の期待を裏切っていたと思うと、胸のあたりが少し痛む。まだ完全復帰するわけではない。今日は試しに滑るだけ。

「いいえ...母さん。今日は調整に行くだけです。9時には帰るようにしますので。ご心配なく。」

「9時までなんて言わないで。連絡を下されば、日付が変わる前に帰ってきててくれれば大丈夫です。存分に楽しんできてください。母はいつでも翔さんを応援しています。」

俺はなんて愚かなのだろう。こんなにも近くに応援してくれている人がいたのに、気がつかなかったなんて。俺は母に会釈だけをして家を後にした。


夏の夜はまだまだ暑かった。2年前の記憶を思い出しながら、自転車をとばす。疑問は確信へと変わった。2年前と全く変わっていない。楠区観月スケートリンク。もう電気は消えていて、誰もいないように見えた。玄関は鍵が閉まっていて、俺が入れないことを示していた。

(来いって言ったのはあいつなのに...)

時計は午後7時半を指していて、夜ご飯を早めに食べてしまったから少し腹の虫がうるさい。自転車が止まる音がして、後ろを向いてみるとそこにはスケート靴を肩にかけている転校生がいた。

「待ってたわ。」

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