第26話

*☆*☆*

 夜が明けた。

 雨はまだ、降り続いている。

 いや、降るというより、天の海に穴でも開いたような勢いだ。

 豪雨を突いて参内した者たちは、表面穏やかに相対しているが、互いの腹を探るのに忙しい。

 いつもなら朝議が終わった時点で帰宅する者たちまで、なにやら口実を作って、居残っていた。

 エルバスを心底嫌悪しているスティア・クロウ伯爵も、気味の悪いほど愛想の良い笑顔で、他愛もない話に興じていた。

 相手は、摂政から東塔の管理を託されている、タイヴェリー。

 先の聖王付きの小姓だったが、生真面目と従順さだけを買われカイドの後押しで、騎士に任じられた男だ。

(こいつとシレーユだけは、絶対に息の根を止めてやる。 絶対だっ)

 滑らかな笑顔の底で、クロウ伯爵は拳を握る。

 自分の密偵が記憶を失い、何の情報も得られないなど、信じられなかった。

 まさに、前代未聞の異常事態だ。

 たとえわずかでも、真相を掴まねば。

 政敵に先んじられるなど、もってのほかだった。

 無愛想なタイヴェリーへ向ける微笑が、引きつりそうなものになっていた。

 脱出口であるはずの小道には、諸侯の放った密偵が、鈴なりになっていたはずだ。

 式典にかこつけて、女神を略奪しようと、どの貴族も互いの隙を覗っていた。

 覗っていた はずだった。

 それらの者が、ひとり残らず、その時の記憶だけを失っているなどありえない。

 あろうはずがない。

 自分の密偵だけが、記憶を奪われたのだ。

 絶対に、そうだ。

 そう、クロウ伯爵は確信していた。

(これは、わたしを陥れる誰かの陰謀に違いないっ)

 東塔の兵が女神を略奪した事も、摂政カイドが、女神を取り逃がした事も、配下の密偵は、詳細に報告した。

 それなのに、女神に関する記憶だけがないとは。

 誰が、女神を連れ去ったかさえ、覚えていないとは。

 暗殺者が警戒している城内では、決して争わないと暗黙のうちに了解されていた事を、誰かが破ったのだろうか。

 ひょっとして、ここにいる誰かが、すでに女神を手に入れているのでは。

 そうであるなら、決して争うわけにはいかない。

 神から人へ権力が移ったとしても、すぐに今の体制が変わるわけではない。

 女神が地上にいる今こそ、四宝の力を使わずとも、ヒリングハムの扉は簡単に開くはずだ。ならば、女神を手にした者こそが、地の者の王。

 うまく、立ち回らねば後れを取る。

 慎重の上にも、慎重に。

(しかし、誰が女神を?)

 クロウ伯爵の腹の底に、疑心暗鬼と、おどろおどろしい執念が渦巻いていた。

 あの日、それぞれの密偵たちは、記憶を失い呆けた状態で発見された。

 何があったのかは、全く不明だ。

 ただ、干からびるほどの過酷な陽射しに晒されたにもかかわらず、ひとりの死者も出ていない。

 まるで、心地よい午睡から覚めたように、元気になった者もいた。

 朝議の席で、不気味なくらい沈黙を貫いたラドゥラ・アイン。

 完全に、女神の存在を無視した摂政カイド。

 執念に凝り固まったこの男たちが、あっさりと女神から手を引くとは考えられない。

 すでにどちらかが、女神を手に入れているのでは。

 表面上、穏やかな者たちの内側は、戦々恐々としていた。

(いったい 誰が)

 多少の危険は冒しても、正確な情報を手にしなくては身の破滅だ。

 クロウ伯爵の笑顔に、鬼気迫る気魄が混じった。

 少し遅れて退出したエルバスは、控えの間から回廊にいたるまで、びっしりとひしめいている諸侯を見渡した。

(やれやれ 厚顔な方たちだ)

 昨日の出来事を知らぬ顔で通す面々にとって、無表情のシレーユ候は、掴みどころのない苦手な存在だ。

 探り出すつもりが、自分の墓穴を掘りかねない。

 なにが潜んでいるか分らない藪をつつくなど、もってのほかだ。

 そんな思惑からか、エルバスに近づく者はない。

 会釈する人波を縫い、そ知らぬ顔でエルバスは回廊へと抜けた。

 正面玄関へ続く角を曲がるなり、なにやら怒声が響き渡る。

 遠巻きに立ち止まる貴族の真ん中で、雷雨に負けない大声を上げ、怒り狂うフィリング伯爵がいた。

 胸倉をつかまれ、足元もおぼつかないのは、弟のバンテ・ロウ。

 いまだ酔いの覚めぬ弟を、伯爵は殴らんばかりに揺さぶっている。

 日頃の威厳はどこへやら、体裁もなにもあったものではない。

 そんなふたりのそばに立ち止まり、エルバスは、めずらしく微笑んだ。

 一瞬、誰もが、口をつぐむ。

 やんわりと会釈するエルバスに、兄伯爵はあっけに取られて開いた口を、慌てて引き結んだ。

「仲むつまじくて、うらやましい限りです、伯爵殿。弟殿下も、お体をお大切に。では、失礼を」

 言葉もないフィリング伯爵を残し、立ち去ろうとするエルバスを、コンラッド老子爵が捕まえた。

「今日こそは、一矢 報いますぞ」

 わずかに狼狽し、エルバスは物言いたげにフィリング伯爵へ視線を投げた。

 けれど、老子爵のお守りを押しつけるなと言わんばかりに、フィリング伯爵は、挨拶もそこそこに立ち去ってしまった。

 近くにいた貴族たちも、慌てて目を逸らし、こぞって離れてゆく。

 いたずらっぽいコンラッド老子爵の目に、嬉しそうな光が宿った。

「おぉ! これはめずらしい。弟君も、一手いかがかな?」

 酒で上機嫌のバンテ・ロウは、酔っ払い特有の朗らかさで笑った。

「これは 光栄に存じますが、お相手したいのは やまやまなれど、無粋者にて  失礼をいたすやも  しれません」

 バンテ・ロウが盛大なげっぷを上げて、よろよろとたたらを踏んだ。

 酒臭さがあたりに広がり、残っていた者たちが、先を争って退散する。

「これは いかん。  失敬  いや 失礼いたした」

 千鳥足に遠ざかる背が、いかにも楽しげで、エルバスの笑みが深くなった。

 いたずら小僧そのものの老子爵に向き直り、軽く頭を下げる。

「では、ご老人。お相手くださいますか?」

 雷の混じる激しい雨に背を向け、ふたりは回廊へと引き返す。

 退出する面々は肩越しに振り返り、呆れ顔や蔑む視線で追いかけていた。

 こんな日に駒など運んで遊ぶとは、なんて 酔狂な と。

 半分頭のボケかけた年寄りに、得体の知れない平民上がりが、と。

 見送る多くの視線が、嘲りも露に語っていた。

 互いに様子をうかがい、見切りをつけた者が、ひとりふたりと岐路に着く。

 暑さは緩むどころか、むせかえる湿気をともなって拷問に近い。

 贅沢な馬車は列を成して、主人の帰城を待っていた。 

 豪雨に張り出した屋根など役に立つはずもなく、びしょ濡れになって馬車に転がり込んだ者たちは、申し合わせたように疲れきったため息を落とした。

 疑り深いクロウ伯爵も、軽蔑する視線をエルバスに向け、ようやく自分の馬車に乗り込んだ。

 滴る雨水ごと帽子を投げ出し、疲れ果てて襟元をゆるめる。

 窮屈で張りつく官服など、さっさと脱いでくつろぎたい。と、言うのが本音だ。

 わけの分らない事に振り回されて、何の得があったのか。

 居心地の悪さと、気持ち悪さ以外に、何も入手できなかった。

 どうやら政敵たちも、自分同様らしい。

 この分では、たいした情報は持っていないだろう。

(大神官が現れたからといって、若造ひとりに 何が出来るわけでもあるまい)

 クロウ伯爵の思いは、飽食に慣れきった貴族たちの思いと同じ。

 時代の転換期を知らない階級の、驕りに他ならない。

 けぶる雨を透かし見て、歩き出したエルバスとコンラッド子爵が、すまし顔で頷きあった訳を、知る者はいなかった。


*☆*☆*

 激しい雨が、朦朧としている頭に響いている。

 ルーヴィルを追っているうちに、水の氾濫する地下街で見失ってしまった。

 頭領のゼガリアに、決して見失うなと、何があっても離れるなと命令されていたのに。

 押し寄せる水が、いっきに身体を呑み込んで、仲間ともども巻き込まれてしまった。

 肺の空気も、意識も、一瞬で闇に落ちた。

 それなのに、薬草のすっとする匂いで、自然とまぶたが開く。

「気がついたか。お前さんたち」

 跳ね起きて、寸鉄も身に帯びていないことに、初めて気がつく。

「わしも、まだ死にたくはないでのぅ」

 のんびりした口調の老人に、暗殺者は戸惑った。

 見渡せば、同じようにふたりの仲間も起き上がっていた。

「排水溝から生きて流れ着くとは、たいした生命力じゃて。なに、心配はいらん。ここは北の岩場にある渡りの村。もうすぐお前さんたちが守っておった者も、やって来る」

 包床(パオ)の戸布を持ち上げ、見知った男が入ってきた。

 ルーヴィルを、自由にしてやってくれと言った男。

 ヤムだ。

 草で編んだ円座を引き寄せ、鼻を突き合わせるほどの場所へ、ヤムは胡坐を組んだ。

「驚いたぜ。死体にもならずに、ここへ流されるなんて。さすがは暗殺者だ」

 カラカラと笑うヤムに、途方にくれた顔を向ける。

 実際、どうして良いか分らない。

 頭領のゼガリアから、何が起こっても、ルーヴィルの後を追えと命令されていたのに。

 気を失うような失態を犯し、渡りの者に正体を知られるなんて、もう、影に潜んでルーヴィルを守ることはできなくなった。

「どうじゃな。わしら渡りの者といっしょに、行くかね? わしらの一族は、共に生きようとする者なら、喜んで受け入れる。力のある若い衆は、渡りの宝じゃからのぅ。歓迎するぞい」




 風は光を織り込んで、淡々と大地に敷き積もる。

 北の岩場から別れた一隊が、ラジェッタ目指して馬を進めていた。

 屈強な者ばかりで固めた、狩の一隊だ。

 彼らは北の岩場に雨が降り、獲物が集まるのを見定めた後、ユミル山に向けて出発する。

一族の収入源である、大型の獣を狩るためだ。

 大鹿や山牛、野生馬。数は少ないが、熊も狩る。

 一ヶ月のうちに、山腹にある狩り宿までたどり着き、豪雪期になるまでの三ヶ月の間、高価な獲物を追う。

 今年の雨季に、北の岩場で若い衆が一族に加わった。その中に、熊の血で高価な薬を作れる者がいた。

 渡りの者にとって、一族に富をもたらす者は大切にされる。それが若く、力のある者なら、なおさら大事にされた。

「わしにも、薬の作り方を教えてくれるか?」

 親しげに馬を寄せた隊の長が、満面の笑みで声を掛けてくる。

「ええ。知りたいと思う人  誰でも」

 後ろから、わしも 自分もと 声が上がる。

 振り返り、うなづくルーヴィルの目に、女たちのにぎやかな馬車が映った。

 隊の真ん中を行く、妻たちを乗せた馬車だ。

 皆、思い思いの頭絹(ショール)で髪を包み、後ろで結び目にしている。

 鮮やかに染めた羊の毛を、糸に紡ぐ者。

 模様を入れ込みながら、上着を編んでいる者。

 小さな木枠に絹の縦糸を張り、美しい粒ガラスで飾りを織っている者。

 それぞれが、道中の時間を利用して、交易品を仕上げていく。

 その中に、婚礼を控えたレイアがいた。

 時折、はやし立てた笑い声が響いてくる。

「狩が終わって冬の村に着いたら、婚礼だ。幸せ者だね、あんたは。まったくルーヴィルには、あんた以外見えていないからね」

 最年長の女にからかわれ、レイアは頬を染めた。

「それに、柔らかないい手を持っているしね。婚礼の衣装が仕上がったら、次は、帯飾りの刺繍を教えてあげよう。売り物になるよう、がんばるんだよ」

「ほんとう? わたしにも、出来る?」

 目をキラキラさせるレイアに、女は笑い返した。

「あぁ、すぐに 出来るとも」

 レイアの膝に広げた上着には、艶やかな絹糸の鳥が飛んでいる。

 ルーヴィルの、婚礼の衣装だ。

 渡りの者が冬を越す村で、ふたりは結婚する。

 その衣装に刺繍をほどこすのは、花嫁の仕事だった。

「うれしい」

 こんもりした森を抜け、見晴らしの良い峠に来て、女たちがいっせいに振り返った。

 疲れた目を上げ、レイアも振り返る。

 まばらな木々の間から、はるか遠くにアルラントの都市が見渡せた。

 小さな、点のような都市。

 レイアを、ルーヴィルのもとへ誘ってくれた都市。

(いつか きっと、サー・レイン。老師  )  

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