第25話
*☆*☆*
押し寄せる泥水が、ふくらはぎを洗う。
せめて、ムナトの古井戸まで たどり着ければ。
「降ろして、ルーヴィル」
流れに足を取られてよろめく腕の中で、レイアが強い声をあげる。
「だいじょうぶよ。わたしだって、がんばれる」
見上げる顔に、強がった色はない。
「あなたと、どこまでも 生きたいから」
一瞬、ルーヴィルの顔が、泣き笑いになる。
「 レイア」
肩を抱き合い歩き出したふたりの前へ、とつぜん縄梯子が降ってきた。
すぐ後ろを進んでいたヤムが、ぶつかって転びそうになる。
「こっちだっ」
低い天井の一部が穴をあけ、見知った男が手招きした。
「ヴァンキー?」
じれったそうに、なおも手招きするヴァンキー。
「とっとと あがって来い!」
押し寄せる水に逆らい、ふたりは両脇から縄梯子を支える。
登るレイアを引き上げ、無事にふたりが登りきると、ヴァンキーは引き戸代りの石蓋を 穴の上に滑らせようと踏ん張った。
「手伝えっ!」
一人では重い石蓋も、三人なら易々と滑り出す。
手早く穴をふさぎ、その上に跳ね上げ式の重い鉄格子を倒しかけ、太いかんぬきで四方を床に止めつけて、ようやくヴァンキーは身体を起こした。
「これで 少しは時間がかせげる。水の来ないうちに、行くぞ」
狭い部屋だ。
いや、部屋というより。
「登るんだよな やっぱり」
ヤムの独り言に、黙ったままルーヴィルも頷いた。
ここは、度外れた広さのたて穴だ。
壁のカンテラを腰に吊るし、ヴァンキーは上へ伸びる梯子に足をかけた。
はるか上に見える灯りは、点のよう。
「老師が、お待ちかねだ。急いでくれ」
*☆*☆*
広間へ続く螺旋階段の最下部で、カリは頭上を振り仰いだ。
地上へ舞い戻ったとき、やはり水晶の中から少女は消えていた。
いったいどれほどの時間を、少女はあの中で過ごしたのだろう。
誰が、何の目的で少女を封じたのか。
テンが少女から引き継いだ役割は、カリの役割でもあった。
少女を解放し、ベルダそのものを消失させたことで、カリはアルラントの将来を否応なく背負ってしまった。
これから時代は、大きく動くだろう。
この国を変えるものが、間近に迫っている。
地の者の王と呼ばれるその者が、民に幸せを運んでくれるよう願うばかりだ。
(ルーヴィル。これが おれの限界)
地下街へ流れ込む雨水を、出来うる限りカリはせき止めた。
ルーヴィルたちが ヴァンキーに救われた後、やっとの思いでここに戻ってきた。
テンの癒しがなかったら、とうてい起き上がれないほどカリは疲れていた。
ため息とともに階上から目を転じた先に、結界の薄闇が映る。
広間には、直立不動の摂政以下、文武百官が透かし見えた。
(負けない。 負けられない)
真っ直ぐに目線を上げ、カリは一歩を踏み出した。
*☆*☆*
「記憶がない と?」
城から帰宅して、エルバスは呆けている部下から報告を受けようとした。
何らかの動きを見せるだろう諸侯たちを、それとなく監視するよう言いつけておいたのだが。
「申し訳ございません。ですが、まったく何も、覚えていないのです」
命令を遂行できなかった自責の念と、記憶がなくなったことの戸惑いで、部下は蒼白になっていた。
「記憶がないのは、お前たちだけか?」
「いえ、それが。 どうやら あの場にいた全員かと 」
妙だ。と、エルバスは自問した。
フィリング家の弟伯爵では、とうてい出来そうもない芸当だ。
ましてヤムでは、とても無理だろう。
では、誰が?
困惑する部下を下がらせ、エルバスは窓ガラスを洗う豪雨に目を移した。
(何か、とてつもない力が 働いたのだろうか )
つい先ほど、ベルダの塔で行われた儀式を、思い出す。
誰もが、大神官の消滅を確信していた。
ベルダの塔に挑み、一度として生還したことのない世代交代の儀式。
神の意思により、永遠に聖王の治世を存続させようとするベルダに対し、神から人の治世へと、転換させる役割を担う大神官。
アルラントの未来を掌握するため、時おり現れる大神官の存在を、エルバスは調べ上げた。
それほど多くない文献には、歴代の大神官のすべてが、いずれも塔から消滅したと記録されていた。
塔の扉が七色に発光し、大神官の消滅を告げる、と。
だからこそ、無事に扉を抜け姿を現した若き大神官に、摂政以下文武百官は、畏怖の思いで膝を屈っした。
現れた大神官が、ひどく憔悴していると感じたのは、エルバスだけではないだろう。
塔の内で何があったのか、本人が語らぬ限り知る術はない。
(だが、すべては、うまく運んだ)
ヤムの望み通り、小鳥たちは、無事に飛び立てたはずだ。
それが、なにより今は嬉しかった。
明日の朝議が楽しみだと、いつもの笑みが浮かぶ。
この事で慌てふためく諸侯たちが、どんな顔をするだろう。
神から人の手に、治世の権利は移った。
聖王の絶対的な権限は消滅し、女神の価値もなくなった。
神と並び立つ者。
地の者の王を導く大神官が、治世を引き継いだのだから。
政争の渦中に飛び込んだ、若き大神官。
アフロの加護で生き延びてくれるようにと、エルバスは願った。
*☆*☆*
「ルーヴィルが、消えた だと?」
帰宅したラドゥラ・アインを 激怒させる報告が待っていた。
記憶をなくし、呆ける暗殺者たち。
ルーヴィルに付けた者たちの失踪。
諸々の報告をするゼガリアの淡々とした物言いが、いっそうラドゥラ・アインを苛立たせる。
恐縮する風もなく、自分を見据えるゼガリアを睨みつけた。
思わず剣の柄を握り締め、鞘走ろうとして、思いとどまる。
自分の死を望む者に、安寧をくれてやることはない。
今はまだ、手駒として使える男を殺してなるものか。
「女神も、行方不明だと言うのだな」
怒りのおさまらぬまま、ラドゥラ・アインは鞘ごと剣を抜きゼガリアに投げつける。
「おそらくは地下街の氾濫で、流されたものと思われます」
身体を投げ出し、暗い窓に視線を這わせるラドゥラ・アインの横顔は、荒々しく削り取った石像のようだった。
「もう良い! 今さら見つかろうが、何の役にも立たぬわ。女神も 聖王も 聖太子も ルーヴィルも。 こうなったら、なんとしても四宝を手に入れ、わしが地の者の王とならねば」
ゼガリアの目に映るのは、一気に転落しようとしている男の断末魔だ。
「手に入れよ。 四宝のすべてを 集めさせろ」
*☆*☆*
竪穴を登りきる前に、梯子は狭い横穴で終わっていた。
相当な距離を覚悟していただけに、三人は胸をなでおろした。
「どこへ、つながっているんだ?」
ヤムの問いに、ヴァンキーは肩をすくめる。
「まさか、敵の息子を案内するとはな」
うんざりした様子に、ルーヴィルが鼻を鳴らした。
「邪魔が入る前に、老師と会ってくれ。そうでないと、仲間われのもとだ」
急かされて、長い坂道を駆け上がる。
息切れするレイアを抱え、やっとたどり着いた扉の向こうは、垂れ布で仕切られた小部屋になっていた。
草で編んだ敷物から立ち上がり、痩せた老人が微笑む。
「久しいな。レイア」
「サー・レイン… 老師さま」
穏やかな仕草で、老師はレイアを懐にいざなった。
「みなは 元気にしているか?」
うなづくレイアの頬に、涙がつたった。
「老師も、お元気そうで 安心しました」
扉を背に、ヴァンキーは老師に向かい軽く頭を下げた。
「そうだな、時間がない」
レイアを離し、老師は顔を覗き込む。
無理に涙を飲み込んで、レイアも顔を上げた。
「やっと、みなの意見がひとつになりました。天空の都は、地上を離れます。そして、星海の奥へとまいります。もう、二度と地上へは戻りません。そう、決まりました」
深く息を吐き、重荷を下ろしたように老師は笑んだ。
一抹の寂しさと、わずかな落胆が混じりあったような笑み。
「では、四宝もおおかたの役割を終えたか」
ギョッと息を呑むヴァンキーに、老師は首を振る。
「そのほうが良い。争いと分裂の種になるよりは。そう思わぬか、ヴァンキー」
返事に詰まったヴァンキーへ、レイアは厳しい表情を向ける。
「四宝は、あなた方の考えているようなものではありません。あれは、天空の都にいた人々の、傲慢な思いが形となった物。争いと災いからなる物です。四宝を発動させても、もはやヒリングハムの扉は開かない。ただ、もしかして地の者の王が、世界の救済を望むなら、滅ぼされた民の末裔に、希望が射すかもしれないけれど」
かすかに、奥へ続く扉から、せわしない足音が伝わってきた。
「誰か 来る。 急いでっ」
ヴァンキーの一声に、老師は今一度レイアを懐に抱いた。
「ともに、旅立つか」
「いいえ、わたくしは残ります。ですから、生きてさえあれば いつか」
「そうか」
ひたとルーヴィルを見つめ、老師はレイアを押しやった。
「若者よ、我らの宝を託す。 守ってくれ」
頷いて、ルーヴィルはレイアを引き寄せた。
「ここは おれがなんとかする。 ふたりを頼む」
行け、と手を振るヴァンキーに、ヤムは力強く頷いた。
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