第24話
*☆*☆*
地下の居住区。
レイアを見つけた袋小路で、ルーヴィルは待ちつづけていた。
持ってきたろうそくは、三本目が燃え尽きようとしている。
抱えた膝に額をあずけて、暴走しそうな想いを我慢する。
ただでさえ重い空気が、時間とともに厚みを増していた。
うだるような暑さが、湿気に取りこまれ滴ってゆく。
(おかしい。 水のにおいだ)
身体の内と外に、濃い湿気がまとわりついて、息苦しい。
(どうした、ヤム。 早く来い)
レイアを待つ苛立ちとは別に、ここから逃げ出したいような、いたたまれなさ。
しいて言えば、本能的な怖れからくるあせりだ。
新しいろうそくに火を移したルーヴィルは、袋小路の壁が動くのに気がついた。
その一部が、扉でも引くように開いてゆく。
「ヤムかっ 」
滑り出る人影に、ルーヴィルはほっと息をついた。
カンテラを掲げたヤムの横から、小姓姿のレイアが飛び出てくる。
走って来たのだろう。
弾む呼吸と額の汗、抱きとめた腕に熱い。
「急ごう 」
壁を封じ、振り向いたヤムは、言葉をとぎらせた。
ヤムの視線を追うまでもなく、複数の殺気が立ちはだかるのを、ルーヴィルは背中に感じた。
ゆっくりと身体をめぐらせ、背後にレイアをかばう。
「寝返ったな ヤム」
線の細い貧弱な男が、指を突きつけて吐きすてた。
そのまま指先をルーヴィルに移し、勝ち誇って笑う。
「やっぱり、おまえは敵だ。 へっ やっぱりな」
口角に泡を溜め、もう片方の手で、ひっきりなしに飴のような髪をかきあげる。
その風体と仕草には、見覚えがある。
(思い出した。いつも、キリーとつるんでいた。 そう、クリン)
キャメルに恋焦がれ、ヴァンキーの店で死んでいったキリー。
ヤムの腕の中で息絶えたその男が、憐れんでいたクリン。
「見たんだ おれは。おまえ達が、貴族の屋敷から出てくるのを」
まわりにいる仲間へちらちらと視線を泳がせ、クリンは有頂天になっていた。
(なんだ。 なにが?)
クリンと他の者達のあいだに、ヤムは違和感を嗅ぎ取った。
「だからって、おれは寝返ったりしていない」
強く言いきった声に、小躍りせんばかりだったクリンの目が見開いた。
「ヴァンキーも、承知している。どいてくれ、老師が待っている」
ヴァンキー、老師、と言う言葉に、クリンの顔が歪む。
だが、他の者に動揺は見えない。
むしろ、レイアへ向ける目は、猛禽のそれだ。
「おれ達のものだ。老師だろうが貴族だろうが、誰にも女神は渡さない。ヒリングハムの扉を開けるのは、おれ達だ。」
それぞれの手に武器が握られるのを見て、ヤムの肩から外套が落ちる。
「おまえ達は、シークラーを裏切るんだな。 仲間を、老師を」
短剣を構えたひとりが、嘲笑した。
「裏切ったりは、しない。初めから、決めていた事だ」
規模を増すシークラーに、漠然と感じていた言いようのない思い。
何が、どんな風に前とは違うのか、ヤムは今はっきりと理解した。
革命の意志で集った者達をさえ、己の欲望に利用する輩がいる。
「ならば、おまえ達こそ シークラーの敵だ」
ふたりをかばい、後ろ手にしたヤムの手の内に、細いナイフが滑り出た。
「なんだっ! なに言ってんだ!」
クリンの悲鳴が、合図になった。
先頭で踏みこんできた男の刃を弾き上げ、ヤムの拳がみぞおちに食い込む。
背中に切りかかる横面を踵がなぎ払い、空中で回転した男が、床に潰れてうめき声を上げた。
背後で生肉を打ちつける音と共に、男がひとり壁からずり落ちる。
しなるルーヴィルの足が、呆然と立ち止まったもう一人を、通路の向こうまで蹴り飛ばしていた。
ぴしゃりと、男は水を跳ね返して動かなくなる。
四人が倒れ伏し、立っているのは状況を把握できないクリンと、偉丈夫がふたり。
そのうちのひとりを、ルーヴィルは知っている。
確か、ヴァンキーの店でキャメルにからんでいた傭兵。
体重を移して床を探ったヤムは、一瞬、足元に視線を落とした。
(水? ! そうか、雨! )
ヤムの頭に、昨年の雨季が浮かぶ。
「クリン、地上へにげろ。 水が来る」
身構える偉丈夫達を睨みつけ、ヤムは まごつくクリンに呼びかける。
「分からないのか、雨だ。 足元を見ろっ」
小さな水溜りが見る間につながって、微かに流れ始めていた。
クリンの喉から、笛のような悲鳴が上がった。
床に沈んだ男達も、折り曲げていた身体を痙攣させる。
苦痛に動けないまま、ここで死にたくはないのだろう。
うめき声や罵声を洩らしながらも、這いずろうとしていた。
「時間がねぇな。とっとと片付けて、女神をいただこうぜ」
目配せを交わしたふたりが、長剣を抜き放つ。
「あ 雨だ 雨だっ 雨だぁっ!」
白目を剥いたクリンが、身を翻し、そのまま叫びながら走り出す。
切っ先をヤムに突きつけ、偉丈夫は口の端だけを歪めた。
「女神を置いて行くなら、見逃してやるぜ。坊ず」
すっと目を細め、ナイフを持ち替えると、ヤムは腰から抜いた短剣を逆手に構える。
「邪魔をするなら、後悔するぜ」
肩を並べるルーヴィルに、レイアを連れて下がるよう合図する。
だが、ルーヴィルは下がらなかった。
「こっちの男は、おれが始末する。もう誰にも、おれ達の邪魔はさせない」
傭兵の目から視線を外さずに、ルーヴィルも短剣を構えた。
身体中から立ち昇る殺気は臨界点を越え、すべての気配が、消える。
やっとの思いで立ち上がった男が、壁にすがったまま凍りついた。
なにかを思い出して、傭兵の顔が硬直する。
絞り出したかすれ声には、恐怖が満ちていた。
「ァ ア サ シン 」
すぐ鼻先にいるルーヴィルが、透明になったかのような錯覚。
「こいつは、本気だ。てめぇが可愛い奴は、失せろ」
ヤムの押し殺した声に、顔を見合わせた男達が生唾を飲み込んだ。
「真っ平だ。おれはまだ、死にたくねぇっ」
一瞬でもルーヴィルから目を離さず、傭兵は後退る。
通路の壁に背中がぶつかるやいなや、悲鳴とともに飛び上がり、死に物狂いで走り出した。つられたように壁を伝う男も、よろめく足を急がせて逃げて行く。
長剣を握りなおした偉丈夫が、蒼白な唇をなめた。
落ち着かない目が怯えを浮かべ、物欲しそうにレイアの上にある。
足首を洗うほど、水は増えていた。
「殺るなら、遠慮はいらないぜ」
踏み出すヤムに押され後退る背中が、水を噴く壁に突き当たる。
それが 限界。
声を忘れた偉丈夫の手から剣が離れ、浅い流れに飛沫をたてる。
女々しく悲鳴を洩らし、偉丈夫も身を翻した。
顎から滴る冷や汗を手の甲でぬぐい、ヤムはルーヴィルを見た。
総毛立ち、身の内が凍るほどの、絶対的な恐怖。
ひとかけらの感情も残さない殺人の武器が、そこに在った。
生命を刈り取る以外、意識の内には存在し得ない物。
とどめを刺さなかったのは、たぶんレイアがいるからだ。
「ルーヴィル 」
そばに寄り添ったレイアが、構えた腕に手を置いてささやいた。
触れれば血しぶきそうな眼窩から、死神の影が掻き消える。
心配そうに見上げるのへ柔らかく頷いて、ルーヴィルは華奢な肩を引き寄せた。
北の岩場まで、地下を行くのは不可能だ。
ムナトの古井戸に、行き着けるかどうか。
武器をしまったルーヴィルが、レイアを抱き上げた。
そのまま目配せして、ヤムと共に走り出す。
「渡りの者が待ってる。おれは、あきらめない」
*☆*☆*
天に穴が開いたように、突然降り出した雨。
バルコニーを水浸しにし、部屋との境に掘られた排水溝が小さな渦を巻く。
酷暑に大量の雨が蒸発して、息詰まるほど蒸し暑い空気が満ちていた。
張りつく服に閉口しながら、フリアは護衛の任につく。
ぐっしょりと汗を吸った襟元を摘み上げ、主人の変化に胸を撫で下ろしながら。
籐の椅子に身体をあずけ、リュイーヌは手のひらを見つめていた。
深い翠のエメラルド。
母の形見であり、ヤムとの想い出を繋ぐ物。
線の細い横顔は、複雑な微笑みに頼りない。
「ヤムならきっと、約束をはたします。 きっと」
淋しくはあるが、かけた言葉にうなづくリュイーヌに、フリアは慰めを得た。
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