第9話
*☆*☆*
オ・ロンの街を見下ろす長城街道の砦で、若い将校は街へ放っていた密偵から報告を受けていた。
この砦は、アルラントの王国軍の管轄だ。
若い将校がいる部屋は、豪華な装飾をほどこした執務室で、普段は砦の隊長が使用しているものだ。
ヴァルリオリンを陥落させた摂政カイドは、占領下にある宮廷の実権を握るなり、反乱の危険分子をすべて処刑させ公表した。そして時を置かず、宝珠と巫女姫の引き渡しを命じた。
ヴァルリオリンと同じく、ラグーンも一小国にすぎない。
無益に戦いを挑むより宝珠を差し出し、巫女姫を神官としてアルラントへ伺候させることを受け入れた。
この若い将校の名は、エルバス・シレーユ。
ラグーンの『火の宝珠』を受け取りに来た、使者のひとりだ。
明日おこなわれる授受式の立会人として、アルラントの摂政カイド・エルドゥラが派遣した、王国軍の貴族だった。
創世王デュマの時代から仕える貴族は、五家。
そのなかでもエルドゥラ家、シレーユ家、クロウ家は、創世王デュマと肩を並べて戦った、勇者の血脈と言われている。
もうひとりの使者、スティア・クロウとともに使わされたが、スティアの知らない任務も摂政カイドから命じられていた。
「ラグーンの巫女姫殿がオ・ロンまでお出ましになられる日に、亡国の姫君も到着されるとは」
つややかな黒髪で襟足を飾り、エルバスは金茶の目を細めた。
かすかな皮肉を秘めていなければ、清々しいとさえ言える微笑だ。
「エルバス様」
満たした果実酒を捧げ、新しく召し抱えた小姓が歩み寄った。
決して主人に不快感を感じさせない距離をおいて、少年は繊細な酒杯を差し出す。
「ごくろうだった、クリティカ。先に休んで良いぞ」
「はい、エルバス様」
席を外す少年を見送り、エルバスは懐から取り出した銀杯へ酒を一滴したたらせた。「ごくろうな事だ」
銀杯に落ちた滴が、赤黒く変色する。
即効性の毒ではない。身体に積もり、知らぬ間に命を縮める毒だ。
エルバスの銀杯が特別の処理をしていなければ、安心して飲んでいただろう。
純粋な気性のクリティカを、エルバスは気にいっていた。もし、政敵から送り込まれた手先でなければ、もっと目をかけ腹心のひとりに育てていたはずだ。
「入って、よろしいですかな」
ノックとともに、逆なでするほど甘ったるい青年の声がした。
スティア・クロウ。小姓のクリティカを、送り込んだ張本人だ。
アルラント創世以来、シレーユ家の失脚を策謀し、凌ぎを削って来たクロウ家の嫡男、スティア。
シレーユ家の実子ではないエルバスを、異常に嫌っている男だ。
養子縁組で家名を継いだエルバスが、宮廷にいることじたい我慢できないらしい。
身分違いを、疎んじる貴族は多い。
さまざまな手段を使ってエルバスの失脚を企てるのも、仕方のない事実だ。だが、スティアほど面と向かった手段をとる者はない。
エルバスはいま、摂政カイドの懐刀と言われている。
スティア以外の貴族たちが、おおやけにエルバスの失脚を企てないのは、摂政カイドの思惑をはかってのことだろう。
入れ違いに退出するエルバスの部下を見送り、スティアは嘲るような仕草で肩をすくめた。
『わずらわしい御仁だ。何を探りに来たのやら』
表面では物柔らかな会釈をかえし、エルバスは丁重にスティアを部屋に招き入れた。「たいした事ではないのですよ、エルバス殿。ラグーンからの要請で、明日の授受式には、わたしだけが出席することとなりましたので。エルバス殿には」
「お気遣いなく、スティア殿」
言葉をさえぎられた苛立ちと、同格の敬称で呼ばれた屈辱に、スティアは声を失った。「まことに、お気遣いなく。少々わたくしにも、急用ができましたゆえ。かえって、ありがたいご配慮です」
狡猾といえる表情が、一瞬スティアの面をよぎる。
「ほぅ。こんな辺境の地で、エルバス殿に急用とは。いつもながら、ご多忙なことですな。ただシレーユ家にとって、あなたは唯一の爵位継承者だ。くれぐれも、御身お大切に」
スティアの皮肉にエルバスは持っていた酒杯をかかげた。
「ご配慮、いたみいります」
「これは、丁重な」
ひるむ様子もなく、スティアは柔らかく切り返した。
「では、失礼。明日の授受式の用意がありますので」
軽くうなずき、スティアはエルバスに背をむけた。
ドアが閉まるのを見とどけたエルバスは、疲れた面もちで暖炉に寄りそった。
薄汚い宮廷式のやりとりに、少々うんざりしたのだ。
あかるく踊る炎を愛でるうちに、やっといつものエルバスらしい表情が浮かんできた。
日光のように揺らめく不思議な目の底に、憂いとも傲慢ともとれる光がさす。
宮廷の女官たちがうっとり引き込まれてしまう、たおやかで危険な香が凝った表情だ。『亡国の姫君は、どのような手段をとられるのか。楽しみです』
すでに手筈はととのい、オ・ロンに一行が現れるのを待つのみ。
暗殺者の追跡をことごとく退け、ここまで来た姫の一途さに、エルバスは一種の感動をおぼえていた。
『放った手駒の全てを失くし、ラドゥラ殿はどう出るのか。それにしても、姫の護衛は手強い』
リュイーヌの行方を追って暗殺者を放ったラドゥラ・アインが、かならずしも摂政カイドに服従するとは思えない。そのことは、宮廷の誰もが察していた。だからこそ摂政カイドは、腹心の部下であるエルバスに、ヴァルリオリンの宝珠奪還を密かに命じた。
アラハートの長老と、近衛軍の長老を兼ねるラドゥラ・アインを頂点に、暗殺者集団を含む近衛軍。
摂政を頂点に、貴族と軍部のほとんどを占める王国軍。
このふたつは、アルラントの聖王が束ねる無双の軍隊だ。だが、十七年前の反乱で前任の摂政ヒリヤが殺害され、弟のカイドが摂政となり、近衛軍の長老にラドゥラ・アインが就任したあたりから、聖王をないがしろにした両勢力の摩擦が始まった。
七年前。エルバスの養父、シレーユ公が不可解な病死をとげた後、宮廷で腹蔵なく意見する者はない。
みな、固唾を飲んで成り行きを見守っているだけだ。どちらにつけば、栄達の道が開かれるのかと。
「難儀な事だ。創世王が、今のありさまを御覧になられたら、なんとおっしゃるか」
頬にからむ黒髪をかきあげ、エルバスはささやくほど低く笑った。
*☆*☆*
沸々と、身体のなかで熱がたぎっていた。
吐き出すひと息ひと息に、焼けこげた異臭が混じっている。
『溶ける』
意識すらもドロドロと流れ出す溶岩に似て、朦朧としていた。
永い、永い時間を、白熱にあぶられてきた。
もう、終わりたい。
『ヤム』
ふいに、涼やかな衝撃が眉間を打った。
『ヤム、帰って』
灼熱の砂漠に太陽が沈むように、急速に熱が引いてゆく。
身体が浮き上がりすべての苦痛から解き放たれて、ヤムは清々しい空気を吸い込んだ。
心地よさに、自然と目が覚める。
「ヤム」
目の前に、カリオペとレムランの顔があった。
そしてもう二人。
こざっぱりした白いドレスの少女と、生意気な目つきをした少年だ。
ホッと息を吐き、ヤムは差し出されたカリオペの手を握った。
「おふくろ?」
剛胆な戦士として知られる母親が、小刻みに震えている。
普段と、まったく変わらぬ顔をした母。だが、真一文字に結んだ唇の端を、ひとすじ涙が伝った。
「心配かけて、ごめん」
無言でヤムにうなづき、姿勢を正したカリオペは、少女に対し平伏した。
「氷竜の巫女姫様。心より感謝いたします」
巫女姫と敬われ、アミは面食らってディルの背中に隠れた。
何があっても、そこがいちばん安全なアミの居場所だったから。
そんなアミに深く一礼して、レムランは寝台のヤムを振り返った。
「よくやった、ヤム。みなが心配している。会うか?」
「うん」
寝室のドアを開け、押されるように入ってきたメティスが、ホゥッと安堵の息をつく。
軽く手を振り、ヤムはみなをそばへ呼んだ。
「よかった、ヤム。よかった」
繰り返すメティスに照れて、ヤムは小鼻をすすった。
「意識がもどって、安心しました。これで心おきなく、オ・ロンへ出発できます」
リュイーヌの微笑みに、張りつめたものがある。
後ろで控えていたカリオペは、ヤムに『わかっている』と、うなづいた。
「心配しなくても、すぐに行く。おれがいないと、フリアねぇちゃんが寂しがるからな」
赤くなった目を上げ、フリアは何か言い返そうとし、声をつまらせた。
なにかにつけて言い争ってきたが、この生意気な青年に救われていたのだと、改めて気づいた。ともすれば挫けそうになる逃避行のあいだ、他愛ない口げんかに気をとられ、どれほど心が救われていたことか。
「口の減らない小僧め。まぁ、元気になった証拠か」
ボソリと言うミランディアに、みなの心がやわらいだ。ふと、部屋の片隅にいるアミを見て、ミランディアが息を飲む。
目を合わせた途端、ふたりのあいだに霊気(オーラ)が通った。
うやうやしく一礼してアミの前に跪いたミランディアが、そっと両手をさしのべる。
アミもディルの背中から、おずおずと片手をのべた。
「氷竜の巫女様が、健やかであらせますよう」
かざし合わせた手のひらから互いの霊気(オーラ)が巡り会い、癒やし合う。
ふたりの周りを、銀白と銀青色のオーラが渦巻いた。それは、ディルをも包み込み、噴き昇る。
「アリエル! 」
煌々しくあふれかえる奔流の最中で、ディルはアリエルの笑顔を見た。
この上なく穏やかで、慈しみに満ちた顔だ。
『アリエル。これで良かったんだろう? アミは幸せになって生きられるよね』
至福の境へ押し流されたディルは、ふるえるほど暖かな想いが、そっと抱きしめて来るのを感じた。
『愛している。 あなたを、愛している』 と。
霊気(オーラ)の輝きが静まったなかで、ディルは頭を垂れていた。
心が平らかにおさまって、胸底ふかく澱をなしていた恐れと憎悪が、ぬぐいさられている。心配で見上げるアミに、ディルは心の底からの笑みを向けた。
「もう、だいじょうぶだ。 アミ」
星明かりもささない物陰から、ディルは出発するリュイーヌたち一行を見送っていた。
レムランと出会うまで、命を狙い続けた相手だ。
ヤムの怪我が自分の放った暗器と知って、複雑な思いにとらわれたディル。
アミの安全を確認した今、暗殺者として育った自分の存在がうとましくなる。
『おれは、これからどうすればいい?』
あのときイスランに殺されていれば、こうまで悩まずにすんだのだろうか。だが、人の暖かさに触れて、生きたくなった。
ただの暗殺の道具が、人としての幸せにひたりたがっている。
もう、みじめな暮らしに戻りたくない。
身のほど知らずな願いが恐ろしくて、ディルは身震いした。
暗殺者が人並みの生活を願うなど、神への冒涜だ。しかし、レムランたちと過ごした日々の、なんと甘美だったことか。
「こんなところで、見送りか?」
すぐ真後ろに、レムランが立っていた。
総毛だって、ディルは飛び退いた。身体じゅうの毛穴から、冷や汗がふきだす。
「アミが心配するぞ。そばにいてやれ」
背中を向けるレムランに、ディルはもどかしくなる。
息子のヤムを殺しかけた自分を、なぜ野放しにしておくのかと。
「いつまでも、ごちゃごちゃ考えてるんんじゃねぇ。おめぇは、精一杯生きてきた。誰でも、精一杯生きてるもんだ。終わったことを思い出すのは構わねぇ。だがよ、縛られちゃいけねぇんだ。誰もおめぇを責めないのは、哀れみじゃなく、精一杯おめぇが生きてるからよ。守ることを知ってるからよ。自分を恥じることはねぇ。おめぇはよくやった。だから、前だけを向いて行け」
殴られたように、ディルは顔をあげた。
「おまえが、氷竜の巫女姫アリエル様を、看取ってくれたから。アミ様を守ってくれたから、言うんじゃねぇ。人を守りきる。人のために命さえかける男だからこそ、誰もおまえを責めない。いや、責める資格すら持たない。おれは、おまえを男と認めた。元気だせ、小僧」
闇にまぎれて行くレムランの広い背中を、ディルは震える思いで見送っていた。
『そうか、おれは』
誰かに認められる。
おまえはそのままで良いとレムランに言ってもらえた安堵感が、ディルを癒やした。
そうありたいと望み、それで良いと認められる。
これほどの救いはない。
「この 知ったかぶりの、ばかおやじっ」
満面に笑みを浮かべてつぶやくディルに、レムランは振り向きもせず手を振った。
見上げるかなたの天上に、重いほどの星空が広がっている。
飢えて凍えていた頃に見た星は、射抜くように冷たかったが、いま頭上を彩る星の群は、ディルを祝福してやまない。
『アリエル。おれは、アミのそばにいたい。かまわないよね』
胸底からのため息を吐き出して、ディルはアミの待つ家に向かって踏み出した。
*☆*☆*
月のない草原を、リュイーヌたちは進んでいた。
護衛に牙一族の若者五名と、カリオペが従っている。
レムランはアミを護衛して、昼頃にオ・ロンへ入る予定だ。
若者たちを先頭に、フリアと相乗りしたリュイーヌ。
メティスを真ん中にして、後方をカリオペとミランディアが固めていた。
あまり言葉も交わさず、一行は馬を進めて行く。
「先ほどは、アミ様を癒やしてくだされたのですか」
風のささやきに似せて、カリオペが話しかけてきた。
霊気の交流のあと、目に見えてアミは体力を回復した。
青白い陶器のような頬に赤みがさして、桃花がいちどきに咲いたようだった。
「わたしは、竜族の者。巫女様は、聖竜の末裔であらせられます。わたしの力で巫女様を癒やし申し上げるなど、分に過ぎたことです。ただ巫女様が、わたしの力をお使いになったのです。癒やされたのは、わたしのほうです」
丁重に答えるミランディアに、カリオペは軽く頭を下げた。
竜族が、神の御使いと知っての敬意を表したのだ。
このことがアルラントに伝われば、ただではすむまい。
伝説の竜族を仕えさせたなら、千年の栄華を手にできると言われているからだ。
摂政のカイドにとって、ミランディアは垂涎の手駒だ。
街道に沿って、柔らかな下草を踏んで行くふたりは、馬の歩みをゆるめ、前との距離をあけた。
しっかりと顔をあげたカリオペに、力強い闘気がみなぎる。
「かならず、お守りいたします」
囁くカリオペをさえぎって、ミランディアはかすかに首をふった。
「万が一の時は、決して手助けくださいませぬよう、姫よりお願い申したはず。敵に捕縛された時は、われらとラグーンは無関係。われらがどうなろうと、そちらには関わりなき事。どうか姫の想い、お聞き届けください」
いちずなリュイーヌを思い、カリオペは嘆息した。
「 承知 」
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