第6話

*☆*☆*

 闇をまとい、影が疾駆する。

 あとを追ってくる執拗な殺気に、身の内すべてが恐怖していた。 

 笑亭(モモス)亭の窓から飛び降り、あらかじめ決めておいた隠れ家をめざして走るうち、誰かに追われていると気がついた。

 獣を狩る、猟師の匂いだ。

 何があっても、あきらめない。

 狙った獲物は、かならず追いつめてしとめる。

 冷静で、己の命をも賭け、追跡してくるものの気配だ。

 ラジェッタからこっち、影に在る暗殺者の自分たちより、ひときわ濃い闇から襲い来る者がいる。それが今、最後のひとりとなった自分を追っている。

 影は怯えた。

 隠れ家には、守らねばならぬ者がいる。

 このまま帰れば、その大切な者すら滅ぼしてしまう。

『逃げ切れるだろうか』

 絶望的な思いで、影は首を振った。

 ラジェッタからここまでの間に、ほとんどの手練の暗殺者が、この闇に屠られてしまった。生き残ったのは、自分だけ。

 影は襲い来る胸の痛みに、うめいた。

 自分は死ぬ。

 闇の者に、かならず殺される。

 このまま隠れ家まで走れば、大切な者すら殺されるだろう。

『だが、どうして残して逝けるだろう。あの、か弱い、ひとりで生きては行けぬ者を』

 走りながら、影は嗚咽した。

 声をかみ殺し、破裂しそうなほど苦しい息の下で。

『いま、おれが死ぬとしても、アミだけは、助けたい』

 神よ。と、影は祈った。

 全霊をこめた祈りならば、たとえ自分のような暗殺者の祈りでも、神はひとつくらい 聞き届けてくださるかもしれない。

 己の命を、投げ出しさえすれば。きっと。

 思いつめて、足が止まる。待ち構えるまもなく、追っ手は数歩うしろで立ち止まった。

 暗い木立を割って、雲間から月明かりが落ちてくる。

「こども?」

 あきらかに驚いたようすで、追っ手は声を上げた。それでも、殺気はおさまらない。

『アミ、ごめんよ。もう、守ってやれない』

 歯をくいしばり、影は飛んだ。

 下からなぎ払う剣が、影の身体にとどく寸前、割り込んだ男の短剣に阻まれ、両者の動きが止まる。

「仲間かっ」

 追っ手がひるんだ一瞬をつき、繰り出した影の手首を、割り込んだ男は無造作にひねり上げた。

「ちかごろの若けぇもんは、血の気が多くていけねぇな。どっちも得物を引きな。でねぇと、おれの依頼人に顔が立たねぇ」

 低いが、よく通る声で男は言った。

 人を惹きつけ、従わせる響きの声だ。

「剣を引いてくれねぇか。イスラン」

 追っ手の顔色が変わった。

 ゆっくりと間合いをあけ、イスランと呼ばれた追っ手は、剣を収める。が、いつでも抜き放てるよう、身構えたままだ。

 苦笑し、男はひねり上げている影の手から、暗器を取り上げた。

「もう、出て来てもいいぞ。にいちゃんは、無事だ」

 茂みをかき分け、みすぼらしい身なりの子供が走ってくる。

「アミ! どうしてっ」

 しがみつく子供を抱きしめ、影は首をふった。

 わけがわからず、男とアミを見比べる。

「このふたり、おれに預けてくれ。頼むからよ、イスラン」

 向き直った男に何度も名前を呼ばれ、イスランは迷った。

 簡単に信じるのは危険だと思いながら、どうしてもこの男を敵として見られない。

「おれが信じられないなら、カリオペに免じて助けてやってくれ」

 息をのんで、イスランは柄から手を離した。

「おふくろ様に? あなたは、何者です。 まさか、ラグーンの」

「おまえの事は、よく知っている。おれは牙一族のレムランだ。ラグーンの草原の民。牙一族の長老だ」

 いかついレムランの手が、アミの頭を愛しそうになぜた。

 薄暗い森の中でさえ、穏やかな笑みが見えるような仕草だ。

「ひとまず小屋に帰るぜ。アミの身体が心配だ。それに、一度ゆっくり、カリオペの倅と話したかったしな。いい機会だ」

 おいで、と長老レムランはアミを背負った。広い背中へ恐れ気もなく抱きつく子に、イスランの警戒心は薄れた。では、この子が長老レムランの依頼人なのか。

「ディル。早く来い」

 殺意をむき出しにする暗殺者の少年に、長老レムランはきつい調子で言いつけた。背中のアミが身を縮めるのへ、うって変わった柔らかな声をかける。

「心配するな、アミ。にいちゃんは、おれが守ってやる」

 さっさと歩き出すレムランを追って、ディルと呼ばれた暗殺者の少年も歩き出す。

 さすがに当惑しているのだろう。きつく結んだくちびると上目遣いに、やり場のない奇妙な怒りが現れていた。

 小一時間も歩いたころ、崩れかけた丸木小屋が見えてきた。

 人が住まなくなって、かなりの年月を経た山小屋らしい。朽ちた柵をぬけ、まだ頑丈な扉を押して入った部屋は、急ごしらえに片づけたあとがみえる。

 レムランはアミを下ろし、片隅に積み上げてあった家具の残骸を、暖炉にくべて火をつけた。無造作に投げ入れたようだが、ずいぶんと手馴れているのだろう。

 待つほどもなく、炎は大きくなった。

「今夜は冷え込むな。まぁ座って、腹ごしらえでもするか」

 炉辺に吊った大鍋を移動させて火にかけたあと、レムランは自分のものらしい背負い袋から、酒袋と銀杯を引っ張り出した。

 銀は毒に反応し、変色する。下心はないと言いたいのだろう。

「どうだ、一杯」

 邪気のない言いぐさに呆れ、イスランも座り込んだ。なにかしら胡散臭いが、警戒心はわいてこない。

 満たした杯を断って、イスランは自分の酒袋を出した。

 斬り合う寸前に分け入って、こうも気安くふところを開けるなど、自分にはできない芸当だとイスランは思う。

 鍋をかきまわしていたアミが、扉の前に立ちつくしているディルを見て、消え入りそうな様子になる。暗殺者(アサッシン)の少年は、凄まじい形相で長老レムランとイスランを睨みつけていた。

「しょうがねぇ小僧だな。言いたいことは、山ほどあるだろうよ。だが、ここへ来て座んな。おまえにも、仕方のねぇわけはあるさ。けどよ、このイスランにも、仕方のねぇわけってもんがあるのさ」

 ディルは動かなかった。いや、動けなかった。

 自分以外は、信じられない。

 アラハートの、長老の命令に背いたら、仲間の暗殺者すべてが敵にまわる。

 長老の命令。【何人殺しても、大地の珠を手に入れよ。妨害するものは、すべて殺せ】と。

『だめだ。逆らえないっ!』

 つま先が、凍りついている。息すら思うようにならなかった。

「まぁいい。だが、おれがアミを守ると誓ったのは、ただの酔狂じゃねぇ。アミは、おれたちラグーンの守護部族が、長年捜し求めていた姫巫女の御子に違いない。だとすれば、ラグーンは、部族の者すべての命を賭けて、アミ様を守りぬく。これだけは、よっく覚えておけ」

 長老レムランの発する言葉には、本気だと説得する気迫がこもっている。

 おもわず息をひいたディルの顔から、殺気が削がれていった。

 様子をうかがっていたアミが、ほっとして肩の力をぬく。

 ずっと顔を伏せているので、どんな表情をしているのか判らない。

 とうもろこしの房を束ねたような黒髪に、垢じみたリボンを結んでいなければ、とうてい少女に見えない子供だ。

 華奢というには細すぎるアミの姿が哀れだと、イスランは思った。

「あらためて頼む。このふたり、おれに預けてくれ」

 レムランが頭をさげる以前に、イスランの殺意は消えていた。あの一瞬にディルを斬れなかった以上、二度と殺せはしない。それに、アミだ。か弱く、ただひたすらにすがりつく姿を見れば、おのずと剣先は鈍る。

 振るう剣を持たねば、引くしかない。

「二度と、彼らに手出しをしないと、誓うなら」

 眼の端でディルを捕らえ、イスランは答えた。

 暗殺者として生きて来た者が、簡単に約束できるとは思えない。だが、幼い命を無下に葬る冷酷さを、イスランは持たなかった。

「おれが引かせる。ラグーンの名にかけて、かならず」

「勝手に決めるなっ」

 ふたりの会話をさえぎって、ディルは悲鳴をあげた。

 暗殺者が任務に失敗すれば、その場で敵に殺される。だが逃げ出せば、裏切り者として 死ぬまで他の暗殺者に狙われ続ける。

 生きている限り、アラハートの長老が下した命令に従うしかない。たとえこのふたりにかなわないと判っていても、長老の命令は絶対だった。

 ディルが動いた瞬間、流れる一挙動で、長老レムランは体をかわし、床にディルを組み敷いた。

「頭の堅てぇ小僧だ。アミに心配ばかりかけやがって」

 立ちすくむアミにウィンクし、長老レムランは無造作にディルの腰を叩く。

 骨のきしむ音がして、手を離されてもディルは起きあがれなかった。

 元の場所にあぐらを組んだ長老レムランが、満たした杯を干す。

「よく聞け、ディル。おれはアミを守りたいと、言わなかったか。おまえが暗殺者でいる限り、アミは決して長生きできねぇ。もし、おまえが誰かに殺されたら、アミはどうやってひとりで生きて行くんだ。そんなことも、わからねぇのか!」

 レムランに言われるまでもなく、このままアミを連れ歩けば、長く生きられないのはわかっている。だが、ひとりアラハートの村に残せば、魔獣の子として、アミは村人に殺されていただろう。

 異常なほど、暑さに弱いアミ。砂漠の追跡で、どれほど消耗したことか。

 アミの苦しみが、どれほどディルをも苦しめたことか。

 起きあがろうともがくのを止め、ディルは床に額をつけた。

 辛かった。

 レムランの言葉が、身をもみ絞るほど暖かい。そして、暖かいからこそ、つかみ取るには躊躇われるのだ。

「なぜ、おれにおまえが信じられる?」

 どうあがいてもぬけ出せない常闇の中で、ディルは這いずり廻っている気がした。

 いままで信じたことのない他人の言葉に、心底すがりたかった。

 アミを守りたいと言うレムランの言葉を、素直に信じられたら!

「ディル」

 小さな手が、肩をゆする。

 あげた目に、心配そうなアミが映った。

「アミは、いいのか。あの男を、信じるのか?」

 うなづいて微笑むアミのくちびるが、ひび割れていた。

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