第13話 レコードが奏でるメロディ

 次に意識が浮上したのは窓から夕陽が差し込むような時間帯で。部屋に入った時に閉めそびれたらしく、少し開いていたドアの向こうからは聴き憶えのあるメロディーが聴こえてくる。その音の元を確かめるためにやっとしゃんと歩けるようになった足を動かせば、リビングに辿り着く。そこには母親一人だけがソファに座っていて。その視線の先にはレコードプレイヤーが静かに動いていた。

「あら、起きたのね」

 リビングに顔を出した俺へ視線を移しながら母は笑う。「鷹羽さんは?」と尋ねれば、「今日は圭佑くんの家に行くって。折角だから二人で過ごすといいよって言ってくれて」と返される。「……そっか」それだけを返せば、「あのひとの事だから、圭佑くんの家にも行かずにビジネスホテルよ。きっと」と彼女は笑みを崩さず静かに告げる。

「ねぇ、久しぶりに歌ってよ」

 気を取り直すように明るい声を出す彼女に「何でまた行き成り」と返せば「だってサックス持ってきてないでしょう。歌ってよ」と重ねられる。そうして俺の答えすら聞かずにリビングの端に置かれたアップライトピアノへ向かい、鍵盤の蓋を上げる。

「ね、良いでしょう? 折角帰って来たんだし」

 そう言って彼女が鍵盤に指を走らせる。最初は指慣らしのつもりなのか音階を。そして、聴きなれたメロディラインをなぞるように。レコードは最後の曲を鳴らしきったのか、いつの間にか聞こえる音は彼女のピアノの音だけになっていた。「しかたないなぁ」と俺は笑ってそのメロディラインに途中から声を乗せていく。それは、さっきまで流れていたレコードの最後の曲。つい先日もバードランドの仲間達とセッションした愛を語らう曲だった。


「ホント、レオに似てきたわね」

 歌い終わった後に、母親はそう言って静かに笑みを零す。そうしてすぐに、「ま、渋みは足りないけど」とおちゃらけて見せたけれど。そんな彼女の言葉に脳裏をよぎるのは、あの夜に南海さんが浮かべた、きれいな笑顔だ。

「この間、レオを目指してるんだねって言われたよ」

 ポツリと零したその言葉に、彼女は少し驚いたように「日本人?」と尋ねる。その問いには首を縦に振る動作でだけ答える。

「レオを知っている人が、この国に、少しでもいてくれるのね」

 少し寂しげに、そしてそれを上回る嬉しさが混じり合う母親の笑みに「そうなんだよ」とだけ返す。「今度、連れてきてよ」重ねられた言葉には「どうだろう」としか返せない。

「まぁ良いわ。でもうれしい。まだ、レオの音は誰かに聴かれてる。生きているのね」

 笑みを崩さずそう言った母親の瞳は、涙の膜で揺れていて。彼女は更に言葉を続ける「レオはね、生き続けているのよ。彼の残した音楽の中に」そう言って静かに鍵盤の蓋を閉じた彼女は、キッチンへと向かう。カウンターキッチンから飛んでくるのは「アンタは何飲む? ウイスキー?」という質問。「勘弁してよ、昨日も潰されたばっかりなんだから……お茶か水で」と答えれば、「ヤワねぇ、迎え酒位しときなさいよ」と片手にウイスキーのロック、もう片手には透明な液体を入れたコップを持ち母親は戻ってくる。昼間には鷹羽さんと母親が掛けていたソファに、今度は俺と母親が隣同士で座る。渡された透明な液体の入るコップの匂いを嗅いで、少しだけ口を付ければそれは正真正銘の水で。「警戒しすぎでしょう」と隣に座る彼女は呆れたように呟く。

「しょうがないだろ、昨日まさに同じような感じで雪子さんにコップ渡されて潰されたんだから」

 俺のその弁明に、母親は「あら、雪子ちゃんやるわね」なんてケラケラとう。そして、彼女は彼女で手に持つウイスキーグラスを傾けちびりちびりと舐めるように飲みながら、「それで、どうするのアンタは」と行き成り訊ねてくる。「どうするの」の主語が、昼間の話であろうことはわかる。それに対する俺の言葉も決まっている。だけれど、それを素直に口に出すのは何だか癪だった。だから俺は、その問いを別の問いで返す。

「前から訊きたかったんだけど」

「何?」

「どうして鷹羽さんだったの?」

 父さんが、レオが亡くなってすぐ、俺と母親はニューヨークを出てこの地に住み始めた。ここには母親の実家があったし、最初の一年はその実家近くのアパートで、二人で暮らしてた。そして、次の年の春にいきなり鷹羽さんが俺の前に現れたのだ。いや、母親と鷹羽さんが出会ったのはもう少し早い時期だっただろう。春だったのも、今思えば学年が変わるタイミングで丁度良いとでも思ったんだろう。そうやって目まぐるしく変わる環境に流されるままこの家に住む事になった俺は、彼女と彼の馴れ初めを全く知らないのだ。

「彼が亡くなった奥方を大事にしていたから。私が、レオを忘れられないことをわかってくれたから、ね」

 彼女はウイスキーを舐めながら、そう答え、言葉を続ける。

「私と令佑さんは、お互い二番目同士なのよ。私は令佑さんの奥さんに勝てないし、令佑さんはレオに勝つことは出来ないわ。だけど、生きている限り前に進まなきゃいけない。だから、一緒に彼らを大切にしようって約束したの」

 そう言った母親はぐい、とグラスを傾けグラスの中のアルコールを喉に流し込む。

「だから、結婚するの?」

「それは書類の上でわかりやすくするだけの処理。結婚式とかするつもりすら無いしね」

 それだけ言って、彼女はへらりと笑う。「で、アンタはどうするの」と再度、最初に投げられた問いを重ねる。

「あぁもう、わかった。わからないけど、わかったよ。素直におめでとうとは言えないけど、俺はその書類上の処理に何も言わない。だけど、俺は結城駿介だし、ルイ・S・イースデイルって名前も変えたくはない」

 それだけを答えとして提示すれば、彼女も「わかった」とだけ答え、残り少ないウイスキーを喉に流し込む。「やっぱり、気まずいわね。こういうのって」と苦笑する彼女に「本当だよ」と俺も水を飲みながら答える。

「何となく話すことも無いし」

「それな」

「最近どうなの」

「ぼちぼち」

 お互いに言葉に詰まり、辺りを沈黙が支配する。先に沈黙に耐えかねたのは隣に座る母親で。おもむろに立ち上がれば、レコードをもう一度はじめから再生させて、キッチンへとウイスキーを取りに行った。

「レオはわかってくれるわよ。最期に、早く再婚しろよって言ったのはあの人なんだから」

 俺に対して言ったのか、それとも彼女自身に言い聞かせるように呟いたのか、どちらなのかが分からない微妙な音量で呟かれたその言葉は、静かにリビングへ響いて消える。その代わりとでも言うように、リビングにはレオと母親その人自身が奏でるメロディーが美しく、明るく、それでいて寂し気に響いていた。〝あなたなしで、どうやって生きていけば良いというの?〟と。その曲を、いとおしそうに、だけれども寂しそうに聞いている彼女に、これ以上かける言葉を見つけることは出来なくて、俺はそっと部屋へと戻った。

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