第8話 かつて聴いた音
色で例えるなら、金色。少し、赤味の入った、血の通っている金色。彼の奏でていた音はそんなキラキラした音だった。笑みを浮かべて音を操る彼を観たのは、もう十年以上も前の話だ。普段であれば会うこともなかったであろう青年と酒を飲み交わし帰れば、いそいそとレコードとプレイヤーを引っ張り出してそっと針を円盤へと添わせる。聴き込みすぎた所為で少し褪せた、それでもその金色の音は輝いたまま消えてはいない。〝彼〟の音も同じように輝いていたな、なんて、アルコールでふわついた頭が今夜聴いたテナーの音を再現する。そのきんいろと、レコードが奏でるきんいろが、ふわふわと混ざり合って、意識は十数年前の思い出の中へと入っていった。
あの日、俺は道に迷っていた。翌春に卒業を控えた年のクリスマス。一念発起して一人での海外旅行にニューヨークに行ったはいいけれど、目指す場所に辿り着けない堂々巡りで。曖昧な記憶によれば、元々の目的地を結局諦め、誰かに連れられてその場所へと足を踏み入れた。視界の横で動くふわふわした金髪をおぼろげながら覚えているから、地元の人間だったのだろうか。その旅で記憶に残っているものが、ニューヨークの景色や出会った人たち以上に、彼の音だったのだから仕方がないと今でも思っている。その場所は、地元では有名らしいジャズバーで。扉を開けた瞬間、ダイレクトに届いたその音が、耳から足まで伝わって、気づけば俺は震えていたのだ。
詳細は覚えていなくても、持たされた名刺に書かれたその店の場所と、彼の名前を知れたのは僥倖だった。気づけばキャブに突っ込まれホテルに着いた俺は、その渡された名刺を握りしめてCDショップに走ったのだから。そうして十数年経った今でも、俺は彼の音を一人部屋で聴くことが出来ている。
CD二枚と、レコード一枚。それが俺の持つ彼の音のすべてだ。更に行ってしまえばCDの片方はレコードと同じ曲目で、日本では流通すらしていないそのCDは、彼と出会った日に一枚。その後もう一度彼の地に遊びに行ったときに残る二枚。それだけだった。他にもあるCDの中から選んで買ったのではなく、それが彼のすべてだった。自身のジャズバーでの生演奏、そしてスタジオミュージシャンとしての仕事に情熱を傾けていたと言う彼が、彼自身の名義で世に送り出したCDはその二枚だけだった。――何故なら彼は、俺がその音に出会った数年後に亡くなってしまったからだ。病気だったそうだ。残りの命を燃やすように作ったという、彼の遺作を、彼の死を知ったその日に手に入れた。一枚目のアルバムと違い、恋の歌が多いそのアルバムは彼と彼の妻だったピアニストによるデュオ形式の曲もあり、そこではサックスとピアノが甘く愛を語り合っていた。
「一人の夜を過ごしていると、耳をよぎるそのメロディー、か」
久々に動かしたレコードプレイヤーはCDとはまた違う、聴き込み過ぎた所為で少し褪せた、けれども温かい音で彼らの愛の囁きをリビングに満たしていた。
――それにしても、と俺は心の中で呟く。それにしても、彼は何だか泣きそうな顔をしていたな。なんて。十数年前のニューヨークから現実に戻ってきた俺の脳は今日会っていた青年の事を思う。素直に彼の音がレオの音に似ていたから、そう言った感想に嘘はない。青年がレオの持っていた雰囲気――俺の持つイメージでしかないけれども、それを目指しているのかな、と思って口に出した言葉に、結城クンはうれしそうな、困ったような、はにかんだ笑みを見せていたけれど、それは泣くのを我慢して笑っているようにも見えたのだ。なんとなく、不思議な子なんだよなぁ。ととりとめもない感想を抱く。最近の若い子ってみんなそうなのだろうか。なんて思えば自分がいい年になってしまったのだろうか、と少しだけ項垂れる。こんな日は静かに音楽を聴いて酒を飲んで、寝てしまうに限る。去年漬けてそろそろ飲み頃に差し掛かった梅酒があったな。とキッチンへと向かい、氷を入れたロックグラスにその琥珀色の液体を注ぐ。これがウイスキーなら格好もつくのだけど。なんて一人笑っても賛同してくれる人も此処には居ない。友達の少ない三十路越え独身男の生活なんてこんなもんか、と小さくため息一つ。ソファに三角座りをし、ちびちびと、舐めるように甘味を抑えた自家製梅酒を飲みながら、このグラスが空になるまでレコードを流し続けた。
〝彼〟の音をもっと聴きたいな、なんて思いながら。
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