第7話 太陽のような、
「いやぁ、ビックリしたよ」
そう言って彼はアルコールで軽く赤くなりながら笑う。演奏を終え、その後互いに一杯づつグラスを空にすれば、いい時間になり、店を出たのだ。俺はテナーが収まっているハードケースを肩にかけながら、陽気に笑っている彼の隣を歩いていて。「ホントにビックリしたんだって」と彼は同じ感想を返事も訊かずに重ねてくるので、俺はそれに相槌を打つ。
「ユウキくんはレオを目標にしてるんだね」ポツリと呟かれた声に、驚き立ち止まってしまった俺は彼を見る。彼はと言えば俺の事は見ずに、斜め上を見ながら少し不安になる足取りで歩いていた。「え、何で」と思わず出てしまった言葉は彼に届いたらしく、横を見ても俺の姿を発見できなかった彼は、振り向いて俺を見つめて笑う。
「音が似てる。聴いてれば解るよ」と。
暗がりの中、街灯がスポットライトのように南海さんを照らして、少しだけ酔ってへにゃりとした、それでも綺麗な笑みで俺を優しく見つめる彼は、映画のワンシーンのようだった。
大丈夫だと言い張る彼を家まで送ってから、自分のアパートの部屋へと戻る。楽器を安全な所に置いてベッドに倒れ込めば、尻ポケットに安置されていた携帯がブルブルと着信を主張する。帰ってきた音に気付いたのか、電話の相手は片桐だった。
「どうだった?」
電話越しでも想像できるにやけ顔を滲ませた声色を発する携帯へ、「……びっくりした、ホント、びっくりしたよ」とさっき南海さんが言ったような言葉と同じ言葉を投げる。電話はそんな俺に「何があったのさ」と怪訝な声を投げかける。「良くわかんないけどさ、すごくうれしくて、ビックリして、如何すればいいのかちょっとわからない」自分でもわからないことは、説明することができないと、そう答えれば「は?」という一音が受話部分から発声される。「何それ」と続けられた片桐の声をスルーして、俺は電話を勝手に切る。言葉にして説明できない感情が、身体を、心を、駆け巡っていた。
「ダーッドー、今日はすごくビックリした、ホント、びっくりしたんだ」
誰に言うでもなく、布団に顔を埋めたまま、ポツリポツリと、言葉を音にする。
「ビックリしたのと同時に、凄く嬉しかったんだ。レオが、生きてた事を知ってる人に、会えた事が」今まで出逢った事も無かった、ただあの一音が切っ掛けで言葉を交わし始めた彼が、貴方が生きていた事を知ってる事が、凄く嬉しかったんだ。と。俺以外の誰もいない部屋でそう呟きながら、俺はゆっくり眠りに落ちた。
「あなたは太陽のような人だった、かぁ」
翌朝起き出して、まず部屋に流した曲は、サニー。それは〝彼〟が最初に出したアルバムのラストナンバーで。彼のアルバムが店頭に並んだ日の事は、そこだけ色褪せずに覚えている。「俺の夢だったんだよー」なんて言いながらわざわざCDショップまで行ってソレを買った時の彼の笑顔は忘れない。「サニーってさ、おまえの為にあるような言葉だよなぁ」なんて、まだ小さかった俺を膝に乗せて彼はそう言っていた。「おひさまのような、あかるい、げんきな、きんぴかないろ」彼とは違う、だけれども同じ癖のついた俺の頭をわしゃわしゃと撫でながら、簡単な言葉で俺に日本語を教え、再びシュンみたいだなぁ、と笑う。彼の操る音が好きで、いつも何処かで音が鳴っている家が好きで、笑い声が絶えない彼らが大好きだった。彼が世に出した二枚のアルバムは今でもデータだけではなく、彼の生きた証の一つとしてカタチとして俺の手元に置いてある。母の方にもCD、そしてレコードが有るにはある。だけど頼み込んで貰い受けた彼のファーストアルバムは、あの日彼が買ったもので。戯れに彼のサインが入ったそれを、俺は今でも大事に保管している。
彼の音に憧れて、彼の音が好きで、そして彼の背中を追って進んできたこの道に後悔はない。そしてこの道は予想以上に彼の遺伝子を受け継いでいたらしい俺にピッタリだったと今でも思っている。彼が死んで十年程の年月が流れて尚、俺は彼の音を愛してやまないし、もう居ない彼の影を追っている。
「会いたい、会いたいよ――父さん」
滅多に出さないとうさん、なんて呼称を口に出すと、寂しさの波が押し寄せてきた。父さんと言うとレオと呼べって言ってるだろーと笑う彼はもう居ない。
クローゼットの奥から取り出したのは、いつも使っているテナーではなく彼の遺品でもある、セルマーのマークⅥ。一九五四年から七四年にかけて製造されたそれらは当時のプロ奏者がこぞって使用したという。現在では名器と呼ばれるヴィンテージサックスだ。レオもマークⅥの愛用者の一人で、アメリカ製ではなく、フランス製を愛用し、やっと抜けが良くなってきた、と笑っていたのを覚えている。俺の記憶の中のレオはいつも明るく笑っていて、自然と彼の周りに人が集まるような魅力を持っていたのだ。部屋に掛けられた時計を確認すれば、時間はまだ昼にも満たない時間。部屋は防音、隣人である片桐は恐らく起きているだろう。普段使っている方のテナーが入ったハードケースからマウスピースを取り出す。ゆっくりと息を馴染ませながら楽器を組み立て軽く音出しをする。譜面を見なくても覚えている曲を吹こうと一音目の音の形に指を押さえ、息を入れて――
一息目で、裏がえった。
彼の使っていたものを、彼の癖の付いたそれを、自分の音に塗り替えるという行為が、何となく嫌で使えなかった。それがこのザマなのか。苦笑交じりでマークⅥを撫でて、彼の癖を掴むようにもう一度流して行く。部屋を満たす音は、彼の音とは違うけれど、普段使っているサックスよりも格段に深い音だった。その音が紡ぐメロディーは、彼が出したアルバムの中でも、最期の曲だった。
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