習作2 思い出の味の謎【問題編】
賑やかな店内の喧噪は、襖を隔ててもまだ微かなBGMになっていた。宴も夜の九時を回ればたけなわで、それも居酒屋ならば当たり前といったところだ。二階座敷でもメンバーにはそろそろ酔い潰れようかという者がチラホラと出始めている。
「妻もね、ようやく楽になれたんだとね、そう思うことにしたんだよ……。ようやくね、うん、安らかな、顔だった。」
じんわりと潤んだ目尻は酔いのせいばかりとは言えないようで、教授は何度も頷いて、お猪口を空けた。
もうグデングデンと呼ぶに相応しい状態で、酔い潰れるのは時間の問題だ。そこで近木は本日何度目になるだろうかの同じ質問を繰り返した。
「教授、教授にとっての思い出の味ってどんなですかね? 昔、学舎で売ってたとかの、えも言われぬクソまずい揚げパンとかじゃなくって、」
すかさず逆隣りに陣取る高田がフォローに加わった。
「出来れば、美味しかった系の思い出を! ぜひ!」
教授はうろんとした目をそちらへ向けて、眠そうに瞬きをした。
「おいしかった……? おいしかったかどうかはねぇ、あんまり思い出せんがね、妻がね、信州なんだよね……。もう、何年も行ってないね、そう言えば。」
酔っ払いに論理的会話を望む方が間違いで、教授は懐かしそうに目を細め、教え子の質問を無視して、過去の日々へと飛び立ってしまったようだった。遙かな尾根に思いを馳せ、瞼を閉じた老教授はそのまま、ゴトリとテーブルにつっぷした。
「教授、教授、」
揺さぶっても、もう夢の中でムニャムニャと言葉らしきを呟くばかりだ。
「……とり、……すっ、ぽんっ、……だね、シャキシャキ、ふふふ。」
幸せそうに笑って、そのまま眠りに落ちた。
ちょうどそこへ、襖を開いて女将が顔を出した。追加注文のビールを畳に置いた。
「あらあら、潰れてしまはりました? ここじゃお風邪をひかはるよって、ちょっと毛布でも取ってきますわな、待っといてください。」
「すいません、」
行きがかりで近木が頭を下げた。
「ええのんよ、ちょっと酔いを冷まさはってからお家に帰らはったらよろしおす。」
おばんざいの美味しい隠れ家的なこの店は、小料理屋の風情が色濃く、夜には居酒屋を名乗り昼は観光客向けになる小洒落た和食の店だった。舞子さんは付いていない。一階はテーブル席、二階は小座敷だ。
女将のご厚意でタオルケットを掛けさせてもらい、座敷の隅へと教授の体を安置してから、改めて一同は顔を突き合わせた。
「さて。どうする?」
「どうするって言っても、結局聞きそびれたんじゃないか、」
「いや、最後にちょこっとキーワードだけは回収したぞ。トリと、スッポンだ。」
「鶏とすっぽん?」
復唱しながら各自がスマフォをポチポチしだす。
「鶏鍋、すっぽん鍋、各種承ります。って、鍋料理の店しか出てこないけど。」
バラバラの料理として検索したわけではないが、検索結果のページに並ぶのはバラバラの扱いばかりのようで、皆、顔を渋くしていた。
「なぁ、縣。どう思う?」
近木は身体ごとぐるりと腰をひねって、後部テーブルに陣取るメンバーの一人に顔を向けた。ちびちびと日本酒を舐めていた一人の青年が応えた。
「本人が起きてから、改めて聞けばいいと思う。」
「だからぁ、」
使えねぇな、と舌打ちの後で近木は説明した。もうじき退職される恩師に、皆で最後の忘年会を盛り立てようと企画されたのが、このサプライズ一品料理の計画だ。教授にとって思い出深い料理の品を、宴会の席に用意して驚かせようという話し合いがもたれていた。
「そんな計画、初耳なんだから仕方ないだろ、」
「お前が付き合い悪すぎるから伝達が行かないんだよ、」
神社の手伝いだの何だのでほとんど捕まらない学生が縣恭介だった。
「ねぇ、ねぇ、これは? すっぽん煮だって。鶏のすっぽん煮っての、どう?」
別の女学生から嬉々とした声がかかり、同時にまた各自がシャカシャカとスマフォをいじくりだす。検索結果の一部には確かにすっぽん煮なる料理名が混ざっていた。
「すっぽん料理に似せた味付けの煮物全般をすっぽん煮と呼ぶ、か。これっぽいけどな。けど、たっぷりの酒で煮込む料理全般ってことだし、ほんとにこれ、正解か?」
「亡くなられた奥様の得意料理だとかは?」
「けど、シャキシャキってキーワードは? 無視か?」
「つ、付け合わせの白ネギとかがシャキシャキ、じゃないかしらっ?」
「そんなこじつけあるか、」
外したらサプライズにならないこともあって、ついに近木は頭を抱えた。
「鶏にすっぽん、シャキシャキ、かぁ。」
腕組みで深刻そうな近木の後ろで、縣は素知らぬ顔をして今はビールをぐびぐび空けている。お銚子は空なのか、彼の横に転がっていた。もしかしたら酔っ払いかも知れなかった。
「なぁ、縣。なんか解んないか?」
すると、彼は他の連中と同じように自身のスマフォを引っ張り出して、シャカシャカと軽く操作してから近木の前へと差し出した。
「ほら、これのことだろ、」
受け取ったスマフォの画面を見て、近木は目を見張った。説明を聞きたそうな彼に、縣はビールのグラスをテーブルに置いて話し出した。
「教授の奥さんは信州の出身で、若い頃には二人で登山を楽しんだ、とかの話はよく聞いたろ?」
「ああ、うん。さっきも、だから最近じゃ寄る年波には勝てずの例のヤツかなと思ってたよ。」
なるほどね、こっちね。近木は納得の顔で頷いた。三つのキーワードを入れ替える。彼のスマフォにも、すぐに同じ回答が並んだ。
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