第6話 メアリー記:映画『LA BEELLE VERTE』鑑賞

   メアリー記:

   「映画『LA BEELLE VERTE』鑑賞」   乙音メイ


 映画『LA BEELLE VERTE』(1996年COLINE SERREAU監督作品)を、インターネットで観たことがある。

 招待客を一同に集めて試写会を開いた後、世界配信、放映禁止となった作品だ。健康をじわじわと蝕む不要な物を添加した、ほとんどの食品をはじめ、家庭で普通に使用されてきた歯磨きや洗剤などの製品、調理にマイクロウェイブを食べ物にわざわざ当てて栄養価を取り除き、そのうえ人体にも「放射能」を浴びせる電子レンジやIH調理器、「遊離ホルムアルデヒド」を、開ける度に浴びさせる冷凍庫、纏うたびにそれを浴びせる繊維製品、住むだけでそれを浴びせる新建材などの非購入運動が世界中で起こった話。加えて、それらの製造企業や政治団体などが軒並み訴えられた話を、超高度文明惑星人の若者が「古代史」を振り返って現代のテラ人に語るシーンがあり、圧力が加えられたのは、その辺りが原因ではないかと思った。きっと、明日の我が身、と考えた者たちの仕業だろう。

 アップされては、当局によって消され、また別の誰かによってアップされる。それが今以て繰り返されているフランス映画だ。

 すぐに消去されてしまうので、見つけたらすぐに見ましょう的な暗黙の了解が流布していて、当局の思惑に反し有名になっていた。それで私も興味をそそられて、観ることとなった次第である。


 その映画には、超高度文明惑星から光の奉仕で来た主人公ミラが、パリの精肉店のウインドウを覗いて仰天するシーンがある。


ミラ 「あら? 何かしら? ハッ! 死体の展示場! 切り刻んで、人に渡した!」

ミラ 「すみません、それは何ですか?」

客  「それって?」

ミラ 「その中の…」

客  「肉よ」

ミラ 「肉?」

客  「食用の」

ミラ 「肉を食べる!」

客  「何よいったい」

ミラ 「あ、すみません」

 主人公と会話した客はその後、道端にしゃがみ、買った肉を人差し指と親指でつまんで匂いを嗅ぎ、驚いた顔で、スライスされた牛の肉をしげしげと眺めだした。ミラと会話をした人は、その人特有の本質に目覚めるのだ。 

 この映画の中では、その「カッティング」という特殊能力が特に印象的だった。

 「カッティング」とは、多分、大衆意識と自分の顕在意識のつながりが切断されることを表しているのだと思われる。

 カッティングによって、高次自分である本質に目覚め、これまでの常識が、如何に非常識であったかと、分かってしまうのだ。正気に返ってしまうのだ。


 我が子の一言が私にとって、そのカッティングの働きをしてくれた。これまでのことは正に、驚くべき非人道的なことだった。目覚めた私は、どうしてもそう思わざるを得ない。

 その後、食事がどんどん変化していった。


 動物+植物=食事。

 これは2万年も連綿と続いてきた、人類の食事。

 感情豊かな生き物が、牧場から殺傷されるためにトラックの荷台に乗り込むときには時、どんな気持ちがするだろう。もしそれが、家族や自分だったらと思うことなく、漫然と生きてきた。本気でイメージすれば、分かることだったのに。

 強制的に恐怖を味わわせて、重い波動に満ちた肉、これが人間の「食物」として与えられてきたのだ。

 

 いつであったか、どこかの国で撮られたYou Tubeの映像を、これもインターネットで観た。

 食肉加工工場へ輸送するためにトラックに乗せられていた、十何頭もの牛たちが解放された時のものだ。牛を助けるために、すんでのところで買い取った団体があり、その時の牛たちの様子を写したものだった。


 牛たちは、喜び勇んでトラックから草原へと移動している。並んで走っている牛同志、何かを語り合っている。「モーモー」と、嬉しい声が其処ここで上がっていた。中にはピョンピョン飛び跳ねる牛もいる。

 私はこんな牛は初めて見た。


 ポリエチレンのトレーに乗っているのではなく、生きている時の牛さえも、見ることは限られているのだが。自分たちが地獄から天国へ移ったこと、そのすべてが判っている様子だった。

 嬉しそうに草原へ駆けていく牛たちの後ろ姿を見て、涙が出た。

 愛する動物にお詫びと感謝の意を込め、我が家では、これまでの強いられた、大衆意識からの脱却を図ることにした。


 野菜+野菜=ヒト用食事。

 まず、ヒトと同じ哺乳類でもある豚、牛の肉を買わなくなった。次に鳥、魚、貝を買うことを止めた。

 命を奪わないならば卵、乳製品はいいだろうと、甘く考えていた期間もあったが、調べてみたらそれもできなくなった。 

 農家が、のんびりと家族に対するように大切に世話して飼うならまだしも。卵に関しては、「少しだけください」と、鶏と折り合いをつけながら共生していくことも出来るが、製造ラインへ送り込む業者となると、話は別だ。これは、生き物をロボットか何かの機械とでも思っているのだろうか、飼育環境のひどさが浮上してきた。

 卵を産ませるために、餌を食べることだけが人生だ、とでもいうかのように靴箱サイズ程の狭いケージに入れられた数えきれないほどの鶏たちの存在がある。

 牛たちはと言えば、人間に母乳を奪われ、小麦粉を混ぜた白っぽい液体を飲ませられている子牛もある。白ければ何でも有りかと、気休めにもならないそのような液体を飲ませられて、お腹を壊す子もいる。父牛、母牛と引き離された上、そのような育成環境に適応拒否をして死んでしまった子牛は、カツレツ……。

 母牛の方も、母乳目当てに人間に身柄を拘束され、そしてミルクが出なくなると、バラバラにされて人間の食卓の上に……。

 卵を産まなくなった鶏は、ハーブ入りのパン粉をまぶされてフライ……。


 こうして私は、卵や乳製品を買う気持ちには到底なれなくなってしまった。


 そののちに、動物とヒトは「星の子」である、と大学の講義で教わった。科学的にも、同じ組成の「家族である」のだ。

              


  宇宙年X月X日


 転勤族の量産


 転勤の多い企業がある。転勤のプラスの面は、新たな風景、新たな出会いがあり、新鮮な気持ちでいられる。旅好きにはたまらなく魅力的な面もあると思う。

 ある学校関係者の話では、

「行きたいという人は行けず、行きたくないという人がその任地へ行くことになる」

という。これって不思議。テンションを下げることが目的なの?と勘繰りたくなる。

 マイナスの面は、人とのつながりを切断したり、初めから遭えてつながりを希薄なものにしようとする思考が働くかもしれない。それは人に自分をさらけ出したり、胸の内を顕わにする機会を減らすことにもなりかねない。

 

 そしてこのことは、熱心さから、深く職務に没頭されることを防ぎ、知られては困ることが露見せず、数年また数年と時を稼ぎ続けることが狙いか。

 「どうせすぐに転勤だから」

と、初めから自己肯定感を持つことなく、住宅ローンの残高が減っていく事が人生の主な目的と、夢や希望ががいつの間にかローン返済にすり替わってしまった人もいるかもしれない。与えられる給料が働く主な目的となってしまうのかもしれない。正社員のサラリーが高ければ高いほど、秘密を抱えている組織もあるにはある。前進進化していく意識が自分にも、自分が係る会社にも、希薄のままではダメなときもある。

 

 それに、横糸が切断されてしまうため、縦糸が頼りにされるようになる。ピラミッドの上からの命令に何も考えず従うようにならざるを得ない。任地では新参者となってしまうのだ。

 「郷にいては郷に従え」とか、「長い物には巻かれろ」とは、ピラミッドの頂点に立つ者の手下が言い出した教訓なのか、と思うことがある。これまで多くのことが分かってきている。

 会社のような大きな組織と言っても、中には純粋に社会貢献の組織もあるのだし、進化と逆行して、デススパイラルの道を歩む世界の人々や社員を食い物にするゾンビ組織の、問題意識をあえて持たないゾンビ社員になる前に、自分のパッションを呼び覚まして違う道を進んでいくこともありだ。





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