第3話 メアリー記:「シアターへようこそ」
メアリー記
「シアターへようこそ」 乙音メイ
宇宙年9月の木の葉が色付き始める頃、私はとても気妙な出来事、あるいは、事件とも言えるようなシチュエーションを体験した。それまでにも、たくさんの不可解な出来事があったのだが、今回遭遇した事は、密閉された空間内でのことで、また許さざる行為であるため、日記代わりに使用していた自分のブログに、書き記した。
その日の事を、勇気をもって書けるようになるまで、9か月以上の時間を要した。
最後の18行は、少しくらいは反撃してみたかったという気持ちと、少しは辱めを感じてほしいという気持ちから付け足された、おまけである。
宇宙年7月x日付けメアリーのブログ
ブログタイトル
「寂しい人達」が演じる演劇は何を生み出すのか?
☆22時43分発下り行きーー
ジェンニーは、やっと来た列車に乗り込みました。仕事帰りに乗るいつもの列車の、いつもの車両です。
ドアが閉まる寸前、男が慌てて車外に飛び出しました。何事かと思うほどの慌てようです。
「快速に間違えて乗ってしまったかしら?いえ、これはいつもの列車、これでよかったはず……」
ジェンニーはなぜか不安になり、降りたいと思いましたが、ドアはすでに閉じられていました。
後で考えれば、やはりその列車には乗らない方がよかったのです。
若い男、女、様々な年代の勤め人風の乗客が、チラチラとジェンニーに視線をよこします。
「何かいつもと様子が違う。みんな、何故わたしを見るの?」
すぐ近くに立っている紳士然とした三人組の男達のひとりが、
「さあ、こちらへ……」
と、連れの二人をジェンニーのそばから離れるようにと、ジェスチャーを交えて促します。
男は、鷹揚な態度で口元に薄っすらと笑みを浮かべ、しかし、どこか虚ろな眼差しで、ジェンニーを見つめます。
「何が始まるの?」
男の意味ありげな視線に、ジェンニーは軽い恐怖を感じましたが、密閉された走る列車の中では逃げ場もありません。
「何かあったときに助けてくれそうな人はいないだろうか?」
あたりを見回すと、みな手元の携帯電話に目を落とし、操作に夢中になっています。
「痛い!」
そのとき、背中にチクッとした鋭い痛みが走りました。振り返ると、携帯電話を持った乗客がいるだけで、他に怪しい人物は見当たりません。
チクッ! 足にも痛みが走ります。
周りにいるのは、携帯電話を操作している人、大きなバッグを下げて中に手を入れている人、どれもごく普通の日常風景に見えるのです。しかし、チクッ! またチクッ!
身体に感じる痛みは、紛れもなく現実です。
ジェンニーは痛みの元を探しますが、結局よくわからないまま3駅先の降車駅に着きました。
「すみません、ごめんなさい!通してください。通してください。」
ジェンニーは恐怖に顔を引きつらせ、乗客をかき分けるようにしながら外に出たのでした。
「何だったのだろう?」
背中や足の鋭い痛みは確かに苦痛でした。しかし、また、乗客の誰もが虚ろな表情でいるそのことにも、ジェンニーは恐怖を覚えたのでした。
ジェンニーが乗った列車は、あるエージェントによる実験劇の舞台だったのです。
人は、理由なき恐れに遭遇した時どのようにその恐怖心に対峙するのか、また、加害時の心理をその演劇集団のひとり一人が、実験材料として記録され、丹念に調べ上げられていたのでした。
その後ジェンニーは、しばらくの間、列車に乗ることが怖くなりました。が、今は元気です。
☆
エージェントお抱えの劇団員の男は、その晩帰宅しました。
「パパ、お帰りなさい!」
「ミリー、まだ起きていたのかね」
「今日は遅かったのね。どんなお仕事だったの?」
「……」
「わたしね、大きくなったら、パパみたいな働き者の立派な人と結婚するの!」
「……」
メアリーのブログより
「メアリーの日記」
宇宙年11月X日
仕事帰りにいつも乗る電車の、いつも乗る先頭から5番目の車両内での事、閉店まで仕事をして帰宅する途中の、3駅間でのことだ。
10時を回っていたが、縦横に走る路線、登り下り合わせて22路線の大規模駅は、今夜も乗降客で賑わっていた。到着した電車の座席は空いておらず、わたしはドアの近くに立った。日頃鍛えているので、夜になっても身体は全く疲れを感じず、まだまだ余力がある。
だが、今日は電車に乗り込んだ後、マイナスの、何か不健康な雰囲気がしていて、前兆のような空気感を感じた。
そうこうするうちに、僅かに脈が希薄になり、軽い吐き気に近い感覚が現れだした。体温が下がってきたことが判る。冷たい脇や額に、じんわりと冷たい汗が滲む。
大丈夫、12分で自宅のある駅に着く。一駅目に着いた。もうあと二駅。新鮮な空気が吸いたい。
わたしは、ドアポケットと座席の端のL字の隙間で、壁にもたれながら、座りたいと思った。振り向いて、左手後ろの座席列を見たが、降車する人はいないようだ。立っているわたしの、すぐ後ろに座っている男性と目が合った。ベージュ色のジャケットの内側で、左手を右袖の中に入れて、もぞもぞしている。具合がさらに悪くなっら助けてくれそうかな? とぼんやり考える。ティーンエイジャーの娘さん?が居そうな、お父さんといった感じ。
座わることは諦め、あと2駅でホームにベンチがあることを考えてリラックスしよう。
けれど、心臓の鼓動が弱まって脈も薄くなってきた。心身の倦怠感が強くなり、気分の落ち込みも素早くやって来た。死ぬかもしれない。腸も少しおかしい。「ショック症状」だと思った。これまでにも体験したことがあるが、電車の中で起こるのは今夜が初めて。やっかいなことになった、と思った。
家では、トイレに行って、そのまま暫らくの間トイレに立てこもったままでいる。その後何とか、少しでもくつろげる場所に移動し、這いつくばった姿勢のまま、脈や血圧や体温が戻ってくるのを「こんなに気持ち悪いまま死ぬのは、いや」と思いながら待つのだ。
夜中に少し悪心を感じ、トイレに立ち、そのまま気を失った事も一度ある。気が付いた時には、体がすっかり冷たくなっていて、20分くらいは気絶していたのかもしれない。
もう少しで限界かもと思い、先ほどの男性を見てみた。ジャケットを脱ぎたいのか、脱ぎたくないのか、自分の左手を右袖に入れて、まだごそごそしている。また目があった。きっと真っ青になっているだろう私の顔色を見て、嬉しいのか、心配なのか、どちらともとれる表情をしている。何か妙な印象。
ふと思った。絶対にここから病院に搬送されてはいけない! 行くなら自宅から電話で救急車を呼んで、ミシェルと一緒に近所の病院に行ってもらう方がまだましだ! わたしは気を強く持ち、手すりとドア袋の壁との狭い場所に寄りかかりながら何とか立っていた。
今ここにしゃがみ込んだら、きっと次の駅で、担架に乗せられて病院行きになる。今まで何度も、急病人が出たと言うアナウンスを聞き、担架で運ばれる間電車の停車を体験したことか。あと2駅と言っても自宅からは遠いし、これまで病気の経験と言えば、風邪くらい、それもここ数年引いたことがなく、どこの病院に連れて行かれるのか、わたしには皆目わからない。それに、一人で待っているミシェルに連絡のしようがない。何しろ電話に出ない子供だから。入院ということになったら、薬や注射を勝手に打たれそうで、返って精神にも悪そうな気がする。残されたミシェルが何処かの施設にでも連れていかれたら、そして、そして、いつだったか、児童相談所が母子家庭の子供を連れて行き、何故だか面会謝絶状態になって、子供に合う手立てを探す母親の、悲痛に満ちた情報をインターネット上で多数目にした。そして、児童施設の子供たちの身に……。サイコパス集団の事も読んだ。児童施設で、機械的な対応しか受けられず、感情の乏しい人間へと育てられてしまう? いやらしい大人たちに利用されてしまうのか? 要するに私は、フランス政府や他の国でも認定している、カルトのことを思い浮かべてしまったのだった。家に着くまでは絶対死なない!
私は短時間に、目まぐるしくそんなことを考えた。
実は、現にあるのだ。
ミシェルのクラスメイトで、母子家庭のリッキーがいたが、ロースクールからハイスクールに上がる休暇中に、よその土地に行ってしまった。ロースクールの卒業前に、母親と離れ離れになっている。
深い悲しみを怒りの気持ちで上書きしたような、唇を噛み締め、悔しさを秘めた顔付きで、仕事先へと駅の高架への登りエスカレーターに乗って行くリッキーの母を、わたしは自宅へと、すれ違う下りのエスカレーターから見た。息子同士が友人なのだし、わたしもリッキーの美しい母と友人になりたいと考えていたが、お互いが多忙なワーキングウーマンで、今後のこととしてすましていた。何か助けになることはないかと思って、ついじっと見たが、向こうは、私の顔を知らないと思う。
ミシェルのやはり同級の、親が教師をしている情報通のエディから、ミシェルが聞いたことによれば、母親がナイトクラブで働いていて、家を空けることがあり、児童相談所による処置で隔離され、一人暮らしのお爺さんの家に移されたということらしい。
けれど、リッキーの母のあの顔は、ただ事ではない感じを受けた。お爺さんというのは、親族なのか、他人なのか? 不明だ。親族なら、少しくらい叱られても、気兼ねなく合いにも行くことができるはずだ。
リッキーの母とは、その後も駅前ですれ違った。やはり、苦しそうな顔をしていた。電車の時間もあるのか、声をかける間もなく、早歩きで通り過ぎて行ってしまった。
あの様子では、行き先も知らないまま、リッキーと引き離されているのかもしれない。
学校の休暇中でもあり、新学期が始まっても、他校からの生徒が加わり、同じクラスメートだった子供たちからも、何もなかったかのような印象になり、このままリッキー母子のことが忘れ去られてしまうのだとしたら、と考えると怖い。
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