第5話

 目を覚ましたマギスは、身体を起こした。

 白い清潔なシーツのに包まれたベッドが、ぎしりと音をたてる。窓の外から、カーテン越しに明るい光が射し込んでいた。とっくに、朝が来ていた。

 何だろう。何だか、ひどく長い時間寝ていたような気がする。

 マギスはベッドから降りると、窓を開けた。


 マギスたちが魔王を倒して、既に十日ほど経っている。

 世界には、平和が訪れていた。

 魔王がいなくなったことで凶暴な魔物たちは鳴りを潜め、町と町、村と村を結ぶ街道も以前のような活気を取り戻している。

 魔王討伐後、国王に使命を果たしたことを伝え、仲間たちはそれぞれの道を歩み始めた。

 女性たちは、あの後味の悪さを上書きするかのように、各々『やりたいこと』をやっている。


 セシリアは、希望していた近衛騎士を通り越して、第二王子専属の護衛として召し上げられた。

 先日会った時、何故か短髪の鬘を被って長い髪を隠しており、完全なる男装の麗人と化していた。初め、マギスは誰だかわからなかったくらいだ。綻ばせた顔で名を呼ばれ、その声で初めてセシリアだとわかったのだ。鬘の理由を尋ねてみると

「王子がそうしろとおっしゃるんだ。確かに王子はまだ結婚も婚約もしていらっしゃらないから、未婚の女性が側にいてはまずいのかもな。私のような者でも女性として扱ってくれるのだからありがたいよ」

 と笑っていた。

 しかし、セシリアとそんな他愛もない会話をしている間ずっと、マギスは、少し離れたところで宰相と話している第二王子からの殺気の籠った視線に刺され続けていた。どうやら、王子の想いに、セシリアはまったく気が付いていないらしい。


 トレイシーは、報酬と称して纏まった金銭を国王から賜ると、誰にも何も告げずに、ふらりといなくなった。

 その数日後、王都へと友好国の伯爵の遣いを名乗る者たちが、トレイシーを探しにやって来てちょっとした騒ぎになった。実はトレイシーは、その国の伯爵令嬢だったらしい。両親の打診した婚約が嫌で出奔し、そのまま数年経つという。

 あのトレイシーのことだ。姿をくらませたのは、実家の差し向けた追っ手から逃れるためだろう。簡単には捕まりそうにない。

 そう思っていたら、昨日、マギスの部屋に届いた書簡に、トレイシーからと思われるものが混じっていた。どうやら今は、とある大きな町にいるらしい。冒険者のためのギルドを立ち上げるつもりだとあった。

 またその内ひょっこりと現れるのだろう。いつものように気配を消して近づき、マギスを驚かせに来るのだ。


 シロマは、一度は神殿に戻ったものの、三日ほど前に「神官を辞めた」と報告しにマギスの元を訪れた。

「マギスさんやユージーンさんに対して、妹や恋人だと知りながら殺すことを強いる女神様に、お仕えする自信がなくなってしまって」

 そう言って、シロマは悲しそうに微笑んだ。シロマは多くは語らなかったが、魔王討伐に多大なる貢献をしたシロマを、神殿はなかなか手放したがらなかったことだろう。好待遇を約束したに違いない。それでも彼女は辞めることを選んだ。

 もしかしたら、自分の力不足で、魔王の魂とアンジェラの魂を切り離せなかったことを、ずっと悔やんでいるのかもしれない。

 今後は、王都にあるとあるパン屋にて、住み込みで働くのだという。可愛らしい彼女のことだ、すぐに看板娘となるだろう。彼女目当ての客が増えるのも時間の問題だ。


 マギスとユージーンは、凱旋後ずっと、王城に身を寄せていた。故郷はとうに滅んでいて、帰る場所もない。ユージーンの外見では、町に降りても人々の不安を煽るだけだ。

 それに、何をする気も起きなかった。

 実は、ユージーンにも数日会っていない。

 彼は、国王陛下へと魔王討伐を報告した後、自分に与えられた部屋に閉じ籠ってしまっている。

 それしか方法はなかったとはいえ、自らの手で、愛する者を殺めたのだ。心に負った傷は計り知れない。

 しばらくは一人になりたいだろうと思ってそっとしておいたが、そろそろ外に出て来てほしい。心を癒すためにも。

 マギスは身支度を整えると、ユージーンに与えられた部屋へと向かった。


 部屋の前を守る騎士に声を掛けてから、マギスはユージーンの居室へと入った。

 カーテンの引かれた部屋は薄暗かったが、見えないほどではない。

 ユージーンは、ベッドに前屈みで腰掛けていた。思い詰めた表情で、何かを持っている。ユージーンが、マギスがやって来たことに気が付いてぼんやりと顔を上げた。

「マギス……」

 マギスは急いでユージーンに駆け寄ると、手に持っていたものを取り上げた。それは短剣だった。鞘にきちんと収まってはいたが、ユージーンが自害しようとしていたのは確実だった。

「ユージーン、何するつもりだったんだ!」

 マギスは怒鳴りつけた。ユージーンが力なく項垂れ、何かを言う。

「──め、…んだ……」

「え?」

「だめだったんだ」

「何のこと?」

 マギスは眉間に皺を寄せた。ユージーンの頬を涙が伝っていた。

「もう、どうでもいいんだ。もう、こんな世界で生きていたくない。ただオレは、アンジェラに会いに逝きたかったんだ。でも、だめだった。死ねなかったんだ」

 ユージーンの言葉は、既に自害を果たした人間の発したものだった。しかし、その身体には傷一つない。躊躇い傷もない。かすり傷さえ見当たらない。

 マギスはハッとした。

 今朝の、あの妙な感覚。一晩しか寝ていないはずなのに、とても長い時間寝ていたような、あの感覚。もしかして、ユージーンはもう何度も……自害、した?

 マギスの推測を裏付けるように、ユージーンが泣きながら、吐き出すように言った。

「何度やっても、どんな方法を試しても、『リセット』される。魔王はもう居ないのに、能力ギフトが消えない。死ねない……」

 マギスは途方に暮れてユージーンを見た。

 ユージーンが両手で顔を覆った。懺悔するように、自らを呪う呪詛を唱えるかのように、言い募る。

「アンジェラは死んだ。殺したのはオレだ。オレが、アンジェラを殺した。オレの手で、魂を切り裂いた。あの感触が、まだ手に残ってるんだ。

 目が覚めて、毎回思う。何度も思う。、オレが村を出ていなかったら。、アンジェラを奪われていなかったら。に、戻れたら──

 でも、『リセット』じゃには戻れない。勇者なんて、神託なんて、能力ギフトなんて、何の役にも立たない……!」

「でも、そのおかげで、僕は今もこうして生きてる」

 マギスは言った。ユージーンの頭を撫でる。

 ユージーンが『リセット』してくれていなかったら、マギスは今ここに生きていない。とうに死んでいた。自分で覚えているだけでも、四度も命を落としている。

 ユージーンが顔を上げてマギスと目を合わせる。マギスは微笑んだ。ユージーンが目を閉じる。深呼吸した。気持ちを落ち着けようとしているらしい。

 マギスは唇を引き結んだ。


 本当に、なんて残酷な能力ギフトなんだろう。

 女神は何故、こんな能力ギフトをユージーンに与えたんだろう。

 それに、必要なくなった今、何故未だに『リセット』が発動するんだろう。


 そういえば、ユージーンはどうやってこの『リセット』の使い方を知ったんだ?

 女神から神託を受けたとき、女神の声はユージーンが勇者であり魔王を倒せる唯一の存在であると宣言してはいたが、能力ギフトについては一切触れていなかった。はずだ。彼だけ別途、何か聞いていたのだろうか。


 疑問が生まれ、マギスはようやく涙の止まったユージーンに尋ねた。

「ユージーン、聞いてもいい?」

 ユージーンが無言のまま頷く。

「『リセット』の能力ギフトについては、どうやって知ったの? 神託のときに、女神様はおっしゃってなかったように思うんだけど」

「いや、神託を受けたときに聞いた。オレのことを勇者だと宣言した後、一番最後にオレに一つ能力ギフトを授けるってな。必ずオレの助けになるだろうって言ってたが──そうか、あの部分は、皆には聞こえてなかったのか……」

「それだけ?」

「ああ」

「じゃあ、どんな能力ギフトか知らなかったの? 発動条件や戻る時点は……」

「経験則だ。初めて魔物に殺られたとき、気が付いたら時間が遡っていた。それが何度かあって、初めて自分で──オレが死んだら、オレが日付を跨いで眠った日の朝、オレが目覚めた時点に戻るんだとわかった。

 何故そんなことを聞く?」


 その質問には答えず、マギスは顎に手を当てて思案した。もう少しで、何かがわかりそうだ。

 女神は、ユージーンに能力ギフトについてほとんど語っていないらしい。

 今まで何度も発動してきた経験からして、それが『時を遡り、やり直すことができる能力』であることは間違いないだろう。

 しかし、『リセット』の『発動条件』や『戻る時点』については、ユージーンがそう思い込んでいるだけで、もしかしたら違う可能性があるかもしれない。

 本来、『時を遡るリセット』など、常識では考えられない、人知を超えた能力だ。非常に強力な魔法の力の一種だと考えられる。しかしユージーンには、魔法を繰ることができない。

 人は誰でも少しは魔力を有している。が、ユージーンにはそれを自在に操って魔法を放つ力はない。魔法を扱うのには特化したセンスが必要なのだ。だから『リセット』の能力を、経験則でしか理解できなかったのだと考えられる。

 であれば、自分が手伝えばどうだろう? 魔力の色を視ることができる自分が手伝えば、もしかしたら、『任意での発動』も『戻る時点の決定』も、可能なんじゃないか……?

 一縷の望みではあるけど、何もしないよりはずっといい。


 弾かれたように、マギスは顔を上げた。ユージーンが、訝し気にマギスを見上げている。マギスはユージーンの両肩を力強く掴んだ。

「ユージーン、もう一度『リセット』しよう」

 ユージーンが未だ涙で濡れている顔に困惑を浮かべる。

「君の話を聞いて、『リセット』は君だけが使える特殊な魔法である可能性が高いと思ったんだ。君は剣技には長けているけど、魔法については素人だよね。だから、故意に発動させることができなかっただけかもしれない。

 今度は僕が、君の魔力を視て、導く。上手くいけばに戻れるかもしれない。

 成功するかどうかはわからないけど、やってみる価値はあるだろう?」

 マギスは挑発するように、唇の端を片方だけ持ち上げてユージーンに笑いかけた。

 しばらくマギスを見つめていたユージーンだったが、やがて、力強く頷いた。


 ユージーンが背筋を伸ばして座り、目を瞑る。マギスはその正面に立ち、彼の額に両手を重ねた。

「じゃあ、いくよ。ユージーン、目を閉じて、集中して……『リセット』したいと強く思うんだ」

 マギスは、ユージーンの持つ魔力を目覚めさせるため、ごくごく微量の魔力を送り始めた。初めは何も起こらなかったが、時間とともにユージーンの持つ魔力が反応し始める。

 マギスの目に、ユージーンの身体が、淡く赤い光を帯び始めたのが視えた。ユージーンの魔力だ。しかしその光は、今にも大気に溶けてしまいそうなほどに、不安定に揺らめいている。マギスはユージーンに対して魔力の刺激を続けつつ、同時に彼の魔力が霧散していかないよう、自分の魔力でユージーンの魔力を上から包み込んだ。

 途端に、赤い光が濃度を増した。

 他からの干渉を遮られた赤い光はどんどん強くなり、厚みを増し、隙間なく包み込むマギスの魔力の内側に充満していく。密度が増し、マギスの魔力を弾き飛ばそうとする。


 時を遡るのだから覚悟はしていたが、なんていう莫大な魔力の量だろう。魔法を使えない者の魔力だとは思えない。

 本当に、成功するかもしれない。いや、成功させなければならない。


 ユージーンの魔力に耐えながら、マギスは問うた。

「ユージーン、何が見える?」

「川…巨大な、川……いや、光の粒だ。たくさんの光が川のように流れてる」

「きっとそれが、時の流れだね」

「ああ、多分……」

「光の粒って言ったよね。その中から、を探すんだ」

 マギスにはユージーンに何が見えているのかわからない。ただ、閉じたままのユージーンの眼球が、何かを探しているかのように細かく動く。やがて、止まった。

「あった! あそこにある」

「ユージーン、それ、掴める?」

 ユージーンの眉間にしわが寄る。

「くっ…遠い……」

「大丈夫、集中して。君ならできるよ」

 歪んでいたユージーンの表情が、ふっと緩んだ。

「掴んだ──!! マギス、跳ぶぞ」

「うん」


 二人で力を合わせて強く願う──『リセットプラス



   *   *   *



 がばり、とマギスは跳ね起きた。途端にくらりと眩暈がして、額を抑える。

 平衡感覚が落ち着いてから辺りを見回した。カーテン越しに射す、まだ明るくなり始めたばかりの外光に照らされて、懐かしい光景が目に飛び込んで来た。

 装飾のほとんどない質素な部屋、素朴な作りの家具。知っている。覚えている。ここは、マギスの故郷の村、自分の家の、自分の部屋だ。全部、を迎える前の、記憶のままだ。

 ──成功、した……?

 確信が持てない。

 ベッドの脇に視線を移すと、服と厚手のマント、丈夫な布で作られた道具袋、それと杖が、椅子に置かれていた。これにも見覚えがある。普段はこんなものをここに置くことはないが、あの日の朝はユージーンと日の出と共に発とうと約束したために、前日の夜の内に、服と山奥へ入るための道具、魔物が出た際の武器を用意しておいたのだ。

 それがここにあるということは、今日はの朝で間違いない。

 マギスは弾かれたようにベッドを抜け出し、部屋を飛び出した。隣の部屋──アンジェラの部屋の戸の前にユージーンが立っている。出て来たマギスに気付いて、落ち着かない表情を向けた。

「アンジェラは?」

「まだ……」

 ユージーンが首を振った。その声が、わずかに震えている。確認するのが怖いのかもしれない。

 マギスはアンジェラの部屋の戸をそっと開け、中を窺った。

 窓際に置かれたベッドで、アンジェラがすやすやと寝息を立てていた。

 生きている。アンジェラが、生きてる。

 マギスは胸が熱くなった。後ろを振り返ると、同じくアンジェラの姿を認めたユージーンが顔をくしゃりと歪めている。

 『リセット』に、成功したのだ。

 ようやく確信したマギスの視界が霞んだ。それでようやく、マギスは自分が泣いていることに気が付いた。

 嗚咽でアンジェラを起こすといけない。二人はアンジェラの部屋を後にした。


 各々の武器を手に、二人で家の外へと出る。ようやく太陽が顔を出し始めたばかりの時間だ。村人たちは、まだ誰も起きていないようだった。

 早朝の村はひんやりとしている。頭を冷やすにはちょうどいい。

 しばらく、二人は無言だった。落ち着いてきたマギスは、一つ大きく息を吐いてからユージーンに笑いかけた。

「無事に戻れたみたいだね。本当に『リセット』だ」

「ああ。本当に、『リセット』だ。多分、能力ギフトはもう使えない」

 マギスはハッとしてユージーンを見た。確かにこの時点では、ユージーンは未だ女神から神託を受けていない。

 しかし、ユージーンは肩の荷が下りたかのように微笑んでいた。ユージーンが己の両手を眺める。

「わかるんだ。今のオレは『勇者』でもない。ただのユージーンだ」そして顔を引き締めた。「でも終わったわけじゃない。今から魔王の魂ヤツが来る。ヤツを倒さないと、終わらない」

 ユージーンの言葉にマギスは首肯し、そして苦笑を漏らした。

「武器はちょっと頼りないけどね」

 そう言って、村に住んでいた頃に愛用していた両手杖を軽く振って見せる。

 魔王城へ挑んだ時に持っていたものは、先代勇者の仲間だった賢者が愛用していたとされるものだった。その賢者が骨を埋めたとされる国を訪れたとき、餞別の品として国王陛下から賜った立派なものだ。それに対して、今マギスの手にあるものは、マギス自身が森の木から削り出した軸に、魔石を嵌め込んだ非常に簡素なものだ。

 同じく、ユージーンの持つ剣も、道中で手に入れた、かつての名匠が魂を込めて作った逸品であり、数々の魔物の血を吸った魔剣と呼ばれていたものではなく、村人が町に降りたときに買ってきたという素朴なものだ。

「関係ないさ。体力や筋力はなくなっているかもしれないが、勘や技量までなくなったわけじゃない」

「体力や筋力なら、僕の魔力でサポートするよ。だから、絶対に死ぬな」

「お前もな」


 その時だった。

 大気が震えた。大地が揺れたのかと思ったが違う。大気に、覚えのある不快な波動がビリビリと駆け抜けた。森にいた鳥たちが、その気配に怯えて飛び去る。

 晴れていた空に紫雲が急激に広がり、太陽が陰った。

「──魔王の魂ヤツだ……!!」

 ユージーンが呟き剣を鞘から抜く。マギスは両手杖を地に突き立てると魔力を込めた。結界魔法を展開する。村全体をマギスの魔力が半球状に取り囲む。

 どこから来てもいいように、二人は背を合わせて油断なく構えた。

 バリバリバリ……! という音が、村の裏手から聞こえて来た。村人皆で使っている大きな貯蔵庫のある方だ。ユージーンが、マギスが走る。

 そこにいたのは巨大な魔物だった。マギスの住む家ほどの大きさの、獰猛な狼のような。ただし、鋭い牙のある頭が三つある。ケルベロスだ。こんな場所にいるような魔物ではない。もっと瘴気の濃い場所に生息しているはず。

 ケルベロスは、マギスの張った結界に弾き飛ばされたところだった。

「ヤツが魔王か……」

 速度を上げたユージーンの背に向かって、マギスは魔力を放った。筋力が飛躍的に向上し、護りの光がユージーンの身体を包む。

 ユージーンが結界から飛び出す。跳躍し、どぉ、と倒れた魔物に斬り掛かった。殺気に魔物が身を翻し、その刃を避ける。体勢を立て直される前に、ユージーンが間合いを詰めてさらに太刀を浴びせる。切っ先がケルベロスの頭の一つを捉える。血が舞う。だが浅い。別の頭がユージーンを狙う。ユージーンが刃を立てて牙を阻んだが、間髪入れずに鋭い爪を立てた前足が飛んできた。

「チッ」

 舌打ちして、ユージーンが後方へと跳躍する。その隙に魔物が立ち上がり、二人を睨んだ。グルルル……と威嚇される。頭の一つ、右目が潰れ、血が流れていた。

「魔王の魂は、あの身体を乗っ取って来たのか」

 マギスは両手杖を構えて言った。魔力を杖に集中させる。ユージーンも再度剣を構えた。

「そうみたいだな」

 確かにケルベロスが相手では、村の人々では手も足も出なかっただろう。旅をしていたマギスが初めてケルベロスを見たのは、魔王城の手前にあった深い森の中だ。このあたりの魔物とは比べ物にならない。

 マギスとユージーンの会話を聞いて、魔物がぴくりと反応した。

「ツよい魔りょクの持ち主ニ惹かレて来てミレバ……貴サまら、ナ故、儂ノ正体に気付イた?」

「教える必要はない」

 ユージーンが腰を落とす。人の顔をしているわけではないのに、魔物が笑ったのがわかった。

「強キだナ、人ゲん。結界を解イテ退け。用がアルのハお前タちじャナい」

「通すかよ!」

 ユージーンが走る。それを見て即座に魔物も地を蹴った。鋭い牙が三方向からユージーンを襲う。ユージーンはギリギリまで魔物を引き付けると、脚を前に蹴りだすようにして地面すれすれを滑る。牙を避けて迫り来る三つの頭の下を潜り抜け、腹の下に潜り込んだ。すかさず垂直に跳躍し、剣を突き立てる。

 マギスも、練った魔力を特大の火球へと変えて魔物に向かって放つ。ユージーンの動きに気を取られ、マギスから意識を逸らしていた頭の一つが炎に包まれた。

 ぐぉおおぉぉお、と魔物が苦し気な呻き声を上げる。しかし、魔物は怯まなかった。尾を鞭のようにしならせてユージーンに打ち付け、同時に三つの頭がマギスに向かって大きく口を開けて球状になった黒い雷をいくつも飛ばす。防壁魔法を張る暇もない。尾をまともにくらったユージーンが飛ばされ、地に転がった。立て続けに襲来する雷の球をマギスは前後左右に転がって避けたが、最後の一つを避けきれずに被弾した。

 マギスは全身を貫く痛みに悲鳴を上げ、倒れた。身体が痺れる。意識が飛びそうになる。でもだめだ。村を守る結界が解けてしまう。

「死ネ……!」

 マギスにとどめを刺さんと魔物が再度魔力を練る。

「うぉぉおおおお!!」

 いつの間にか起き上がっていたユージーンが、雄叫びを上げて魔物に斬り掛かった。渾身の力を込めて自分を警戒していた首を一太刀で斬り落とし、続けざまにマギスに向かって魔法を放とうとしていた首を狙う。

 振り向いた魔物が、狙いをユージーンへと変えた。空中にいるユージーンはもはや避けることができない。だが先ほど施した護りの魔法では足りない。マギスは咄嗟にユージーンへ対雷に特化した防壁魔法を放った。身体を起こすために突いた膝からまた全身に激痛が走り、思わず呻く。

 魔物の放った黒い雷がユージーンを直撃した。しかし、球状に包んだ防壁がユージーンを護る。ダメージを一切受けなかったユージーンが、背に被っていた剣を振り下ろした。中央の頭の頭頂部から一直線に、魔物を縦に斬り裂く。そのまま重力に従って魔物の胸まで降り、心臓を抉ると、ユージーンは魔物の身体を蹴った。血しぶきが辺り一帯を赤黒く染める。

「バ、ばか、ナ……」

 魔物が呟き、残っていた目から光がすぅと消えていく。

 それが完全に消える前に、魔物の身体から、ずるりと黒い何かが出て来るのをマギスは見た。霧や霞みのように不確かで、でも意志を持って蠢くもの。

 同じものを、つい最近──三年後に──見た。尖った耳に角が生えた頭部と厳つい身体──アンジェラの身体から出ていたものと同じ。あれは、魔王の魂だ。

 魔王の魂は、未だ動けないでいるマギスの方へと飛んで来る。その意図を正確に察知してマギスはぞくりとした。

 僕の身体を乗っ取るつもりだ……!

 両手杖を構えようとするも、腕に上手く力が入らず取り落とす。動けない。

「させるか!!」

 気が付いたユージーンが跳ぶ。魔王を追う。速い!

 魔王の魂がマギスへと触れる直前、ユージーンが剣を振るった。マギスの鼻先で、魔王の漆黒色の魂の真ん中に、垂直に、赤い光の線が引かれる。


 ぎゃぁぁぁぁぁああああああ──!!


 魔王の断末魔が響き渡った。びりびりと大気が揺れる。しばしの間、辺り一帯にこだましていたそれは、だんだん小さくなり、やがて、消えた。

 紫雲が解けるように消え、太陽の暖かい光が戻って来る。


 ──終わった。

 魔王は滅んだ。身体も、魂も。もう二度と、蘇ることはないだろう。


 マギスは大きく息を吐き出し、その場にへたり込んだ。全身が痛い。その隣にユージーンも座り込む。よく見れば、左腕が異常に腫れ上がっていた。

「ユージーン。君、それ、折れてるの?」

「多分な」

 ケルベロスの尾に打たれたときだろうか。

 そんなことどうでもいい、とばかりにユージーンは身体を倒し、仰向けに寝転がった。

「それで、よく倒せたね」

「必死だったからな」

 マギスは笑った。ようやく身体の痺れが消えつつある。動かせるようになった手で両手杖を拾い上げ、ユージーンに治癒魔法をかけ始めた。シロマほど上手くはないが、時間をかければ骨折くらいは治せる。

「自分の方を先に治せ」

 とユージーンに言われたが、マギスは譲らなかった。

「これからどうするの?」

 治癒魔法をかけながら、マギスはユージーンに尋ねた。

「決まってるだろ?」ユージーンが笑った。「──アンジェラの誕生日を祝う」

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