第4話

 がばり、とマギスは跳ね起きた。

 はぁ、はぁ、と肩で大きく息をする。

 暑さなど感じるはずのない気温なのに、全身が、じっとりと汗ばんでいた。

「──嘘、だろ……?」

 呟いて、額を伝う汗を手で拭う。そのまま顔を手で覆った。なかなか呼吸が整わない。混乱していて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 そう、また覚えている。『リセット』のことも、前回経験したことも、そして、ことも。

 バカな。彼女が魔王であるわけがない。何かの間違いだ。

 でも、あれは、あの姿は、間違いなくアンジェラだった。僕を見て『マギス兄様』と呼んだ。『お久しぶりです』と言っていた。

 もしかして、アンジェラは、死んだわけじゃなかったのか? 見たアレは、アンジェラじゃなかったのか──


「あの、マギスさん。大丈夫ですか?」

 シロマが、マギスの様子がおかしいことに気付いて声を掛けて来た。

「随分うなされていたようだが」

 剣の手入れの道具を持ったままこちらを窺うセシリアも眉根を寄せていた。

「うん、大丈夫……」

 マギスはそう応じると、大きく息を吐いた。大丈夫とは言ったものの、全然大丈夫じゃない。ショックが大き過ぎて、取り繕うことすらできない。

 何度か深呼吸を繰り返す。乱れていた呼吸が次第に整い、気持ちも少し落ち着いてきた。

 その余裕からか、セシリアの隣で、短剣や様々な道具の手入れをしていたらしいトレイシーの姿が目に入った。こちらに心配そうな表情を向けている。

「珍しく、ここにいるんだな」

 マギスはトレイシーに向かって言った。

 いつもなら、トレイシーは誰よりも早く起きて、斥候役とばかりにこれから向かう旅路の様子を見に行ってしまうのに。だって、毎回魔王城の様子を見に行っていた。なのに、今回はキャンプに留まったままだ。

「だって、ユージーンに魔王城の様子を見に行ってもいいか聞いたら、ダメだって言うんだもん。ケチ」

 トレイシーが唇を尖らせる。マギスの様子がいつもと違うことに気付いているからこそ、わざといつもと同じようなテンションで話してくれているのだろう。

「ユージーンは?」

「あそこ。アタシが起きたときには、もう、あんな感じで魔王城を睨んでた」

 マギスが皆に尋ねると、トレイシーが少し離れた場所を指さした。示された場所に、ユージーンが一人、こちらに背を向けて魔王城を眺めている。

 マギスは立ち上がり、幼馴染の元へと向かった。


 ユージーンの視線はずっと魔王城に向けられたままだ。それでも勇者はマギスが近づいてきたことに気が付いていたらしい。

「マギスか」

 と、マギスが声を掛けるよりも早く、ゆっくりと振り向いた。黒い瞳がマギスを捉える。

 マギスはユージーンのすぐ隣まで来ると立ち止まった。

 マギスの表情を見て、記憶が残っていることを察したのだろう、ユージーンが口を開いた。

「また、覚えてるんだな」

 マギスは頷いた。そして問う。

「魔王の正体……君も、知っていたわけじゃないんだね」

「ああ。オレも魔王の姿を見たのは前回が初めてだった」

 そう答えたユージーンの表情が、苦しそうに歪んでいる。ユージーンも、こんなことになるとは少しも想像していなかったのだろう。

 ユージーンが、思い詰めた表情で魔王城の方へと向き直った。


 会話が途切れたせいで、背後から、女性たちの無邪気な話し声が聞こえて来る。

「ねぇ、セシリアとシロマはさ、この戦いが終わったら何したい?」

「今から魔王城に挑むっていうのに、もう魔王を倒した後の話をするのか?」

「だってさぁ……」


 全然タイプの違う三人だが、彼女たちは非常に仲がいい。旅をする間も、うら若い女性にとっては過酷とも言える環境だったにもかかわらず、ほとんど喧嘩もせず、ずっと笑い合っていた。

 もそうだったな、とマギスは思った。マギスと、ユージーンと、マギスの妹のアンジェラと。全然タイプの違う三人ではあったが、故郷の村で毎日仲良く過ごしていた。マギスは昔へと思いを馳せた──



   *   *   *



 マギスの育った村は、人里離れた山奥にある小さな集落だ。魔族や魔族と人間の混血の者たちが集まり、ひっそりと隠れ住んでいた。そんな場所だから、滅多に余所者が来ることはない。人間避けの結界が張られ、その村の存在は人間たちに知られないようになっていた。

 マギスは、魔族である父と人間の母との間に生まれた混血児だ。

 父は、村で生まれ育った純血の魔族だった。純血の魔族はもう数が非常に少なく、村にも父とその両親の三人しかいなかった。その父の両親も、マギスが生まれたばかりの頃に亡くなっている。

 母はもともと、麓にある町に住んでいた人間だった。山菜を採りに山へ入って魔物に襲われたところを、運よく狩りに出ていた父に助けられたのだという。そのまま自分の村に戻ることもできたはずだったが、母は父とともに生きることを選んだ。やがてマギスが生まれ、二年後にはアンジェラが生まれた。


 ユージーンがこの村に住むことになったのは、マギスが四歳の頃だ。

 ある日、父が狩りから帰って来たとき、その腕には、獲物の代わりにマントで包んだ幼い男の子を抱えていた。

「急いで手当を頼む」

 と父は母に頼み、ベッドに男の子を横たえた。

 マントから出て来た男の子は、アンジェラと同じくらいに見えた。気を失っているその男の子の肌は浅黒く、髪は黒い。マギスが初めて見る色だった。だがそんなことは些細なことだった。それよりも何よりもマギスが驚いたのは、彼が、おおよそこの年齢の子供が着るべきではないような、服と呼べないボロボロの布を纏い、身体中に痣や怪我の跡があったことだった。

 魔物のせいでできた傷ではないことくらい、まだ幼いマギスでもわかった。ヤツらは獲物をいたぶるようなことをしない。ただ、殺すだけだ。だとしたら、この幼い子供をこんな目に遭わせ、山中へと放り出したのは……?

 母はマギスにアンジェラを見ているように頼むと、急いで彼を着替えさせ、傷を一つ一つ丁寧に洗い始めた。父は村に住む治癒魔法の使い手を呼んで来た。男の子の命に別状はなかったものの、大人たちは皆、沈痛な面持ちをしていたことを、マギスは今でもよく覚えている。

 男の子は半日ほどで目を覚ました。いつの間にか身に着けていた清潔な服、横たわっていた真っ白なシーツに包まれたベッド。男の子は自分の置かれている状況に恐れ戦き、慌てて舌足らずな言葉で父と母に謝りながら、ベッドから降りて服を脱ぎ始めた。

 母は泣きじゃくりながら半狂乱になっている男の子をぎゅっと抱き締め、必死に宥め続けた。父はやるせない表情で二人を見ていたが、やがてマギスとアンジェラを抱き上げるとそっと部屋を出た。


 母によると、男の子はユージーンと名乗ったそうだ。年齢は四歳だという。

 しかし母の表情は晴れなかった。ユージーンは、何かを尋ねたことにはすべて答えてくれたが、まるで、答えないと折檻されるとでも思っているかのような怯えようだったらしい。父にそう伝えながら、母はまた涙を流した。

 ユージーンがここは安全な場所なのだと理解するまで、かなりの日数を要した。そして少しずつ、マギスの家族や村での生活に慣れていった。

 父に拾われてきたときには、二歳のアンジェラと変わらなかった背丈も伸び始めた。棒切れのように細かった手足も健康的に成長し、弱かった身体も丈夫になっていった。

 十歳になる頃には、ユージーンはマギスと変わらない体格になっており、マギスの家族以外の村人に対しても、ちゃんと喜怒哀楽を示すようになっていた。子供らしく、表情豊かに、感情豊かに。

 村には年齢の近い子供が他にほどんといなかったために、マギスとユージーンとアンジェラは、毎日のように仲良く一緒に過ごした。釣りをしたり、虫を探したり、山菜を採ったり……。毎日が楽しくて幸せだった。いつも三人で笑い合っていた。こんな日々がずっと続くのだと信じていた。

 だから、年頃を迎えて、ユージーンがアンジェラと恋仲になるのは、自然の流れだったのだ。もちろん、マギスは祝福した。大切な親友と大切な妹が互いに想い合っているのだ、これ以上嬉しいことはない。

 ある日、マギスはユージーンに相談を受けた。もうすぐ迎えるアンジェラの誕生日に何かプレゼントをあげたい、と。マギスはアンジェラの好きな花にしてはどうかと提案した。村からさらに少し山奥に一刻ほど入った場所にある滝の傍に、アンジェラの好きな白い花が咲く場所がある。そろそろ見頃になるはずだ。

 アンジェラの誕生日、朝日が顔を出し始めた頃に、マギスとユージーンは花を摘みに村を出た。


 ──を迎えることになるとは思いもせずに。


 花束を手に村に戻った二人は、その場に立ち尽くした。

 村は、壊滅していた。建物は破壊され、焼かれ、畑は踏み荒らされ、村人たちは男はもちろん老人から女子供に至るまで皆殺しにされていた。マギスの両親も……父が母を庇うようにして、二人折り重なるようにして死んでいた。その奥には、別の誰かの、バラバラに引き裂かれた身体があった。それが誰のものなのか、考えたくなかった。

 三人の亡骸を前に、マギスは絶叫しながら崩れ落ちた。隣ではユージーンがアンジェラの名を何度も呼びながら咽び泣いていた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。やがて二人は、村を出ることに決めた。このような悲劇がもたらされた原因を突き止めるために。ただその前に、やらなければならないことがあった。瓦礫を片付け、穴を掘り、親しい者たちの亡骸を丁重に弔っていく。

 誰の亡骸なのか、はっきりわかるものもあった。惨殺されていて、いったい誰のものなのかわからないものもあった。一部しか残っていないものもあった。

 作業しながら、マギスは、何度も吐いた。その姿を見はしなかったが、多分、ユージーンも嘔吐していただろう。

 長い時間をかけて皆を弔い終え、瓦礫の中から使えそうなものを集めると、マギスとユージーンは村を後にした。

 そして、初めに立ち寄った町──おそらくは、母の生まれた町──で、二人は魔王が復活したということを知った。マギスたちの村を破壊したのは、おそらく魔王の手のものだろうと想像するのは難しくなかった。そして魔王復活についてもっと詳しく話を聞くために教会を訪れた際、ユージーンが、女神の神託を受けた。

 それから、魔王討伐の旅が始まったのだ……。



   *   *   *



「死んでいると思っていた」

 ユージーンが、ぽつりと呟いた。

「僕もだよ。まさか、あんな形で再会することになるとはね。と言っても、今は未だ会ってないんだけど」

 マギスは複雑な思いで言い、魔王城を見やった。

 もう何度、こうして魔王城を見ただろう。魔王城は相変わらず、禍々しい存在感を放っている。城を中心に暗雲が垂れ込め、既に太陽が昇っている時間の屋外だというのに辺りはどこか薄暗い。空を稲妻が走り、雷鳴が轟いた。

 あの城の最奥に、アンジェラがいる。

 マギスは、魔王となっていたアンジェラのことを思った。


 マギスも、アンジェラは死んだのだと、そう思っていた。、父と母の奥に居た、あのバラバラにされていた身体がアンジェラなのだろうと。でも実際は、違っていたらしい。アンジェラは生きていた。生きて、魔王として玉座に座っていた。

 ただ彼女は、姿形こそアンジェラそのものだったが、あの指先から発せられた魔力は、マギスの知るアンジェラの魔力ではなかった。

 魔力には一種の『色』のようなものがあって、それは一人ひとり異なる。同じ色の魔力はない。人が誰一人として同じ者がいないのと同じだ。ほとんどの人間にはそれが視えていないようだが、魔族との混血児であるためか、マギスにははっきりと個々の持つ魔力の『色』が視えていた。

 アンジェラの魔法に帯びていた『色』は、アンジェラのものではなかった。あれは、魔王の魔力の色なのだろう。

 だとしたら……。

 マギスは、シロマと出会った大神殿で読んだ文献のことを思い出していた。


「オレにはできない。アンジェラに剣を向けるなんて」

 ユージーンの声からは、覇気がまったく感じられなかった。

 それはそうだろう。魔王の正体を知った今、勇者にとっての魔王を倒すという使命は、ユージーンにとっての愛する恋人を自らの手で殺す、という意味に変わってしまったのだから。

「あれは確かにアンジェラの身体だけど、中身は、魔王だよ。アンジェラじゃない」

 マギスは静かに言った。

 ユージーンがマギスを睨む。痛いほどの視線がマギスを刺したが、マギスは怯まなかった。ユージーンが勇者で、魔王を倒すことのできる唯一の存在であるなら余計に、今自分が考えていることを伝える必要がある。

「大神殿の資料室にあった古い書物に書いてあったんだ。歴代の勇者たちは、魔王を倒して封印することはできていたけど、闇の力が強過ぎて、完全に消滅させることはできなかったらしい。だから、長い時間とともに封印の術式が弱まり、その度に魔王が復活していた。

 でも長い時間とともに人間も進歩していたんだね。魔法の技術が向上して、ついに先代の勇者が魔王を倒した際、もう二度と蘇らないように、ヤツの肉体を灰にすることに成功したらしい。でも魂までは消し去ることができなかった。魂だけは、封印することしかできなかった。それでも肉体は滅ぼしたから、封印が解けても魔王としては復活できないはずだった。

 だけど魔王は、封印が解けた魔王の魂は、復活するために代わりとなり得る肉体を探したんだ」

「それがアンジェラ……」

 いつの間にかユージーンの目から再び覇気を感じられなくなっていた。ぼんやりと呟く。

「でも何故だ? よりによって、なんでアンジェラが」

「これは僕の推測だけどね」と前置きして、マギスは続けた。「多分今までも、ヤツは何人にも憑依してきたと思う。でも成功しなかったはずだ。普通の人では、魔王の魂が持つ闇の力に耐えられないから。そのためには、器に適した強い魔力の持ち主が必要だ。

 僕もアンジェラも、魔族と人間のハーフだ。人間よりも強い魔力に耐えられる。それに加えて、アンジェラは霊媒体質で器としてより適していただろうし、魔力も純血並みに高かったから。ヤツにとっては最高の依り代だったんだろう」

 ユージーンが拳を握った。その目に光が戻っている。

「つまり、アンジェラの身体から魔王の魂を追い出せれば、アンジェラを取り戻せるかもしれない……?」

 マギスは頷いた。力強く。ユージーンが表情を引き締めて、マギスを見つめた。

「できると思うか?」

 マギスは苦笑し、ユージーンの背をぽんと叩く。

「ユージーン、君、女神の神託を受けた勇者なんだろう? ──奇跡を起こそうよ」


 また、雷鳴が轟いた。



   *   *   *



 魔王城に挑み始めて、いったいどれくらい経つのだろう。鍵のかかっていない不用心な城門を潜ったのは、もう随分前のこと。かなりの時間が経過していることだけは確かだ。

 今、ユージーンの言う『一番安全で効率的なルート』で魔王の元へ向かっていたマギスたちは、既にあの長い廊下を歩いていた。

 突き当りにある大きな両開きの扉を開け、シロマに邪悪な結界を解いてもらう。


 臨戦態勢で、玉座の間へと突入した。


「その結界に気が付いて、まして破るとは思わなかった」

 玉座に座る魔王が尊大に言う。マギスたちが近づいていくと、魔王は歓迎するかのように、整ったかんばせを綻ばせて優艶な笑みを浮かべた。

 マギスが両手杖を、ユージーンが剣を油断なく構える。女性たちは玉座に座る者がうら若い女性だったことに動揺し、それぞれの武器を構えたものの困惑の表情を浮かべた。

「アンジェラ……」

 名を呼んだマギスに、魔王が嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「マギス兄様、それにユージーン、。後ろにいらっしゃる皆さん、初めまして。そして、さようなら」

 ぴんと立てた魔王の人差し指の先端に、一瞬で魔力が集中した。パリパリと紫色のスパークが起こる。

 ──来る!

 魔王の指がマギスたちの方へと振られた。轟音を立てて指先から特大の黒いいかずちが放たれるより刹那早く、あらかじめ魔力を練っていたマギスは、両手杖を床にガツンと突き魔法を発動させた。魔力で出来た分厚い防御壁がマギスたちを半球状に包む。

 轟音とともに雷光が直撃した。壁が阻む。膨大な魔力に壁が圧される。しかしそれ自体がアースの役割を果たし、マギスの持つ両手杖を通って魔王の雷を床へと逃していった。

 マギスが肩で息をする。目だけで周囲を確認する。皆無事なようだ。

 魔王が、くすくすと笑った。

「マギス兄様、随分腕を上げたんですね」

「その名で僕を呼ぶな、魔王……。お前が纏う魔力は、アンジェラの色じゃない」

 マギスは再び両手杖を構え、魔王を睨み付けた。


「お前たち、知り合いなのか?」

 初撃で完全に虚を衝かれたからだろう。一挙一動を見逃すまいとじっと魔王を見据えたまま、セシリアが尋ねる。マギスも魔王に対して構えたまま答えた。

「彼女はアンジェラ。僕の妹だ。それに──ユージーンの恋人でもある」

「え? どーゆーコト? あれは魔王なんでしょ?」

「ああ」

 油断なく両手に短剣を構えたトレイシーの問いに短く答える。シロマが言った。

「妹さんが魔王……。知っていたんですか?」

「──いや。今知った」

 マギスはどう答えるか一瞬考え、結局そう答えることにした。シロマの眉がぴくりと動く。疑われているのだろうと思ったが、マギスはそれを無視して続けた。

「僕の故郷は、魔物に襲われて滅んだんだよ。僕とユージーンが生き残った。そう思っていたんだけど、違ったみたいだね。

 ただ、あの身体はアンジェラだけど、あの魔力はアンジェラの色じゃない。アンジェラが魂だけで復活した魔王に身体を乗っ取られているんだと思う。魔王の身体は先代の勇者が消滅させてしまったから」

「どうりで。肉体がないのに、何故魔王が蘇ることができたのか、神殿内でもずっと議論がかわされていたんです」

「乗っ取られたって……マジ? マズイじゃん。攻撃していいわけ?」

「しなきゃ、こちらが殺られるだろうな」

 動揺するトレイシーに、セシリアが冷静に答える。先ほどの雷魔法を見せられた後では、余裕などあるはずもない。

「だよね。つーか、アンタら、できんの?」

 トレイシーの視線は魔王に貼り付いている。が、に対してのことを言っているのかは明らかだ。

 マギスにとっては妹を、ユージーンにとっては恋人を、その命を奪わんと攻撃できるのか。

 答えは一つだ。

「ああ」

 迷うことなく、ユージーンが答える。マギスも言った。

「アンジェラを取り戻すためにもね」

「取り戻す……?」

「アンジェラの身体から、魔王の魂を引き剥がす。あの身体はアンジェラの魂を入れておく器であって、魔王の魂のためのものじゃない。だから、強力な浄化の力で清めれば、魔王の魂を身体から引き剥がせるはずなんだ。そうすれば自然と、アンジェラ自身の魂が自分の身体に結び付き直るはずだ。シロマ、協力してもらえる?」

「もちろんです」

 マギスの説明に、シロマが力強く頷いた。

「問題は、どうやってその浄化の力を使う隙を作るかなんだけど……」


「──ほぅ、そなた、魔力の色が視えるのか。たいしたものよ」

 魔王の口調が変わった。表情も。アンジェラの容姿に隠れていた魔王が、その姿を現したのだ。

「ちょっと特殊な一族なものでね」

 マギスは両手杖を構える手に力を籠め、魔力を練り始めた。

 ユージーンが腰を低く落とし剣をぐっと構える。

「アンジェラを返してもらう」

 ユージーンが地を蹴る。セシリアとトレイシーがそれに続いた。

 マギスは仲間たち全員に対して一気に複数の支援魔法を展開させた。筋力を増強し、守りの魔力を纏わせる。さらに玉座の間全体に幻惑の霧を発生させた。


「我が名はシロマ。生涯を賭して女神に仕ふる誓いをたてし者なり。生きとし生ける者を守りし女神よ、我に力を貸し与え給え──」

 シロマもロッドを天に掲げ、女神に祈りを捧げ始めた。いつ浄化の力を放つ必要が出てもいいように。風もないのに栗色の髪が揺らめき、身体を淡く温かい光が帯び始める。

 魂と身体との繋がりを断つ必要があるのだ。膨大な量の聖なる力が必要になるはずだ。ここぞというタイミングで浄化の力が使えるよう、あらかじめ準備しておかねばならない。


 ユージーンの剣が魔王に振り下ろされる。魔王はそれを左腕で受け止めた。生身の身体のはずなのに、刃が通らない。愕然とするユージーンの目に、剣の当たっているところにだけ黒い鱗のようなものが出現しているのが見えた。おそらく、魔力を一点に集中させて作った小さな盾だ。魔王の右手がユージーンの腹目掛けて突き出される。後方へと飛び退いたユージーンに、魔王の放った突風が追い打ちをかけた。ユージーンの身体が煽られて、勢いよく吹き飛ばされる。

 間髪入れず、セシリアとトレイシーが左右から同時に斬り掛かった。セシリアとトレイシー二人掛かりでの五月雨のような剣捌きを、魔王が最小の動きですべて避け切る。三つの刃が空を切り続ける。たまに何かを捉えても、靡く髪がはらりと落ちるのみだ。

「くっ……」

 セシリアの表情が険しくなる。トレイシーも舌打ちし、魔王の背後へと回った。魔王がそれを見逃してくれるわけがない。両手を交差させて、セシリアとトレイシーそれぞれに向かって魔法の火炎を放つ。トレイシーは横に跳んで避け、セシリアは大きく仰け反りバランスを崩す。隙のできたセシリアへ魔王が再度火炎を放とうとする。近距離からの攻撃。直撃する──!?

「でやぁっ!!」

 いつの間にか魔王の足元へと潜り込んでいたトレイシーが、伸び上がりざまセシリアへ向けていた魔王の腕を切り裂く。その勢いで放たれた火炎が上方へと逸れた。火炎が高い天井に当たり、そこ一帯を一瞬で黒焦げにする。

「おのれ!」

 魔王が手刀を水平に薙ぐ。トレイシーがバク転でそれを避け、セシリアを引っ掴んで飛び退った。

 間合いができた隙に、魔王がトレイシーに負わされた傷を魔法で治癒する。

「ウッソ、治癒魔法も使えるワケ? 反則じゃん」

「さすが魔王だな」

 笑うしかない二人を後ろから追い越し、ユージーンが雄叫びを上げてまた魔王へと飛び掛かる。それを見て、セシリアが援護のためにユージーンを追った。

「アンジェラを、返せ!」

 ユージーンとセシリアが即興で連携攻撃を見せる。右に左にお互いに身体を入れ替えながら、同時にあるいは時間差で魔王に向かって剣を振る。トレイシーもその周囲で動き回り、二人の間から幾度も飛苦無を投擲する。

「小賢しい」

 二人の剣を受け止め、避け、投げ付けられる飛苦無を蹴散らし、魔王は忌々し気に言うと、「は!」と気合を入れた。衝撃波が同心円状に広がり、魔王を攻撃していた三人を吹き飛ばす。そして両手を握り、急速に魔力を練り始める。

「マギス!」

 トレイシーが叫んだ。それを合図に、マギスはずっと練り上げていた魔力を魔王に向かって放った。魔王が片手でそれを受け止めようとし、驚愕して目を見開く。いつの間にか魔王の身体中に糸のようなものが絡んでいた。そこにマギスの魔力が通り、バリバリと電流が走る。

 マギスの思惑通り、罠が発動した。

 トレイシーはユージーンとセシリアを援護するために魔王を攻撃していたのではない。トレイシーの目的は、マギスが魔力で紡いだ糸を魔王に絡ませること。魔力の糸には重さや触感がなく、非常に視えにくい。マギスが放った幻惑の霧もさらに視えにくさを高めていた。ユージーンとセシリアが、トレイシーを援護していたのだ。彼女が攻撃に偽装しながら、糸を魔王に絡ませやすいように。

「ぐっ…これは……!?」

 マギスの魔力で動きを封じられた魔王が、顔を引き攣らせた。

 今しかない。

「シロマ!!」

 マギスは叫んだ。

 シロマがロッドの先端にある宝珠を魔王へと向ける。

「──魔王の魂に、潔き死を!」

 シロマを包んでいた暖かな光が一直線に魔王目掛けて迸る。

「ぎゃあぁぁああああああ!!」

 直撃を受けた魔王の悲鳴が玉座の間に響いた。

 光に押され、アンジェラの身体から黒い影のようなものが浮き出て来る。それはアンジェラの形をしていなかった。尖った耳に角が生えた頭部と厳つい身体──魔王の魂。浄化の光を受けて、アンジェラの身体から引き剥がされようとしていた。

 ユージーンが雄叫びを上げてその影に向かって剣を振り被る。が、その動きが止まった。黒い影の途中から色が着いていることに気付いたのだ。その部分は、身体と同じ、アンジェラの姿形をしていた。アンジェラの魂だ。

 どこからが魔王でどこからかアンジェラなのか、明確な分かれ目がない。二つの魂は、まるで虹に色の境目がないのと同じように、グラデーションになってしまっている。

 マギスは瞠目した。


 魔王の魂さえ身体から追い出せば何とかなると思っていた。まさか、二つの魂が癒着してしまっているなど、思いもしなかったのだ。もしかしたら、アンジェラの霊媒体質のせいかもしれない。霊媒体質の持ち主は他の魂に同調しやすいから。

 このままでは、魔王の魂だけを斬る、ということができない。アンジェラの魂を傷つければ、アンジェラが死ぬ。かと言って魔王の魂を斬らなければ、アンジェラを救うことができない。


「くっ……!」

 シロマの表情が苦しそうに歪んだ。浄化の光を放出し続けていられる時間は、もうあまり長くないだろう。

 ユージーンが、呆然とアンジェラを見つめたまま、力なく腕を降ろした。セシリアもトレイシーも動揺し、どうしたらいいのかわからないでいる。マギスにだってわからない。玉座の間に、ただ魔王の悲鳴だけがこだまする。

「ユ、ジーン……」

 か細い、鈴の音のような若い女性の声がした。ハッとしてユージーンがアンジェラの身体を見る。アンジェラが目を開け、ユージーンの方へと手を伸ばしていた。

「アンジェラ!」

 ユージーンがその手を取る。アンジェラが微笑んだ。

「お願い……。魔王ごと、私を斬って」

「な、にを……!?」

 ユージーンが驚愕した。アンジェラの目から涙が流れる。

「ダメね、私。せっかく、ユージーンとマギス兄様が来てくれたのに。一緒に帰れない。

 私の魂ね、少しずつ、アイツに取り込まれてるの。ね、見えるでしょう?」

 アンジェラは、身体から押し出されたままの魂を指した。アンジェラの身体に接している部分はアンジェラの色をしているのに、遠ざかるに従ってどんどん黒くなり、魔王の形へと変わっている。魔王の魂は、光に中てられて悲鳴を上げ続けていた。

 魂が半分魔王と同化しているなら、アンジェラ自身も相当苦しいはずだ。しかし、その苦痛を一切見せず、アンジェラはユージーンに語り掛けた。

「いずれ全部取り込まれて、私の魂は完全に死ぬわ。どっちにしても死ぬのなら、魔王になってユージーンやマギス兄様やみんなを苦しませるくらいなら、今ここで、死なせて? ──あなたの剣で、あの魔王の魂を斬るの。それで魔王の魂は消滅する。もう二度と、復活できないわ」

「嫌だ……嫌だ!」

 ユージーンが涙ながらに首を振る。

 アンジェラが最後の力を振り絞って、繋がれていたユージーンの手を引く。近づいたその唇に自分のものを重ねた。

「お願い、ユージーン。あなたの仲間が放ってくれてるこの光も、もう持たない。そうなれば、みんな死んでしまうわ。私がこの手で、あなたを、マギス兄様を殺してしまう。お願い、私にそんなことさせないで。ユージーン、お願い……!」

「ぐっ、う、うわぁぁあぁぁあああああ!!」

 雄叫びを上げて、ユージーンが剣を振り被る。

 その姿を見て、アンジェラが安堵の笑みを漏らした。

「ありがとう……」


 ざしゅっ……!!


 ユージーンの剣が一閃した。アンジェラの身体から伸びていた魂が斬られる。

 魔王の断末魔の叫びが玉座の間に響き渡った。びりびりと大気を揺らす。耳をつんざくほどのそれは、だんだん小さくなり、やがて、消えた。

 辺り一帯を覆っていた雲が消えたのだろう。窓から光が射し込み、玉座の間を明るく照らす。


 ユージーンの手から剣が滑り落ちた。膝をつき、微笑みを讃えたまま逝ったアンジェラの亡骸を抱きかかえる。ユージーンが、涙をぼろぼろと零しながら、大きく咆えた。



 ──ついに、魔王が、完全に滅んだのだ。

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