第3話
がばり、とマギスは跳ね起きた。
はぁ、はぁ、と肩で大きく息をする。
「──夢……」
呟いて、額を伝う汗を手で拭う。暑さなど感じるはずのない気温なのに、全身が、じっとりと汗ばんでいた。なかなか呼吸が整わない。
「マギスさん、大丈夫ですか?」
「随分うなされていたな」
シロマが、セシリアが、マギスのただならぬ様子を感じ取って声を掛けてきた。
「ありがと。大丈夫……、大丈夫」
マギスは軽く手を上げ、二人に向かって微笑んで見せる。そのまま手を額に当てて俯いた。曲げた膝の上に肘を乗せ、脱力する。
シロマとセシリアが、こちらを気にているのがわかる。でも声を掛けてはこない。そっとしてくれているのだろう。それでも、心配してくれているのは痛いほどよくわかった。せめて、早く息を整えなければ。
マギスは目を閉じようとして、やめた。目を閉じれば、きっと先ほど見た悪夢が鮮明に甦ってくる。
暗く広い部屋、強力な人型の魔物、圧倒的な力、マギスを殺さんと振り下ろされた巨大な刃の煌めき……。ぞくりと身体が震える。
「嫌な夢だ」
マギスは、誰にも聞こえないくらいの小さな声で独り言ち、違和感を覚えた。顔をしかめる。マギスの中にいる何かが、違うと叫んでいる。夢じゃないと暴れている。
──『リセット』……オレが死ぬと、過去のある時点まで時が遡る
声が頭の中で響く。マギスに告げたユージーンの姿を思い出した。
そう、あれは夢じゃない。現実だ。あれは本当にあったこと。そして、これから起こる未来。可能性の一つ。
ようやく息が整ってきた。マギスは一つ深呼吸すると顔を上げた。シロマとセシリアがマギスを窺っている。
二人の座っている位置、シロマの膝の上にある聖書、手入れ中のセシリアの剣、白く煙の燻る焚火の跡、やはり全部知っている。覚えている。
マギスは立ち上がった。
「わっ!?」
気配を消してマギスの背後にしゃがみ込んでいたらしいトレイシーが仰け反り、尻餅をついた。
「ちょっと! 急に立ち上がらないでよね。ビックリしたじゃん」
抗議するトレイシーを「ごめん」と頭にぽんぽんと手を置いて宥めつつ、マギスは辺りを見回した。
少し離れたところに、探している人がいた。ユージーンは一人、こちらに背を向けて魔王城を眺めている。
「もぅ。絶対に成功すると思ったのに」
聞こえてきた声に傍らを見下ろすと、トレイシーがぷくりと頬を膨らませて唇を尖らせている。マギスを驚かそうと思って失敗したのが悔しいらしい。
マギスは苦笑を残し、ユージーンの元へと向かった。背後で、女性たちが何やら無邪気に話し始めたのが聞こえて来た。
ユージーンの視線はずっと魔王城に向けられたままだ。それでも勇者はマギスが近づいてきたことを正しく察知していたらしい。マギスが「ユージーン」とその名を呼んでも特に驚いた様子を見せず、ゆっくりと振り向いた。黒い瞳がマギスを捉える。
マギスはユージーンのすぐ隣まで来ると立ち止まった。
「そんなに睨んでても魔王城は崩落なんてしないよ」
「ああ、知ってる」
そう応えると、ユージーンは表情一つ変えぬまま魔王城の方へと直った。
魔王城は、いつ見ても、何度見ても、禍々しい存在感を放っている。城を中心に暗雲が垂れ込め、既に太陽が昇っている時間の屋外だというのに辺りは薄暗い。空を稲妻が走り、雷鳴が轟いた。
「ユージーン」マギスは話しかけた。「あの話、信じるよ。『リセット』」
ユージーンの肩ががぴくりと動く。信じられないものを見るかのようにマギスを振り返り、問う。
「覚えて、いるのか……?」
マギスは微笑み、頷いた。
「少なくとも二回分は。いや、三回……かな。どの回なのかまでかはわからないけどね」
ユージーンが目を見開き、息を呑んだ。
二人の会話が途切れたせいで、女性たちの話し声が聞こえて来る。
「ねぇ、セシリアとシロマはさ、この戦いが終わったら何したい?」
「まだ魔王城に挑んですらいないのに、もう魔王を倒した後の話か?」
「トレイシーはお金、シロマはふかふかの布団で眠りたい、セシリアは近衛騎士」
マギスはユージーンに向かって行った。ユージーンが僅かに眉根を寄せた。
「魔王を倒した後に、彼女たちがやりたいことだよ」
ユージーンの方を向いたまま、マギスは親指で軽く後ろを示す。
「そういうトレイシーさんは何がしたいんです?」
「私はね、王様から一生遊んで暮らせるくらいのお金を貰うつもり。で、遊んで暮らすの」
「えらく直接的だな」
「でもさ、魔王を倒したんだったら、それくらいの報酬アタリマエじゃない? シロマは?」
「私ですか? そうですね……。平和になった世界で、王様にお城に招かれて、たっぷりのお湯に浸かって身を清めて、いつ魔物に襲われてもいいようになんて警戒することなく、ふっかふかのお布団に包まれて心行くまで眠りたいです」
「シロマらしい!」
「そうですか? 今の生活から考えると、最高に贅沢だと思いませんか?」
「確かにねー。じゃあ、セシリアは?」
「私か? そうだな、国王陛下に近衛騎士として召し上げて貰えたら嬉しいな」
「何でそんなこと聞くんです?」
「だってさぁ、魔王倒す戦いなんてツラいに決まってるじゃん? アタシ、ツラいことやるとき、これが終われば報酬が待ってるって考えると超頑張れるんだもん。みんなは違うの?」
「確かに、それはありますね。私もご褒美があると思うとがんばれます」
ほらね、とばかりに、マギスはユージーンに向かって笑みを深めた。
「本当、なんだな……」
そう呟いたユージーンの表情には、何故か、安堵も嬉しさも表れていなかった。とても複雑な、敢えて言葉を選ぶなら、憂いがそこにあった。
その表情の意味が気にはなったが、今のマギスにはそれ以上に聞かなければならないことがあった。
「ユージーン、何で『今朝』なんだ? 『過去のある時点』まで戻れるんだろ? だったら、もっと前──あのときまで戻れば……!」
「できない」
マギスが最後まで言う前に、ユージーンが割り込んだ。いつになく強い口調で。
気圧されしたマギスは、口を開いたままユージーンを見つめる。しかしユージーンが俯いているために、その表情も感情も、読むことが叶わない。
「できないんだ」
そう繰り返したユージーンの声色から、努めて冷静に話そうとしていることが窺える。ユージーンが続けた。
「何度『リセット』しても、『過去のある時点』は『オレが日付を跨いで眠った日の朝、オレが目覚めた時点』だった」
「そんな」
「オレが、あのときに戻ろうとしなかったわけ、ないだろ……」
絞り出すようにユージーンが言った。握り締められた両の拳がわなわなと揺れている。相当な力が込められているのだろう。
マギスは、ユージーンに掛ける言葉を見つけらず、ただ立ち尽くした。
多分、ユージーンが一番悔しいはずだ。口惜しいはずだ。『リセット』の
ユージーンのことだ、おそらくその
そこまで考えて、マギスはふと思い出した。
──オレが死ぬと、過去のある時点まで時が遡る
前回、ユージーンはマギスに『リセット』についてそう説明した。
先ほどの言葉から察するに、ユージーンは過去、故意にあのときに戻ろうとしたことがあるらしい。
それはつまり、自分で自分の命を絶ったことがあるということで。それも、ユージーンの言い方からして、決してあのときには戻れないのだと確信するまで、何度も繰り返し試したということで。
マギスにとっての死の記憶が──闇の中で強力な圧に押し潰された激痛が、灼熱の業火に焼かれた地獄のような暑さが、首を刎ねた巨大な刃の一閃が──フラッシュバックする。
マギスの背筋を、仄暗く冷たいものがひたりひたりと走った。
ユージーンが拳を緩め、詰めていた息を吐き出す。そして、毅然と顔を上げた。あのときのことを振り切るかのように。
「長居した。そろそろ行こう」
ユージーンが身をひるがえし、未だ楽し気に話している女性たちの方へと歩き去ろうとする。マギスはそんなユージーンの腕を取って振り向かせた。両肩に手を置き、ほぼ同じ高さにある黒い瞳をじっと見据える。そして、困惑を隠さないユージーンに尋ねた。
「何度目?」
意味が分からずに、ユージーンが訝し気にマギスを見返す。
「何のことだ?」
「『リセット』だよ。今まで、僕たちは何度やり直してるの? 君は……君は、何度命を落とした?」
ユージーンが思い出そうとしてか、マギスからいったん目を逸らした。次いで、自嘲のような笑みを浮かべて首を振る。
「さぁな。忘れた。五十を超えたあたりで、数えるのをやめたからな」
マギスは顔を歪めた。
今の答えで確信した。ユージーンは、『リセット』前のことをすべて覚えている。
今まで何度、ユージーンは仲間を喪ってきたのだろう。
マギスの脳裏に、息絶えたセシリアを抱き留めた記憶が蘇る。あの絶望感、無力感、焦燥感を、ユージーンは何度味わったのだろう。マギスは一度しか覚えていないが、もう二度とあんな思いはごめんだと心底思っている。しかしユージーンは、多分マギスには想像したくもないほど、繰り返し、繰り返し、経験してきたのだろう。
マギスはようやく、ユージーンから笑顔が消えてしまった理由を、彼が他人との間に壁を作る理由を、理解できたような気がした。
勇者としての重責、外見への先入観がもたらす迫害の辛さ、もちろんそれらも理由としてあげられるだろう。でも、それ以上に。
笑えないのだ。何度も死に直面しているから。死を経験しているから。
心を開けないのだ。親しくなってしまうと、その人の死に様を何度も見ることになるのが辛くなるから。
マギスが「前回のことを覚えている」と伝えたとき、ユージーンが憂いの表情を見せたのは、きっとマギスに自分と同じ思いをさせたくないからだろう。ユージーンは生来、とても繊細で優しい男だから。
なんて孤独な、そして、なんて残酷な
よく、正気を保っていられる……。
マギスはユージーンを優しく抱擁した。
「なっ!? ちょっ、おいマギス、放せ……」
「ユージーン」マギスはユージーンの抵抗にも構わず、彼を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。「『リセット』しても、君は全部覚えているんだろう?」
ユージーンが瞠目した。マギスを引き剥がそうと、腕を突っ張っていたのが止む。身体から力が抜けていった。
「たった一人で……何度も何度も、辛かっただろう。気付いてあげられなくて、『今までのこと』を全然覚えていなくて、本当にごめん」
マギスの言葉を聞いて、ユージーンの目が潤む。瞬きとともに、涙が一筋、頬を伝った。一度零れると、止まらなくなる。ユージーンの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「う、うっく……ふっ……」
泣き顔を見られたくないのだろう。ユージーンはマギスの肩に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。
マギスはそんなユージーンを包み込み、背をぽんぽんと叩いた。安心させるように。一人じゃないとわからせるために。ユージーンの気が済むまで、マギスはずっとそうしていた。
ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したユージーンが身体を起こす。目は赤くなっていたものの、その表情は、何かが吹っ切れたようにすっきりとしていた。最後に、手で両目を拭う。
「──終わった?」
トレイシーの投げ遣りな声が、割と近くから聞こえて来た。
見れば、すぐそこに身支度を終えた女性たちがいる。トレイシーはジト目で、セシリアは少し気まずそうに目を逸らして、そしてシロマは、何故かキラキラと瞳を輝かせて、立っていた。
「ハイ、これ。マギスの!」
トレイシーが不機嫌そうに言い、マギスの荷物袋をどんっと押し付ける。トレイシーが何故怒っているのかわからないまま、マギスはそれを受け取った。
「ありがとう……。トレイシー、なんか怒ってる?」
トレイシーの眉がきりりと上がる。
「不潔」
唇を尖らせてマギスにそう言うと、トレイシーはぷいっとそっぽを向いて離れて行った。
「え? ええっ!?」
思わぬ言葉に動揺し、狼狽えるマギスに、セシリアが声を掛ける。
「……トレイシーのことは気にしなくていい。知らなかった世界に、ちょっとショックを受けただけだから。むしろ私たちの方こそ、今までずっと気付かなくてすまなかった」
そう言って軽く頭を下げるセシリアを見て、マギスはますます混乱した。何故謝られるのか、見当もつかない。
「ねぇ、ちょっと待って。あのさ」
「心配しなくても大丈夫だ。別に二人の関係を否定したりしない。愛にはいろいろな形があるということは知っている」
セシリアが頷いた。
マギスはようやく、先ほどの自分とユージーンが、女性たちにどう見られていたのかに思い当たった。誤解を解こうと慌てて言い募る。
「ちょ、ちょっと、みんな。何か勘違いしてない?」
シロマが優しくふんわりと微笑んだ。美少女の見せる女神のごとき笑顔なのに、何故か裏があるようにマギスには思えた。
シロマは拝むように両手を合わせ、何故か深々と礼をした。
「シロマ……?」
「眼福にあずかり幸せです。尊いものを見せていただき、ありがとうございました。道ならぬ想いであっても、お二人が互いに想い合うならば、女神さまはちゃんとお守りくださると思いますわ」
「だから、誤解だってば!」
マギスが女性たちに言う。
ユージーンがそんな仲間たちを眺めながら、久しぶりに、本当に久しぶりに、穏やかな笑顔を見せた。
「ユージーンも、笑ってないで否定して!?」
マギスの悲痛な声が響く。
また、雷鳴が轟いた。
* * *
魔王城に潜入して、いったいどれくらい経つのだろう。「城門にも入口の扉にも鍵や錠がない」とトレイシーが笑ったのは、もう随分前のことだ。
先頭はユージーン、しんがりはセシリア。ユージーンとの仲について何とか女性たちの誤解を解いたマギスは、トレイシーの隣を歩いていた。
ユージーンによると、魔王城に挑むのは今回で十三回目らしい。魔王の元へ向かう、一番安全で効率的なルートがようやくわかった、と憂いを含んだ笑みを見せてそう言った。
そうなれば、強敵のいる場所を避け、侵入者除けの罠を掻い潜るのは容易い。マギスたちは、時折遭遇する魔物たちを蹴散らしつつ、ほとんど被害なく、順調に、最奥にあると思われる魔王の居室へと進んでいた。
階段を上り切り、絨毯の敷かれた長い廊下に差し掛かる。
マギスは、この光景に見覚えがあることに気付いた。この廊下の突き当りに、大きな両開きの扉があるはずだ。そして、その向こうには、
ここまで考えたとき、不自然にならない程度に近づいてきたトレイシーが、小声でマギスに話しかけてきた。
「マギス、ちょっといい?」
唇をほとんど動かしていない。あまり他のメンバーには聞かれたくない話らしい。マギスは小さく頷いた。
「マギスとユージーンって、幼馴染なんだよね?」
「うん。ただの幼馴染だよ」
「それはもうわかったってば……」
「ならいいんだ。それがどうかした?」
「アイツ、本当に信用できるの?」
「え?」
トレイシーの言う意味がわからず、マギスは聞き返した。トレイシーの視線の先には、先頭を歩むユージーンの背中がある。
「どういう意味?」
「
「それは……」
マギスは返答に困った。
それは、ユージーンが今までに何度も魔王城に挑んでいるからだ。経験しているからだ。『リセット』されているから他の人にはわからないだけで、ユージーンの中には記憶が蓄積されている。
でも、トレイシーにそれを説明したところで、信用してもらえるとは思えない。マギス自身、既視感は覚えても、初めは時が遡っているからだとは思わなかった。ユージーンから『リセット』の話を聞いたときも半信半疑だった。信用できたのは、今朝、はっきりと前回の記憶が残っていたからだ。
そういった前提のないトレイシーに納得してもらえるような答えを、マギスは持ち合わせていなかった。
黙り込んでしまったマギスをどう捉えたのか、トレイシーが遠慮がちに、しかしはっきりと尋ねてきた。
「ユージーン自身が、魔王の手先じゃないかって考えたことはない?」
「それこそありえない!」
マギスは思わず声を張った。
いったい何事かと、パーティーの足が止まる。皆が、マギスと、マギスが激情に駆られた目で見つめるトレイシーに注目した。こうなっては、二人だけの話にはしておけない。
「少し前から思ってたんだ」トレイシーの視線が、マギスからユージーンへと移った。「ユージーン、アンタ、敵の事情をいろいろ知り過ぎてない? いろんな情報網を持ってるアタシでも絶対に知り得ないようなことすら、普通に知ってる。
どうして? 勇者って言われてるけど、実はアンタこそ、アタシたちを欺く魔族なんじゃないの?」
「トレイシー!! 言葉が過ぎるよ!」
マギスが諫めたがトレイシーは止まらない。
「アンタの外見──浅黒い肌に闇に溶ける黒い髪、黒い瞳って……言い伝えにある魔族そのものじゃないか!」
静寂が訪れる。
トレイシーはハッとして口を噤んだ。その顔から血の気が引いている。言ってはならないことを言ってしまった。でももう遅い。いったん口から外へ出てしまった言葉は、どう繕っても決して元に戻せない。
シロマはハラハラとした表情で口元に手を当て、セシリアは厳しい表情を隠さない。
ユージーンは、仲間から視線を逸らして俯いた。
マギスは激昂した。
「トレイシー、君……。今まで一緒に旅をしてきて、ユージーンの人となりは知ってるはずだよね? 自分の目で見て来た仲間の姿より、昔の人が言い伝えたっていう、真実かどうかもわからない言葉の方を信じるの? 外見が自分たちと違うっていうだけで? そういう考えが差別を生み、迫害を生むんじゃないか?」
トレイシーは黙ったまま何も言わない。ただ、唇を噛んでいた。
「いい」ユージーンが哀し気に微笑んだ。「仕方ないさ。この
その諦めている物言いが、マギスを余計に苛立たせた。
「バカ! いいわけないだろう。
何で君があの村に住むことになったか、僕が知らないとでも思ってる? 君があの村に来るまでどんな目に遭わされてきたか、想像できないとでも?」
マギスの言葉に、ユージーンが口を引き結ぶ。マギスは再びトレイシーの方を向いた。
「自分たちと違う色をしてるってだけで不吉だの忌まわしいだのって勝手なイメージを持たないでもらえるかな。実際の魔族はそんな色してないよ。君たちとほとんど同じだ」
トレイシーがマギスを睨んだ。
「何で、そう言い切れるのさ?」
「──それは、僕が」
「マギス!」
ユージーンの制止も聞かず、マギスは続けた。
「僕が、魔族と人間のハーフだからだ」
再び、静寂が訪れた。
女性たちが驚愕の表情を見せている。それはそうだろう。今まで、他の人たちには告げていなかったのだから。魔王討伐を目的とした旅路の中で、余計な誤解や疑惑を与えたくはなかったから。知っているのは、ユージーンだけだ。
マギスは大きく息を吐いた。冷静になるよう努める。
「勘違いしないで欲しいんだけど」と前置きして、マギスは言った。「『魔族』は『魔物』とは違うよ。人間と同じく、食事をして、睡眠を取り、家族を作る。人間に近いから人間と交配もできる。人間とは、ただ種族が違うだけだ。強いて違いを上げるなら、人間よりも魔力が強いってことと、人間よりも少し短命ってことくらいだ。『魔王』は『魔物』を統べる者であって、『魔族』とは何の関係もない」
トレイシーが俯く。シロマも、セシリアも、マギスと目を合わせようとしない。それぞれ、何かを考えているようだった。
「……行こう」
マギスはそう言い、歩き始めた。ユージーンが、自分を気遣うように見ている。マギスは「大丈夫」と笑い掛けた。
ユージーンも歩き始める。女性たちも、無言のまま、脚を動かし始めた。
古い石造りの城の最奥、長い廊下の突き当りに、その扉はあった。
両開きのそれは、通常の扉の三倍はあろうかという高さと幅があり、錆び付きの具合からして何かしらの金属で出来ているとわかる。見るからに重厚な扉の全体には、凝った意匠が施されていた。
分厚い扉を挟んでいるにもかかわらず、その向こうから僅かに漏れ出て来る空気が、気配が、重い。まるで、ねっとりとしたヘドロが流れる川の中に立っているかのような感覚に、マギスは覚えがあった。
「この向こうに、魔王がいる」
ユージーンが言った。先ほどの出来事の後、会話は一切なかった。久しぶりに人の声を聴いたような気がする。
「扉の向こうに、結界があるはずだ。シロマ、破れるか?」
ユージーンが頼むと、シロマがこくりと頷いた。
ユージーンとマギスで扉を開く。一筋の光すら通さない真っ暗な闇色の霧が、行く手を阻んでいた。
シロマがロッドを掲げ、天に祈りを捧げた。
「我が名はシロマ。生涯を賭して女神に仕ふる誓いをたてし者なり。生きとし生ける者を守りし女神よ、我に力を貸し与え給え。その聖なる光を以って、今ここに邪悪なる咒術の闇を払わん──」
ロッドの先に付いている宝珠が淡く黄色に輝き始める。それがだんだん強くなり、眩しいほどの光となった時、シロマがロッドを闇へと振り下ろした。
光が弾となり一直線に闇へと飛ぶ。聖なる祈りの光が触れた場所から、闇が霧散していく。進むごとに光が肥大し、目を開けていられない。
そしてひと際大きく爆発的に輝いた直後、光が消滅した。
マギスがおそるおそる目を開けると、黒い障壁が消え、部屋の中が見えるようになっていた。
「助かった」
ユージーンがシロマに言い、部屋の中へと入っていく。
マギスも労うようにシロマの頭に手を乗せようとして……やめた。手を上げたとき、シロマが一瞬身を硬くしたのが見えたのだ。マギスは手を降ろし、薄く笑う。その表情を見て、シロマが傷付いたような、泣きそうな顔を見せた。
「あ……」
何かを言いかけたシロマを無視し、マギスはユージーンの後を追った。
そこは、玉座の間だった。
天井が高く、柱は可能な限り隅に寄せてある。扉から最奥まで分厚い絨毯が敷かれており、その最奥の数段高い場所には大きな玉座が備えられている。
玉座に、誰かが座っていた。部屋が薄暗くて影にしか見えないが、玉座の大きさに対してかなり小柄なようだ。しかし、発せられている威圧は、今までに遭ったどの魔物よりも強いものだった。
「その結界に気が付いて、まして破るとは思わなかった」
魔王が言った。
マギスは驚いた。その声が、マギスが想像していたのとはまったく異なる、鈴の音のような若い女性のものだったからだ。少女のものと言ってもいい。
そしてマギスは、その声にひどく聞き覚えがあった。
嫌な予感がする。
玉座が一歩一歩近づくたびに、心臓が、どくりどくりと早鐘を打った。
ついに城主の姿が見えた。
座っていたのは、マギスやユージーンたちと同年代の少女だった。陶器のように白く滑らかな肌、長いストレートの金髪、星屑を宿す青い瞳、薔薇色の唇には微笑みを讃えている。この場に居るのが不釣り合いな、魅了されそうなほどに、美しく儚い印象の少女だ。
しかしそんな顔に似合わず、身に纏う黒いドレスには深くスリットが入っており、そこから覗く脚は組まれていた。肘掛けに頬杖をつき、魔王と呼ばれるに相応しい尊大な態度で、こちらを見下ろしている。
「な……」
マギスは絶句した。
その少女を知っていたから。とてもよく、知っていたから。
ユージーンも、呆然と、彼女を眺めるのみだ。
「ま、さか……アンジェラ、なのか……?」
名を呼んだマギスに、魔王が嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「マギス兄様、それにユージーン、お久しぶりです。後ろにいらっしゃる皆さん、初めまして。そして、さようなら」
ぴんと立てた魔王の人差し指の先端に、一瞬で魔力が集中した。パリパリと紫色のスパークが起こる。
危ない──
マギスが防御壁を作ろうと両手杖を構えるより一瞬早く、魔王の指がマギスたちの方へと振られた。轟音を立てて指先から特大の黒い
何をする暇もなかった。
痛みも恐怖も苦しさも、何かを思う暇もなかった。
ただ刹那でマギスの意識は途絶え──
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