第2話

 がばり、とマギスは跳ね起きた。

 はぁ、はぁ、と肩で大きく息をする。

「──夢……か?」

 独り言ち、額を伝うものを拭う。暑さなど感じるはずのない気温なのに、全身が、じっとりと汗ばんでいた。

「マギスさん、大丈夫ですか?」

 自分の名を呼ぶ澄んだ可愛らしい声に、マギスは顔を上げた。

 緩いウェーブのかかった栗色の髪を耳にかけながら、敷物の上に腰を下ろしたシロマが、琥珀色の瞳に心配を滲ませてこちらを見ていた。その膝の上には開かれたままの聖書がある。多分、今まで読んでいたのだろう。

 マギスは瞬時に、自分の置かれている状況を思い出した。

 今日これから、魔王城へと向かうのだ。未だ、潜入していない。昨夜から身体を休めていただけ。今のは、夢。ただの夢……。

「うん、大丈夫だよ、シロマ。もしかして驚かせちゃった?」

 マギスはにこりと笑って見せたが、シロマには信用してもらえなかったらしい。

「本当ですか?」

 と、マギスはシロマから真っ直ぐにじっと覗き込まれた。

 シロマは神官だ。人々の懺悔を聞き、導く立場にある。そんな聖職に就いている者特有の、中途半端な嘘などまったく通用しない目が、マギスを貫いた。

「本当に、大丈夫だよ」

 困ったマギスは、シロマの隣で剣の手入れをしていた女剣士に助けを求めようとした。

「ねぇ、セシ、リ…ア……」

 夢で見たセシリアの最期がフラッシュバックし、呼び掛けた声が急速に勢いを失う。

 異変を感じたのだろう、顔を上げたセシリアが、不思議そうに首を傾げてマギスを見返した。頭のてっぺんで一つに結われた燃えるような赤毛が揺れる。

 マギスはセシリアを見つめた。自分を写す彼女の緑色の瞳に、生命力が漲っているのを感じる。

 このセシリアが、女性でありながら剣の腕では右に出る者がいないと謳われるセシリアが、あの悪夢の中で、いとも簡単に死んだ。僕を庇って。僕のせいで。呆気なく。ドラゴンの尾で身体を跳ね飛ばされて、爪で裂かれて、致命傷を負って──

「──ス……マギス?」

 強い口調で名を呼ばれ、マギスはハッと我に返った。戻ってきた視界の中で、セシリアが居心地悪そうにしている。

「そんなに見つめないでくれ。手合わせ以外で異性と相対するのに慣れてないんだ。それとも、私の顔に何か付いているのか?」

「あ、いや……ごめん。綺麗な目だなと思って」

 セシリアに上目遣いで問われ、マギスは咄嗟にはぐらかした。

 以前からセシリアの目が綺麗だなと思っていたのは本当だ。それを今伝えることになるとは思っていなかったが。

「な…にを、突然……」

 狼狽えるセシリアに気が付かず、マギスは続ける。

「前から思ってたんだ。力強く萌える、新緑の色だよね。明るい緑なのに、深くて澄んでる。セシリアの人柄が出てるなって思うよ。すごく、綺麗だ」

「──もういい、少し黙ってくれ……」

 セシリアがその場に剣を置き、表情が隠れるよう両手で額を覆った。耳が髪に負けないほどに赤くなっている。

 シロマがくすくすと笑った。

「よかった、いつものマギスさんですね」

「……ちっともよくない」

 セシリアが両手をそのままに抗議する。

「だから、大丈夫だって言ってるだろう?」

「マギスさんの大丈夫は信用できませんから」

 シロマがしっかりとクギを刺してきた。

「前にも『大丈夫』って言ってたのに、実は足の骨が折れていたってことがありましたし、高熱が出ていたこともありましたよね。

 そんなわけでマギスさん、もう少し休んでいてください。夢見が良くなかったのでしょう?」

 マギスは言葉に詰まった。事実なだけに、ぐうの音も出ない。しかも、こちらを見るシロマの表情は、持ち前の可愛さを前面に出した笑顔なのだが、目がまったく笑っていなかった。

 シロマを援護するように、少し復活してきたらしいセシリアが口を開いた。

「無理に隠さなくてもいい。自分では覚えていないのかもしれないが、さっきは起こそうかと思うくらいに、ひどくうなされていたからな」

 二人から貰う言葉に気遣いが見える。心配されているのだ。それほどにうなされていたんだろう。

 二人の視線に負け、マギスは降参とばかりに両手を軽く挙げた。

「ありがとう、二人とも。心配してくれて。でもこの通り、本当に大丈夫だよ。確かにいい夢じゃなかったんだろうけどね。でも、もう忘れちゃったんだ。夢って目が覚めるとあっという間に忘れちゃうね」

 そう伝えて苦笑交じりに肩を竦めて見せる。

「魔力は? 回復していますか?」

 シロマに尋ねられて、マギスは自分の手を握って集中してみた。体中を巡っていた魔力が手に集中する。その密度に、魔力が身体を漲っているのを感じた。

「うん、ちゃんと回復してるよ」

「そうか。マギスがそう言うならいいんだ。無理に休めとは言わない。ただ、皆がマギスの魔法を頼りにしているんだ。それを忘れないでくれ」

 そう言うと、セシリアが剣の手入れを再開する。

 シロマの方は、それでもしばらくマギスを疑うように見つめていたが、やがて諦めたように一つ嘆息すると、手元の聖書へと視線を落とした。


 二人の意識が完全に自分から離れたことを認め、マギスはそっと息をついた。

 もちろん、さっきまで見ていたあの夢を忘れてしまえるわけがない。広い大広間も、そこを守る巨大なドラゴンも、時間を稼ぐためにと単身で挑んだユージーンの後ろ姿も、真っ赤な血に染まって死んだセシリアの虚ろな目も、自分を捉えたドラゴンの鋭い眼光も、我が身を焼いた業火の熱さも、すべてリアルに覚えている。

 いい夢じゃないどころか、悪夢だ。今までに見た中で最低の。

 夢で迎えた死の瞬間を思い出し、マギスはぞくりと震えた。

 あれは、あの恐怖は、本当にただの『夢』だったのか?

 自分が今本当に生きていることを実感したくて、マギスは目を閉じ、己の左胸に手を置いた。

 どくり、どくり、と動いている心臓の存在を、はっきりと感じる。

 さっきまで見ていたのは夢だ。今の、目の前の世界が現実。でも。

 あの、仲間を失った無力感と死に絡め捕られた絶望感は、ただの夢だとは思えない──

 マギスは息を吐き出し、頭を振った。

 ……気にしすぎか。これから魔王城に挑むのだから、神経が昂ぶっているのかもしれない。


 マギスは気持ちを切り替え、辺りを見回した。少し離れたところに、ユージーンが一人で、こちらに背を向けて魔王城を眺めているのが見えた。

 ユージーンはあそこにいるのか。

 共に旅をする仲間を思い出しつつ、その位置を確認する。僕とユージーン、セシリア、シロマ。あぁ、トレイシーがいないのか。

「トレイシーは?」

 マギスがシロマとセシリアに尋ねた直後、背後からトントンと肩を叩かれた。

「ん?」

 マギスが首を回すと、頬にふにりと指がめり込む。

「にししし、引っかかったー」

 そこには、悪戯っぽい笑顔でトレイシーがしゃがみ込んでいた。淡褐色ヘーゼルの猫目がしてやったりと言っている。

「ッ! トレイシー……!!」

 マギスはトレイシーを軽くはたこうと腕を伸ばす。しかし、トレイシーは肩を竦めてぺろりと小さく舌を出すと、アッシュブロンドの髪を靡かせてマギスの手をスルリと避けた。

「まったく、毎度毎度、やめてもらえる?」

 マギスは言ったが、トレイシーはまったく悪びれた様子もなく「にししし。毎度毎度、騙される方が悪いんだよー」と笑いながら立ち上がると、シロマとセシリアの方へと歩いて行った。

 トレイシーが気配を消してマギスに悪戯を仕掛けるのは、いつものことだ。二人のじゃれ合う様子をクスクスと笑って見ていたセシリアとシロマが、口々に「おかえりなさい」とトレイシーへ声を掛ける。

「無事で安心しました」

「シロマってば、ホント心配性なんだから。アタシがそう簡単に敵に見つかるわけないじゃん」

「どうだった?」

「うん。ちょっと近づいてみたけど、やっぱりあの城が魔王城で間違いないと思う。邪悪な気配がぷんぷんしてる」

「その割には、この森と城の間に全然魔物が居ませんね……」


 女性たちが話しているのを聞きながら、マギスは立ち上がった。こちらに背を向けている幼馴染の方へと歩む。

 ユージーンの視線はずっと魔王城に向けられたままだ。それでも勇者はマギスが近づいてきたことを正しく察知していたらしく、マギスが「ユージーン」とその名を呼んでも特に驚いた様子を見せず、ゆっくりと振り向いた。黒い瞳がマギスを捉える。

 マギスはユージーンのすぐ隣まで来ると立ち止まった。

「そんなに睨んでても魔王城は崩落なんてしないよ」

「ああ、知ってる」

 そう応えると、ユージーンは表情一つ変えぬまま魔王城の方へと直った。


 いつからだろう。ユージーンがあまり表情を動かさなくなったのは。あまり感情を表さなくなったのは。故郷の村にいた頃──マギスとユージーンと妹と、よく三人で過ごしていた頃──は、もっと自然に、もっと喜怒哀楽を見せてくれていたのに。

 マギスは記憶を辿ってみた。そしてふと、気が付いた。

 そうだ。女神の神託を受けた後、魔王討伐の旅が始まってからだ。その頃から、ユージーンは変わっていった。少しずつ口数が減り、愛想がなくなっていった。まるで、徐々に心を閉ざしていくかのように。

 仲間として信頼されていないわけではない。でもそれは、あくまでも戦闘能力に対してであって、心までは許していない、そんな気がするのだ。

 『勇者』という責務のせいだろうか。それとも、褐色の肌に黒髪黒目という外見への差別のせいだろうか。

 ユージーンは、何を思いながら勇者として旅をしているのだろう。自分に対して負の感情を向けて来る者たちを守る、という使命を、どう受け止めているのだろう。そして、魔王を倒した先に何を見ているのだろう……。


 もう何年も、マギスはユージーンが笑っているところを見ていない。また、昔みたいに笑えるようになれるといいのに。魔王を倒したら、ユージーンに笑顔が戻るだろうか。


 マギスも魔王城へと視線を移し、口を開いた。

「もう少しだ。あの城を攻略して魔王を倒せば、女神に課されたお前の使命も終わる」

「ああ」

 ユージーンが頷いた。

 城を中心に暗雲が垂れ込め、既に太陽が昇っている時間の屋外だというのに辺りはどこか薄暗い。さっきまで見ていた悪夢の魔王城内の明るさと、どこか似ている。

 嫌なことを思い出しそうになって、マギスは両手を強く握りしめた。頭を振り、記憶を振り払う。

 空を稲妻が走り、雷鳴が轟いた。


 ふと、マギスは既視感を覚えた。

 前にも、同じことがあったような気がする。こうして、魔王城の前で、ユージーンと二人で話したような。そしてそのときに、雷が鳴ったような。

「あのさ、オレたち前にも同じ会話しなかったか?」

 マギスはユージーンへ問うた。ユージーンがゆっくりとこちらを向く。お互いに無言のまま、目が合った。その眼差しに何かを感じ取り、マギスは見つめ返す。

 後方から、女性三人が無邪気に話す声が聞こえて来た。


「ねぇ、セシリアとシロマはさ、この戦いが終わったら何したい?」

「まだ魔王城に挑んですらいないのに、もう魔王討伐後の話か?」

「だってさぁ、魔王倒す戦いなんてツラいに決まってるじゃん? アタシ、ツラいことやるとき、これが終われば報酬が待ってるって考えると超頑張れるんだもん」

「確かに、それはありますね。私もご褒美があると思うとがんばれます」

「だよね? 私はさ、王様から一生働かないで暮らせるくらいのお金を貰うつもりなんだぁ」

「そんな大金を?」

「だって、アタシたち、死と背中合わせの旅してるじゃん? それくらい貰ってもいいと思うんだよね。むしろ、爵位くれとか領地くれとか言わない分、慎ましいくらいじゃない?」

「確かに、トレイシーが領主様とかありえませんね」

「ちょっと、シロマ! それ、どういう意味よぉ」

「私もシロマと同意見だ」

「セシリアまで! まぁ確かに、アタシじゃ領地経営とか絶対ムリだし、したいとも思わないけどさ。で、二人は何するつもり?」

「そうですね……。私は、平和になった世界で、王様にお城に招かれて、たっぷりのお湯に浸かって身を清めて、いつ魔物に襲われてもいいようになんて警戒することなく、ふっかふかのお布団に包まれて心行くまで眠りたいです」

「シロマらしい!」

「そうですか? 今の生活から考えると、最高に贅沢だと思いませんか?」

「もう何年も、そんな休息取っていないな」

「確かにねー。確かにそれもいいなー。セシリアは?」

「私か? そうだな、国王陛下に近衛騎士として召し上げて貰えたら嬉しいな──」


 つい微笑みたくなってしまうような、他愛もない内容だ。だが、話を聞きながら、マギスは再び既視感を覚えた。

 この話、聞いたことがある。でも、いつ? ──上手く思い出せないくらいの以前、それでいて、ごくごく最近。

 まるで夢の中で経験した出来事のような……。

 夢……!? いや、そんなまさか。でもあまりにも、デジャヴュが過ぎる。

 隣から自分をじっと見つめている黒い双眸に気が付いた。心配気にマギスを窺っている。マギスは思わずユージーンに詰め寄った。

「ねぇ、ユージーン。前にも同じことがあったよね? ここで」

 マギスの勢いに気圧されしたのか、ユージーンの目が僅かに見開いた。しかしすぐ、その視線がマギスを離れ、地面に落ちる。

「黙ってるってことは、やっぱり同じことがあったんだよね?」

「……そんなわけ、ないだろう」

 ユージーンがマギスから離れた。やはり、こちらを見ない。マギスには、ユージーンが意図的に自分を見ようとしていないように感じた。

「嘘つくな。君と何年の付き合いだと思ってるんだよ。本当のことを教えてくれ、ユージーン」

 マギスはユージーンを見つめた。彼が真実を言う気になるまで。

 どれくらい待っただろうか。

 やがて、ユージーンが嘆息し、身体ごとマギスの方へと向き直った。ぽつりと話し始める。

「──女神から、オレが勇者の神託を受けたときのことを、覚えているか?」

「うん、覚えてるよ」

 マギスは頷いた。


 あのときのことは、今でもはっきりと覚えている。村を出てから初めて訪れた町で、教会を訪ねた時のことだ。

 昼間ではユージーンの外見が目立つので、わざわざ人のいない夜を選んで訪れた。だというのに、祭壇の上にあった薔薇窓から光が射し込み、優しくユージーンを照らしたのだ。そして、どこからともなく優しく澄んだ女性の声が聞こえてきた。

 曰く、ユージーンが女神の加護を受けた勇者であると。曰く、彼だけが魔王を倒せる存在であると。

 神秘的で不可思議な現象にたくさんの神官が集まり、狼狽え、大変な騒ぎになったのだった。


「そのとき一緒に、ある能力ギフトを授かった」

 ユージーンの話が続く。聞き慣れない単語にマギスは首を傾げた。

能力ギフト……? いったいどんな」

「『リセット』」

「リセット?」

「オレが死ぬと、過去のある時点まで時が遡る」

「な……」

 マギスは絶句した。にわかには信じ難い話だ。

 しかし、時間が遡って何度も経験しているのだと考えれば、マギスが覚えた既視感の説明はつく。ここでユージーンと話したことがあるような気がするのも、トレイシーたちが先ほど話していた会話を知っている理由も。

 マギスは、相変わらず無邪気に話しているトレイシーたちを振り返った。緑色の目を細めているセシリアが目に入り、どくんと心臓が大きく脈打った。

 『時が遡る』、ユージーンはそう言った。

 ──と言うことは。

 僕がさっきまで見ていたあの悪夢は、現実に起こったことだったと言うのか? あの血塗れのセシリアは……?

「長居した」マギスの思考を遮るように、ユージーンが言った。「そろそろ行こう」

 ユージーンが目を伏せ、未だ楽し気に話している女性たちの方へと歩み去る。


 また、雷鳴が轟いた。



   *   *   *



 魔王城に潜入して、いったいどれくらい経つのだろう。「城門にも入口の扉にも鍵や錠がない」とトレイシーが笑ったのは、もうかなり前だ。その台詞が悪夢で見たままだったことに、マギスは思わず顔をしかめた。

「何怒ってんの?」

 トレイシーに不思議そうに言われて、マギスは表情を崩した。

「いや、不用心だなと思って」

 それからずっと、ユージーンを先頭に進んでいる。しんがりはマギスだ。

 魔王城というだけあって、外観こそ『城』に見えていたが、中はややこしく入り組んだダンジョンになっていた。そのうえ、城内のあちこちに侵入者除けのトラップが仕掛けられている。その都度、トレイシーの勘やユージーンの指示で切り抜けていった。


 マギスは思う。

 ユージーンの指示は、いつも的確だ。これも、過去に同じ経験をしたからだろうか。

 マギスは歩きながら、今朝のユージーンの告白をずっと反芻していた。


 ──ある能力ギフトを授かった


 ──『リセット』……オレが死ぬと、過去のある時点まで時が遡る


 実はマギスは、この話を信じていいのかどうかわからないでいる。確かに既視感の説明はつくが、『時が遡る』などあまりにも突拍子もなさすぎて、素直に信じられないのだ。


 それでも、セシリアがしんがりを名乗り出たときに、マギスは自分がやると言って譲らなかった。少しでも、夢とは異なるところを作りたかったのだ。

 だというのに、城の中で遭遇する魔物はみな、マギスの記憶にある種族ばかりだった。今日初めて遭うはずの魔物だというのに。夢の中で見たままだ。

 今まで相手にしてきた魔物とは比べ物にならないほどに手強くとも、弱点や攻撃パターンを知っていれば最小の力で最大の結果を得ることができる。

 おかげで順調に最奥へと向かって行くことができていた。

 広いのに薄暗い廊下、じめじめとかび臭い空気。雰囲気は夢と同じだが、今歩いているのはマギスの記憶にはない廊下だ。どの道を選択するかはユージーンに委ねている。意図的に前回の記憶とは別の道を選んでいるのかもしれない。


 長い階段を登り切って扉を開けると、そこは石畳の敷き詰められた広いテラスになっていた。中庭ベイリーと言ってもいいほどの広さがある。

 遮るものなく見える空は相変わらず薄暗く、稲妻が走っていた。

 この場所への他の出入り口を探すべく、歩んでいたユージーンの足が止まる。ユージーンの背中越しにその奥を見れば、魔物の群れが行く手を阻んでいた。後ろを振り返る。そちらも魔物の群れがいて、退路を断っていた。前後だけではない。左右の空間も既に敵で埋まっていた。

 ユージーンが舌打ちする。

「囲まれたか」

 セシリアの呟きが合図だったかのように、皆で背を合わせて武器を構えた。

 魔物たちがじりじりと包囲網を狭めて来る。マギスは視線だけで全体を見渡し、眉根を寄せた。

 見覚えのあるローブを着た骸骨の魔物、小型のドラゴン、虫型の魔物、肉食獣のような四足の魔物、鳥のような有翼の魔物……。マギスたちを囲むようにして、城中の魔物がここに集まったのではないかと思うくらいに魔物の分厚い壁ができていた。

 敵の数が多すぎる。すべてを屠るのは無理だ。

「どうする?」

 マギスがユージーンに尋ねた。

「一点突破だ。トレイシーの正面、あそこだけ壁が少し薄い。それにさっき、あの方角に扉が見えた。そこへ向かう。マギス、魔法で貫通させられるか?」

 ユージーンの指示を受けて、マギスはトレイシーの方を見た。彼女の正面にいる魔物の量を目測で測る。

「最大出力で魔力を練れば、なんとか一発でいけるんじゃないかな」

「頼んだ。それまでなんとかオレたちだけで持ち堪える」

 ユージーンがマギスを庇うように立ち、マギスは仲間の輪の中に入る形になった。すぐさま目を閉じて集中し、身体を流れる魔力を練り始める。練った魔力を右の拳に集めていく。

 魔物たちの咆哮が聞こえてきた。直後から、悲鳴、雄叫び、討ち合う音、呪文を唱える声、様々な音が四方八方から聞こえて来る。それらを無視し、マギスは魔力を練り続けた。

 ユージーンたちが百戦錬磨の手練れ揃いだとはいえ、これだけの数が相手では、あまり長くは持たないはずだ。急がねばならない。

 魔力が最大出力まで溜まるや否や、マギスは叫んだ。

「トレイシー!」

 意図を察したトレイシーが頭を低くするのとほぼ同時に、マギスは練り上げた魔力を一気に放った。

 ごぉぉおおっ!! という音とともに、青い炎が一直線にマギスの突き出した右手から伸びる。炎に触れた魔物が炭になり崩れ落ちる。その通り道に沿って魔物の壁に穴が開く。

 魔物たちが怯んだ。その隙に、トレイシーが、シロマが、セシリアが、ユージーンが、マギスが、できた穴を一気に駆け抜ける。後ろから我に返ったらしい魔物の大群が追って来る気配を感じたが、振り返らずに走り続け、その先の建物にあった扉を開けた。

 中に入り、ユージーンが外から扉が開けられないよう閂を掛ける。外からガンガン扉を壊そうとしている音が聞こえて来る。幸いにも分厚い金属製の扉だ。いずれ破られるかもしれないが、時間は十分に稼げるだろう。

「マギスさん、大丈夫ですか?」

 マギスは肩で息をしつつ、覗き込んで来たシロマに「なんとか」と笑って見せた。

 大きな魔法を使った直後に全力疾走したせいで、ひどい疲労感に襲われている。それでも、ここは魔王城だ。油断はできない。

「……ここには、来たことがない」

 隣からユージーンの呟きが聞こえて来た。かなり小さな声だったから、マギス以外には聞こえていないだろう。

 マギスは汗を拭い、辺りを見回す。

 飛び込んだのは、暗い部屋だった。かなり高い位置に窓があり、そこから外の光がかろうじて射し込んで来ているのみだ。どうやら三階くらいの高さのある、広い吹き抜けの空間のようだ。

 視界の隅で何かが動いた気がして、マギスは部屋の最奥を見た。何かがいるような気がする。黒い塊が見える。しかし、窓から落ちる光の向こう側にいるせいでよく見えない。既にユージーンとセシリアも気付いているようだ。臨戦態勢でマギスが気になる方を睨み付けている。

「気をつけろ、何かいる」

 ユージーンの低い囁くような声がした。ようやく息が整ってきた。マギスは目を凝らして部屋の奥を見る。

 のそりと影が動き、光に照らされる場所へとやって来た。それは、マギスの二倍はあろうかという大男だった。

 もちろんただの大男ではない。青い肌の身体は筋骨隆々で、口からは鋭い牙、腕が四本もあり、両のこめかみには角が生えている。首にはマギスの腕ほどの太さのある獰猛そうな蛇をマフラーのように巻いていた。明らかに魔物だ。人型の。初めて遭遇する。

 そして四本のうち二本の腕が持っているアックスも身体に見合う大きさをしている。それを人型の魔物は軽々と振り回していた。あれを食らったらひとたまりもないだろう。

 魔物が回していた斧を止め、構える。マギスたちも、いつ攻撃が来てもいいように、いつでも攻撃を仕掛けられるように、それぞれの武器を構える。

 一瞬で、ピンと空気が張り詰めた。

 魔物がにぃと唇の端を持ち上げる。刹那、フッと消えた。

「え?」

「ぐっ、あぁぁああああっ!?」

 マギスの声が漏れたのとユージーンの悲鳴が聞こえてきたのは同時だった。いつの間にかユージーンのいた場所に魔物が移動していた。腕の一本に、ユージーンを抱えて。

 早過ぎる。目で追うこともできなかった。

 ユージーンが拘束から逃れようともがいている。しかし魔物はびくともしない。

 トレイシーが即座に反応し、魔物の後ろからユージーンを捕えている腕に飛び掛かった。肩の腱を狙って短剣を突き立てる。浅い。鍛え抜かれた筋肉がトレイシーの攻撃を阻んだ。魔物の斧がトレイシー目掛けて振り下ろされる。気付いたトレイシーが短剣をそのままに飛び退いた。斧が空を切る。魔物の腕の一本がトレイシーの短剣を引き抜き、手でくしゃりと握り潰した。

 マギスは魔力を練り始める。セシリアが駆け出そうとする。シロマも補助魔法を放つべく魔力を練る。トレイシーも新たな短剣を抜いた。

「おっと、動くな」

 魔物の言葉に、皆の動きが止まった。魔物が二つの手でユージーンを握る。そして斧の一本をユージーンの真上に掲げた。

「コイツを殺されたくなかったらな」

「オレに構わず逃げろ!」

 ユージーンが叫ぶ。

「うるさい」

 魔物がユージーンを捉えた手に力を籠めるのが見えた。ぼきりという嫌な音がしてユージーンが悲鳴を上げる。その手から剣が落ちた。

 ユージーンの声を聞いて、魔物がサディスティックな笑みを浮かべる。

 動いても、動かなくても、られるだけだ。やつにとっては、ユージーンが先か、僕たちが先かの違いだけ。

 マギスは唇を引き結ぶと練っていた魔力を放った。鋭い風の刃がユージーンを拘束していた二本の腕を襲う。完全には切り落とせなかったが、ユージーンを捉えている力を失わせるには十分だった。墜落しかけるユージーンの身体を跳躍したセシリアが横ざまに攫う。シロマが駆け寄り、すぐさまユージーンに治癒魔法を施し始める。マギスは二人を覆うように半球状の分厚い防御壁を展開した。

 魔物が血の流れる腕を動かしてにやりと笑う。そして憤怒に染まった瞳をマギスへと向けた。ゆっくりと、斧を振り被る。

 マギスは再び魔力を練りながらも、油断なく魔物を見据えた。そう、油断など一切していないはずだった。なのに。

 気が付いた時には、魔物がマギスの目の前にいた。やつにとって、ちょうどいい間合いの中に。

「うわぁぁああああああ!!」

 マギスは悲鳴を上げた。

 魔物がにぃと笑う。大きく引かれていた斧がマギスに向かって振り下ろされる。ごぉという空気を斬る音がする。

 死ぬ。

 あまりの恐怖にマギスは絶叫し──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る