第6話 襲来の日

 L1028休眠期34日、マイアー=ベルトランが率いたユーライア軍が本拠地に帰還する。旧ユージェ王国は現在も統一連合所属・ユージェ領として存続しているが、その軍をユージェ軍と呼んでしまえば正式名称「ユージェ統一連合軍」の通称(つまりはユージェ軍)と呼び名が被ってしまうため、ユーライア軍との俗称が付けられているのだ。


「しかしラゴス様はなぜ急にあのような命を下されたのか?」

「そもそも、あの方が政治や軍事に関心を持たれるなど……」

「負けを悟った皇国軍が手を回したのか?」

「皇国秘蔵の美術品でも手土産に持ってきたならあり得る話だな」


 など様々な憶測が飛び交い、そして大半の者はラゴスが正気を失ったに違いないと考えた。その件についてマイアーは一言も語らなかったが、誰の目から見ても完勝目前である状況で停戦命令を出されたのだ。彼の周囲は心中穏やかではないだろうと予測したが、マイアー自身はこれがフレッドの策だと気づいている。これに怒りや不満はないものの、教え子の窮余の一策を見抜けなかったことを猛省していた。


(可能性は考えていたけど、まさかそこまでのリスクを冒すとはね。そうまでして戦いを止めたい理由が、君にはあったということなのか。北の部隊は動かなかったし手出しも控えさせた。それだけでは足りぬ何かがあったということなのか?)


 かつてヘルダ村でフレッドと話した際、彼は「自分にもこの地の友人がいる」と話していた。そして、その友人を守るためならユージェと戦うことも厭わぬ……とも。かつての教え子が本気で戦いを決意すれば間違いなく面倒な相手になるため、それを避けるためにもマイアーはザイール方面からの部隊とは積極的な交戦を禁止したのである。フレッドが皇国に忠誠を誓うとも思えないが、こうまでして皇国軍の被害を減らそうというその真意は測りかねていたのだ。


「戻ったか、マイアー=ベルトラン宰相。此度の防衛指揮、お主のおかげで軍の人的被害は抑えられた。圧倒的に不利な状況で、さすがという他ないな」


 盟主の館に赴き戦勝の報告をした際、そうラゴスに声を掛けられたが特に心動かされるものではなかった。向かいにいた内政担当官筆頭のフィーリア=ダルトンは国内に深刻なダメージを与える焦土作戦には反対しており、鋭い眼光をマイアーに向けている。彼女の目は「勝つには勝ったがこれからの復興こそが大変であり、そして軍人はその苦労を味わうこともないのだから気楽でいいですね」と訴えていた。


「お褒めに授かり光栄にございます。ただ、もう少しで皇国軍本隊を完膚なきまでに叩き潰すことも叶い、それが叶えばしばらくユージェも安泰で復興にも本腰を入れられたでしょうに。彼に何を吹き込まれたかは存じ上げかねまするが、まことに惜しゅうございますな」


 言い終えると、今度はマイアーの眼光が鋭くラゴスとフィーリアに向けられる。当初はフレッドがラゴスの下を訪れ説得したのだろうと考えていたが、この場に彼女も呼ばれた時点でこの二人は共犯なのだろうということを悟ったのだ。


「盟主様のご命令とあらば、このユージェに逆らえる者はございません。しかし兵たちは連合のために命懸けで戦いましたし、苦難を耐え忍んだ民も同様であります。少なくとも彼らの納得できるお答えをいただかぬ限り、私は下々の者たちを納得させることは難しいかと考えております」


 まさか「かつての功労者が戦いを止めろと言うから止めさせた」とは言えまい。果たしてどういう理由をつけてくるのか聞かせてもらおうか。そう言いたい本音を厚いパンでくるんだかのような物言いだったが、フィーリアはもちろんラゴスにも真意は届いていた。


「そう怒らんでくれ。クロトとクラッサスが訪れてきてな、こう申すのだ。近いうちにパヴァンの災厄を越える大規模氾濫が起こると。そして、皇国軍の死者が増えれば増えるほどにその氾濫も巨大なものとなってしまう。ゆえに戦を止めよと」


 マイアーは「本当に彼が止めろと言ったから止めさせたのか」と衝撃を受けたが、すぐに思考を巡らせる。確かにこの戦いの犠牲者は統一連合発足後で初の万単位に上る甚大なものだが、かつての戦乱の時代と比べれば特別に飛び抜けたものとは言えない。そのような状況の中でも大陸南西部の大規模氾濫は50周期に一度くらいのペースでしか発生しておらず、今回の戦いがあったからといって直後にそれが起こるとは考えにくかったのだ。当然、叛乱が起こると言い切れる理由は何かと尋ねる。


「信じてもらえるかは分からぬが、おおよその未来を見通せる者がおるのだそうな。かの者の導きでクロヴィスの魂を解放できたゆえ、少なくともクラッサスやクロトは信じておるようだ」


(未来を見通せるとかいうまじない師の助言があったから、だと……誰も彼も正気でそれを言っているのか。そのような力が本当にあると?)


 さすがにそのような理由とは微塵も考えていなかったマイアーは、目が眩む思いである。彼はフレッド以上の実務派であり、不確定要素を織り込んで策なり方針を決めることは極端に嫌っている。そのようなものを計算に入れて死地に送られては兵たちもたまったものではなく、彼には部下の命を預かる責任があるのだ。しっかりとした土台を基に方針を決めねば申し訳も立たぬ……というのが彼の思想であった。


「……私は、そのような得体の知れぬ者を信じる気にはなれませぬな。ですが先の戦いの折クロト君やクラッサス様と顔を合わせた際、少なくとも正気を失っているとは思えなかったことも事実です。ゆえに信じましょう。まじない師ではなく、クロト君やクラッサス様のことを」


 奇しくも、その発言はハゼルと同じようなものとなった。今は袂を分かとうとも、マイアーにとってフレッドとハゼルは信頼のおける人物であり、その力量は誰よりも評価するところである。その二人がなんの確証もなくこれほどのことをするはずもない。それだけは断言できるのだ。


「ではその大規模氾濫に備えるべく、各地に準備を怠らぬようにと触れを出すとしましょう。それと万が一に備え、北方にも部隊を派遣します。もし大規模氾濫が起きれば、それに乗じて攻め入ろうと画策している者がおるかもしれませぬゆえ」


 ラゴスやフィーリアはそこまで考えていなかったが、その未来予知とやらを聞いていたのがフレッドとハゼルだけとは限らない。彼ら二人は縁もあるユージェに敵対する気を持ち合わせていなくとも、別の皇国人がそれを聞いていたならこれを絶好の好機と捉える可能性もあるのだ。それに備えておくのは当然のことである。


「……ところで、彼らはいまどこに?もうユーライアにはおらぬのですか?」


 せっかくの機会なので、大規模氾濫が起こる前に会えるものなら会っておこうと考えたが、マイアーの期待は外れてしまう。停戦の触れが出されると同時期に二人はこの地を後にしていた。


「ご両名はすでに旅立たれましたわ。予知によるとユージェ全土で氾濫が発生するとのことですが、おそらく前触れは黄泉の回廊から訪れるであろうと……」


 黄泉の回廊とは大陸南西部がまだ未開の部族のみが暮らす地であった頃の、死者を安置するための巨大洞穴である。遺体を丁重に弔うというのは未開の部族であっても魂に刻まれた本能的な欲求だったが、いかんせん方法や手段を知らなかった頃の人々は遺体を地の底に安置するという形で弔った。その行為は数百周期にも及び、数々の遺体で埋め尽くされた洞穴はいつしか黄泉の回廊と名付けられたのだ。方法は未熟であっても誠心誠意が尽くされた弔いに死者が「天敵」となるケースは極めて稀だったものの、現在では過去に葬られた高貴な人物の副葬品を狙う賊なども出没し、それが原因で怒り狂った死者が「天敵」となって蘇ることもあるという混沌空間と化しているのだ。


「あの地もまた、ユージェの為政者が解決しなければならぬ問題の一つですな。あの迷惑千万なアリーハはクロト君に手を汚させてしまいましたが……」


 黄泉の回廊は入り口付近の遺体こそ浄化が完了しているものの、奥に行くほど時代は遡り洞窟内に住み着いた多種に渡る障害のため危険度が増すこともあり、深部については手付かずと言ってよい状態になっている。それらをすべて清算すれば盗掘者なども減り安泰ということは分かっているが、喫緊の課題というには直接の被害を受ける者が少なく後回しにされてきた問題であった。


「この氾濫を乗り越えたら、いかようにもできようぞ。だがとにかく生き残らねば話にならぬゆえな。パヴァンの際は13部族が滅んだと記憶しておるが、あれ以上の規模となるとどれほどの被害が出るのか……」


 可能な限り善処いたします。そう告げてマイアーは盟主の館を後にした。実際に起こるかどうかも分からぬ問題にそうまで神経質にならんでも……というのが本音の部分ではあるが、その可能性を示唆されておきながらむざむざ後手に回るのも面白くはない。そのあたりはフレッドの師匠と呼べる共通点と言える。


「連合所属の各領主に至急の通達を出す。各領主は大規模氾濫に備えよ、だけでも十分か。それだけで各地それぞれに対処してくれるだろうが、中には信じずに動かない者もいるかもしれない。ゆえに「準備を怠った地には援軍派遣も見送るものと覚悟せよ」との一文を付け加えよう。危険に備えない者を助ける義理はないゆえ……」


 その通達は連合所属の各勢力・各氏族はもちろん小部族までにも伝えられ、大半の者は指示に従った。方法に多少の問題があったとしてもマイアーが皇国軍を撃退したことは事実であり、今のユージェにいる首脳部では彼のみがそれを成し得たであろう点は疑いようもなかった。英雄の師匠もまた英雄だった……などの呼び声すら聞こえてくるのだ。もっとも、それはマイアー自身が望むところではなかったが。


(前回は人心を……特に小物の心を理解できていなかったから失脚した。そんなものは連合の未来を考えるのに不要と思っていたが、そうではなかったのが現実だ。ゆえに今回はこうして民衆が望む英雄とやらの道化を演じてやったわけさ。しかし、本当に下らないな。君が逃げたくなるのもよく分かる……)


 前回にフォーナーの策で失脚した際は、マイアーのことを「裏切者の師匠」という悪評を振り撒かれ民衆の支持を失ったことが転機だった。マイアー自身も「連合とその大義のために滅私奉公するのは公人の務めである」との思想の下、他者に迎合することのない孤高の存在であり続けた結果いわゆる下種に足を引っ張られたが、同じ過ちを犯すつもりはない。そのためには、かつての教え子と同じような圧倒的にして印象的な働きを見せる必要があったのだ。


「道化を演じてまで、国に少なからぬ被害を出してまで手に入れた現状だ。そう簡単に奪われてはたまらないな」


 そう独白すると、マイアーは執務室に向かう。連合軍の行動計画や補給計画策定の雑務が彼を待ち構えており、それはユージェ統一連合が皇国と真に渡り合える日が来るまで終わることはない。彼の優秀な弟子がいれば負担は軽減できたかもしれないが、今はそれを望むことはできない以上そのすべてを自分で行うしかないのである。



10・豪商が集う街


 L1028休眠期37日、フレッドらは隊を率い大陸南西部の南方に位置するリンド地方にやってきていた。リンドは南西部各地から流れ込む川が収束する地であり、かつてはその川を利用して各地から遺体が運ばれていたが、現在その風習はなくなり船を利用した交易拠点として栄えている。そのためこの地方最大の都市・マハトゥは豪商も多く暮らす華やかさがある一方で、マハトゥにほど近い黄泉の回廊の盗掘に一獲千金を夢見るならず者や、冒険者の類も大量に集まる特異な街となっていた。


『ここに来たのは初めてですが、すごい活気ですね。規模こそシルヴァレートには及びませんが、勢いのようなものはこちらが上でしょう』


 かつてのユージェ王国が大陸制覇に乗り出した際、リンド地方はその自由を保障する代わりにいち早くユージェの軍門に下り、それ以降は資金や物資面でユージェ王国の統一事業に多大な貢献をした。だが軍務を預かるフレッドにとって後方支援をつつがなく行ってもらえるならそれだけでよく、この地には訪れたことがなかった。そのような仕事は、ダルトン家に任せておけばよかったからだ。


「かつては各地から集まる死者を弔い、今は各地との交易で栄える……か。ユージェ王国が統一に乗り出していなかったら、この地こそが大陸南西部の覇者となり得ていたかも知れぬのう」


 ハゼルはそう感想を漏らすが、実際のところその可能性はなかった。確かに経済基盤こそ盤石だが、この地には致命的な問題がある。それは黄泉の回廊の存在により、他の地方にも増して「天敵」の発生率が高いのだ。数十周期おきに起こる大規模氾濫では毎回とてつもなく甚大な被害を被り、その再生のために住民が奮起し街が潤う。そうした破壊と再生が繰り返されるサイクルがあることにより、発展し尽し緩やかにでも衰退することとは無縁……というのは運命の皮肉である。


『ここは商会の集まりで政治が成り立つ都市国家でしたね。ラゴス様の紹介状によりますと、宛名はリンドのニャラハーティとなっておりますが……この名、そしてあのラゴス様の知己ということは人猫族でしょうか?』


 商才に人も亜人もなく、そしてここリンドは商才ある者こそが上に立つ。紹介されたニャラハーティはリンドでも有数の豪商であり、政治にも関与しているということだったが、それだけの人物であれば間違いなく切れ者である。交渉相手としても手強いことは間違いないのだろう。


「どうだろうかのぅ。彼らも多くは裏稼業から足を洗ったと聞くし、あるいは商売で一山当てた者がおってもおかしくはないのだろうが……知った名ではないな」


 この地方は旧ユージェ王国と戦うことはなかったため、当然ユージェの武つまりはハイディンの脅威と無縁である。もちろん素顔を晒せば気付く者はあるだろうが、頭を覆う装いをつけての会話で彼らと気づくほど知覚力に優れた者もそうはいない。ゆえに親子はユーライアにいた時よりも自然体で街を進んでいた。


『ニャラハーティ殿の屋敷はここ……のようですな。まるで軍の駐屯地かと錯覚するほどの大きさですが、裕福になるとこういうものなんでしょうか。我らのご先祖にそういった趣向がなくて助かりましたよ。これでは掃除するのも数日は掛かりますし』


 ニャラハーティの邸宅は広大な敷地に巨大な2階建ての建造物を本邸とし、使用人や従業員などの宿舎を兼ねる別邸や倉庫などが立ち並ぶ、田舎の村ほどの規模があるものであった。入り口の門には警備の者も立たされており、まさしく一軍の駐屯地と呼ぶにふさわしい様相を呈している。フレッドらは静止を呼びかける衛兵の指示に従い、彼らに紹介状を渡す。


「さて、一廉の人物が出てくることは間違いないとして……問題は話が通じる者かそうでないかというところだのぅ。ワシらの懐もかなり寂しくなってきておるし、裕福な者からはある程度の援助を受けねばな」


 ザイールを出てから100日以上が経過し、道中で費やした物資や隊員の給金などで部隊の資金もかなり目減りしており、このあたりで援助を受けておきたいというのが本音のところである。ラゴスやフィーリアは統一連合から資金や物資を提供すると申し出てくれたが、フレッドは「すでにユージェの所属ではない身でそれはできない」と断りを入れたのだ。その代わりとして資金を出せそうな人物を紹介してもらいたいと要請し、それが縁でこうしてリンドに赴いた。もっとも、この地に黄泉の回廊が存在する以上ここを訪れることは必然だったが。


『ザイールからヘイパーへの荷運びで結構な稼ぎもあったんですが、もうすっかり失われてしまいましたね。軍にいた頃は軍資金を用意するのは別の誰かに任せっきりでしたが、いざこうしてやってみるとなかなか大変なものです。ダルトンの一族はこうして陰ながら働いてきたのに、表舞台で目立つのはハイディンやベルトランばかりというのでは……恨まれても仕方ないのかという気すらしてきますよ』


 戦続きの世だった大陸南西部において、安定的な資金の供給源を確保することは実に難問である。旧ユージェ王国は豊かにして安全な領土を軸に、難攻不落の首都ユーライアを本拠としたことでそれを成したが、その裏には内政担当部署のそれこそ血のにじむような努力があったのだ。当時のフレッドはごく自然に資金が供給されるものと考えていたが、いまならそうではなかったことを理解できる。


「まあそう言うな。やろうと思えば出来るからといって我らがその仕事までこなしてしまった結果が、フォーナー殿の怨嗟を買ってしまった理由の一端ということなのだろうて。要らぬ手間をかけぬようにと気を利かせたつもりが、他者を傷つけてしまうとは皮肉なものよ」


 ユージェが統一に向け動き出したのち、当然ながら各部署は急激に忙しくなり勢力が拡大するごとに肥大化していった。ウルス氏族を降伏させた後は拡大の速度も上がり続け、ユージェ首脳部は混乱状態に近い有様となる。そこでユージェ王ラゴスは敵地侵攻を担当するハイディンに全権代理の肩書を与え、現地で問題を処理させ王国内の負担軽減化を模索した。実を言えば煩わしい政治の話を王宮の外で終わらせてくれればありがたい……というところが出発点ではあったが、多忙を極める臣下たちが困り果てているのを見るに忍びなかったのも事実である。ほぼ敵なしのハイディンは戦争になるケースが目に見えて減り、やや暇を持て余し気味だったことも仕事を任されてしまった理由なのだが、少なくともフォーナー=ダルトンはそう考えなかった。


『今であれば、すべてを任せてしまいたいくらいですけれどね。まったく人の運命の巡り合わせというのは……お、どうやら通しては貰えそうですなあ』


 敷地内から案内の者が現れると、主人ニャラハーティがお会いすると告げる。側近なり執事なりの、ニャラハーティに近いと思われるその者が人猫族で会った時点で、主人もそうなのだろうという予測を立てることができた。


「わたくしがここの主を務めます、ニャラハーティにございます。ラゴス様よりの文に書かれておりましたので、敢えてお名前ではお呼びいたしますまい。して旅の御仁は私どもに援助をと願われておられるようですが、その理由については直に確認せよとなっておりまして……」


 執務室に通された二人に丁重な挨拶をした人猫族は、人猫族の中でも数が少ないという人寄りの女獣人であった。彼らの多くは全身が体毛に覆われ「猫的動物が人のような生活を営む獣人」という立ち位置だが、希少種たる者は「人をベースに猫的要素が入った獣人」となる。これはどちらの生物の因子が強かったかによって変化するとされ、ファロール族など別の獣人でも起こり得る現象であり、人と同等の知性や感性を持つため人間社会で大成する者も多かったのだ。


『急に押しかけたにもかかわらず丁寧なご挨拶、痛み入ります。本日こうして御前に参上いたしましたのは、近々に発生するであろう大規模氾濫に備えるよう警告に参りましたのと、ついでに我らを防衛部隊の一員として雇用していただければと考えたからであります』


 大成した商売人にただ金をくれといってもそう簡単には出さないだろう。仮に出すとしても別に面倒な条件を付けられるかもしれず、裏取引の材料にされる可能性も捨てきれない。ならばいっそ、自分たちの武力を買ってもらうほうが後腐れもないという結論に至ったのである。


「大規模氾濫とは、穏やかではありませんねぇ。しかし前回のパヴァンが起こったのは20周期ほど前で、それ以前は50周期ごとに起こるものと聞いております。近々に起こるというのは、少々おかしいのではないですか?」


 確かに大規模氾濫が起こるなら兵力はいくらでも欲しい。それがユージェでは伝説となった者たちであるなら、大金を積んででも雇い入れたいくらいであるし金で済むなら安い話であるとすら思える。しかし大規模氾濫が起こるという前提条件が彼女には怪しいと思えるし、そのような与太話を二つ返事で受けるほど浅慮でもない。


『貴方の意見はごもっともです。であれば……私どもはしばらくこの地に留まりますので、我らを雇う必要が出てきた際はご再考いただくというのではいかがですか?』


 ラゴスやフィーリアも、知った仲でなければ信じようとはしなかった話である。初対面のニャラハーティに「ある方の予知を信じろ」と言ったところでムダな努力ということは目に見えていたので、フレッドはあえて自分たちを押し売りはしなかった。そしてあっさりと引かれれば貴重品を手放した気になるのが、大なり小なりといえども商売人というものである。そのあたりのことはヘルダ村で十分に学んでいた。


「……それでは、差し当たって20日ほどの逗留費はこちらで負担いたしましょう。大規模氾濫が近々に起こり得るというお話が事実であれば、その程度の時間があれば答えも出ますでしょうし。そしていざ事が起こったなら、まずは当商会と雇用契約の協議をしていただきたく存じます。それが当方の条件ですわ」


(なるほど。それくらいの金なら痛い出費でもなく、我々が他の商会に話を持って行くことも阻止できるわけだ。しかも実際に問題が起こった際には、少しでも確保しておきたい戦力が即座に手に入る。そしてあらかじめ備えていたということで先見の明があるという評判を得ることができ、統治を担う資格ありと示すことも可能と……)


 フレッドはニャラハーティの抜け目ない考えを完全に見抜いたが、結局のところその申し出は受けるしかないと思った。プラテーナの予知を疑うことはなかったものの、なにぶん大規模氾濫がいつ起こるかは不透明であり、20日分と限られてはいても駐留費が浮くのは非常に助かる話だったからだ。しかし条件をそのまま受け入れてはあちらに主導権を握られるため、どのように条件へ注文を付けるか考え出したところにもう一人の人物が声を上げる。


「まあよいのではないか、その条件で。20年前の戦いを経験していない者たちに戦う術を教える時間としてはちょうどよかろう。もしそちらの軍事担当者も話を聞きたいと申すなら、遠慮なく我らの下に寄こされよ。費用負担なしで構わぬでな」


 要らぬ腹の探り合いはもうよいわ……という体でハゼルが言い放つと、残る二人は顔を見合わせその意に従った。実際問題として怪異が目前に迫っており、場合によっては街や連合すら滅ぶかもしれないというのに、もう後々のことについての算段を始めるのか。今すべきは迫りくる「天敵」に勝利し生き残るためにどうすべきかであろうに、お主らと来たら……と、ハゼルの言わんとしたことを二人は理解できたのだ。


「これは、とんだご無礼をいたしたものですわ。本来であれば連合や盟主様の勅命で戦時徴用されてもおかしくはないと申しますのに、つい普段の商談と同じように考えてしまいまして。それではご厚意に甘えまして、わたくしどもの兵も訓練していただきますようお願い申し上げ、代わりに駐留費用はすべてこちらで負担いたします。リンドにおられる限りにおきましては、日限を切らず」


 ユージェに知らぬ者なき闘神にして、人猫族にとっても一族の進むべき道を変えた男は、表の世界で成功した人猫族には恩人同様でもある。彼が人猫族を表舞台に引きずり出さなかったら未だに裏稼業で生きていたことだろうし、そうであれば統一連合発足後は裏稼業の需要も減り悪事に走るしかなかったであろうから。


「フレッドもそれでよいな?では腹ごしらえをした後さっそく始めるぞ。明日にも連中が出てくるかもしれぬのだから、時間は金より貴重だろうて!」


 こうしてリンドにおける融資の話は一応の決着を見、大量の融資を得ることは叶わないまでも駐留費用の負担はなくなった。独立兵団「華心剛胆」はニャラハーティ商会所属の傭兵団扱いとしてリンドに駐留し、戦いの機会を待つこととなる。だが戦端が開かれるのは黄泉の回廊があるここリンドである……という予測は見事に外れてしまう結果となってしまうのだ。


 L1028休眠期45日、到着以降は訓練の日々を送っていたフレッドがニャラハーティらリンドの為政者たちに呼び出されたのは昼下がりの頃だった。


「ユーライアより火急の報せです。統一連合東部ミルーにて、大規模氾濫の予兆を確認したとのこと。どうやら皇国軍の戦死者が苗床になっている模様!」


 知的生命の死者は敵味方を問わず丁重に葬る……それが決まりなのだが、追撃に明け暮れた一部のユージェ軍がそれを怠ったらしい。使者の報告を受けた時点でフレッドはそう予想でき、そしてそれは正しかった。


『あちらはあちらで手を打つでしょう。こちらも黄泉の回廊からあふれ出る「天敵」に備えます。戦いの日は近いと、総員に伝えてください』


 ユーライアからの使者は「首都防衛のために資金と兵を寄こせ」というものだったが、フレッドにはこれがマイアーの指示ではないことはすぐに分かる。大方、どこぞの領主が事前に出された警告を無視した結果、戦力が整わないうちに襲撃を受け泣きついたのだろう。しかし助けてやりたいのは山々だが、リンドが陥落すれば街の規模を考えても「天敵」の一大産地となってしまう。何と言われようとここを離れるわけにはいかないのだ。


(すべてを救うことなど不可能で、この手から零れ落ちるものは必ず出てくる。そのことを知らぬわけではないが、別の立場であればもっとうまくやれたのかという気はする。いや、それは傲慢というものか。あのままだったらこの氾濫だって知ることはなかったのかもしれない……)


 ユージェを捨てず残り続けていたらどう対処できたか。多くの不便を抱える現状ではついそう考えてしまうが、意味のない仮定だとすぐに頭から追い出した。それを考えたところで過去には戻れず、現在が書き換わることもない。そして未来は今の自分たちで描いていくしかないのだ。


 そしてL1028休眠期48日、黄泉の回廊へ探索に向かった冒険者の一団が急ぎ引き返してくる。回廊の奥地は「天敵」で溢れ返っているという報告とともに。


『各員に通達、まず回廊入口にて連中を退ける。だが追撃は無用だ。絶対に回廊内への立ち入りはさせるなと、リンドの隊にも伝えるように。敵の総数は不明で、確認のしようもない。ならば狭い回廊入口で戦う以外の選択肢はないのだ。よいな!』


 すべての隊がフレッドの指揮下にあればこの命令は徹底されただろうが、今回に関してはリンドの隊は独自判断で動くこととなる。それが結果的には大きな悲劇をもたらすこととなるが、いずれにしてもリンドでの戦いはもう目前にまで迫っていた。

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