第2話

「お先に失礼します」

 午後六時半過ぎ、近藤翔太こんどうしょうたは会社を出て帰宅の途についた。外はまだ明るく、家路を急ぐサラリーマンの姿が目立っていた。近藤も駅の方角へ向かって真っ直ぐ歩いていた。

 大学を卒業後、中堅IT企業に就職してから3年が経っていた。同業者から「ホワイト企業」と羨ましがられるほどの会社であったため、給料は満足のいくレベルで、残業も少なかった。しかし近藤が何よりも気に入っていたのは、人間関係の煩わしさがないことだった。終業後に飲みに行くことを強制されることもなく、職場では最低限のコミュニケーションしか必要とされなかった。

 帰りの電車の中、片手には吊り革、片手にはスマートフォンを手にしていた。いつも見ているサイトを巡回した後、メッセージアプリを立ち上げた。降車駅に着くまでの間、ネット上の友人と取り留めのない会話を楽しんでいた。


「ターゲットはこの青年です」

 サンデーマーケティングの会議室の中で、出間弘でまひろむは若者の顔写真が表示されたモニターを山本義之やまもとよしゆきに見せていた。画面には若者の名前や住所、職業と思われる表示が出ている。

「近藤翔太……」

「事前調査の結果、この青年は我々のターゲットにピッタリでした。きっと核シェルターを購入してくれますよ」

「この青年が?」山本は半信半疑の表情で出間を見た。

「はい。大都市で働く孤独な若者、彼はこの言葉がそのまま当てはまる人間です」

「で、どうするんだ?」

「まずは彼の所有するデバイス――パソコンやスマートフォンを全てハッキングします。次に我々が開発したシステムを用い、彼が利用しているWebサイト、アプリを解析します。そして、彼がWebサイトやアプリを利用しようとすると我々が制作した偽のサイト――もちろん外見だけでなく中身も本物と全く区別がつかないほど精巧に作ってありますが、それに接続するようプログラムを書き換えます」

 出間は近藤という青年が普段利用しているWebサイトやアプリを表示しながら説明した。実演するとは言っていたものの、準備は事前に済ませているようだった。

「ちょっと待ってくれ」山本は表示されているアプリの一つを指して言った。「このメッセージアプリはいったいどうするんだ? 会話の相手まででっち上げることはできないだろ。誰かが友人を装っても絶対にバレるぞ?」

「よいところに気が付きました」出間は待っていましたとばかりに言った。「今までの会話の履歴から学習して、まるで本人であるかのように会話をするAIを作ります。もちろん自動で作り上げますので大した手間ではありませんが」

「そんなことまで……」

「あとは、彼が利用する偽のニュースサイト、偽の掲示板に核戦争が起きるという情報を埋め込みます。そしてネット上の偽友達は皆、核戦争の恐怖を煽ります。情報リテラシーの高い若者は一つの情報源では信用しませんが、複数の情報源で同じ情報が発信されていればさすがに信じてしまうでしょう」

「しかし……いくらネットで嘘を広めても、彼は普通のサラリーマンみたいだし、職場とかで普通に会話すれば分かっちゃうんじゃ……」

「今の若者は職場で世間話などしませんよ。それに新聞もテレビも見ません」

 山本はまだ信じられず、不安げな表情を浮かべている。

「もちろん、全ての若者がそうではないので失敗することもあります。しかし、私の経験からすると、この若者には成功するでしょう。まあ、物は試しです。しばらく様子を見てみましょう」

「根本的なことを質問してもいいかな?」

「何でしょう?」

「どうしてこんなまどろっこしいことをするんだ? ハッキングできる技術があるんなら、パソコンを遠隔操作するかして無理やり商品を買わせるってこともできるんじゃ……」

「そんなことをしたらターゲットに『騙された』と思われてしまいます。我々の手法のよいところは、最初から最後までターゲットに『騙された』と思われないことです。核シェルターを購入してもらったら、核戦争は回避されたという偽ニュースを流すアフターケアをしておけばよいでしょう。購入したことは後悔するかもしれませんが、騙されたというダメージに比べれば微々たるものです」

「はあ……」

「最終的にみんなハッピー。これこそ我々の目指す理想的なマーケティングです」

 山本はまだ疑いの目で出間を見ていたが、結果が出るのを待つことにした。


 近藤翔太は信じられないニュースを目にした。

 核戦争の危機が間近まで迫り、もはや回避不可能だというのだ。そんな馬鹿なことがあるだろうか。つい最近、米朝首脳会談が行われて北朝鮮が核放棄を約束したばかりだ。

 しかしこれは近藤がいつも見ているニュースサイトで報じられていることである。どうやら米国大統領の傲慢な態度が気に食わなかった北朝鮮のトップが、合意を反故にして戦争を決意したらしい。そして北朝鮮が攻撃目標としているのがなぜか近藤の住む東京都心であるとのことだった。

 掲示板もこの話題一色であった。戦争回避の方法を真剣に議論するスレッド、日本も核を持つべきかを議論するスレッド、北朝鮮トップの悪口を垂れ流すスレッドなどが乱立していた。

 その中に気になるスレッドがあった。「核シェルター Part39」というスレッドだ。そういえば先程からブラウザには核シェルターの広告が繰り返し表示されている。

「核シェルターか……」

 よく考えてみれば、核戦争なんて近藤個人にはどうすることもできないことだ。自分にできることは自分の身を守ることだけで、そのためには核シェルターは有効なのかもしれない。そう思いながらスレッドを覗いてみた。

 そこには組み立て式の核シェルターを100万円前後で購入したという報告が多数書き込まれていた。コンクリートで囲まれた豪華な地下室を想像し、自分には手の届かないものだと考えていた近藤には衝撃だった。

「これなら買えるかもしれない――しかし、ちょっと高いかな……」

 そのとき、メッセージアプリに友人からの連絡が来た。オンラインゲームで知り合った友人だった。『戦争が始まるみたいだね』と書いてある。

『核が東京に落ちるらしいね』近藤は返信した。

『そうみたいだね……』

『核シェルターとかあればいいんだけど』

『俺、もう買ったよ』

『本当? どういうやつ?』

『組み立て式の。120万で買えた』

『ああ、広告で出ているやつね』

『そう。数量限定らしいから、買うんなら早くしたほうがいいんじゃない?』

 もう核戦争が起こることは疑いようがなかった。世界中の人間がそう言っている。

 近藤は核シェルターの購入ページを開いていた。120万円で命が守れるんなら安い買い物だと自分に念押しし、購入ボタンを押した。


 翌朝、近藤はいつものように出勤した。

 東京都心に核を落とされるかもしれないというのに、街の人の表情はいつもと変わらない。職場でも皆、淡々と仕事をこなしており、誰も核戦争のことを話題にしない。

 どういうことなのか……皆、核シェルターを購入したのか、それとも諦めているのか……。

 こいつら、きっと本当に戦争が起こるとは思っていないんだろう。核シェルターが低価格で買えるってことも知らないに違いない――。

 近藤がこう思うのには理由があった。インターネットが登場して以来、インターネットを自在に使いこなす人と使いこなせない人との間に情報格差が生じているという事実があった。インターネットのヘビーユーザーが当然知っているような情報を、インターネットに疎い人が全く知らないというようなこともあり、前者が後者を情弱――情報弱者と呼んで嘲ることがままあった。

 何も知らない愚民どもめ――。

 近藤も「情弱」を見下すインターネットヘビーユーザー側の一人であった。近藤の中では戦争の恐怖感よりも優越感のほうが日に日に強くなっていった。


 山本義之は驚きのあまり言葉を失っていた。

 出間弘が満面の笑みで山本を見つめている。

「ご覧ください。私の言ったとおりでしょう」

「――いや、恐れ入りました。まさか本当に購入してもらえるなんて」

「今どきの若者なんてこんなもんです。インターネットの中の世界が全てだと思いこむ――インターネットそのものを嘘で塗り替えてしまえば、これほど騙しやすいものはありません」出間は目を細めて言った。「いかがでしょう? 契約していただけますか?」

「料金はどうなっているんですか?」

「ターゲット1人につき1万円です。高いと思われるかもしれませんが、ターゲットごとに異なる環境を用意しなければならないことを考えるとむしろ安いと言えるでしょう。御社の商品の場合、成功率は3割前後と予想しています」

 頭の中で計算し終えると、山本は畏まった声で言った。

「ぜひ、お願いします」


 山本の会社の核シェルターは飛ぶように売れた。購入者はほとんどが都市部に住む一人暮らしの若者で、中には1000万円以上するタイプの核シェルターを購入する者もいた。

 山本の会社は業績回復どころか急成長を遂げ、都心の高層ビルにオフィスを移転して幸福の絶頂を味わっていた。

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