【1】七つの丘の街/シティリャ、残影(1)

 アンフィッサは、正面から青年と対峙した。青年は気障な仕種で剣を構え直す。朱唇に浮かぶのは、静かな笑み。よほど自信があるのだろう。彼は切っ先を軽く動かし、彼女を挑発した。

「どこからでもかかってこい。ルクレティウスの小姓が」

 揶揄の言葉に、アンフィッサは眉をひそめた。彼の台詞には悪意がこもっている。アンフィッサに対して。彼女の背後に見えるであろう、ブリタニクスに対して。

 彼女は挑発に乗ることなく、ゆったりと足を運んだ。青年もそれに合わせて体の向きを変える。二人の剣先が触れ合い、冷ややかな音を立てた。

 重ねて金属音がもう一つ。二人の刃を震わせた。

「……!」

 アンフィッサも青年も、ハッと動きを止める。見れば、植え込みの中で小刀が陽光を受けて光っていた。

「私闘か? そこまでにしておけ」

 太い声が響いた。アンフィッサはその人物を見て、目を見張る。白い短衣に青の斜め線。裾にも青い縁取りがなされ、羽織っている上衣も同じく深い青だった。七官の正装。それを纏ったリウィアヌスが、列柱の影から、滑り出す。

「これは、リウィアヌス殿」

 青年は苦笑を浮かべる。傍らで、彼の義姉が目を細めた。

「庭園内で決闘とは、無粋な真似をするものだな。優雅さが信条の御身には、似つかわしくないと思うが」

 リウィアヌスは冗談混じりに言い、こちらに近づいてきた。アンフィッサの剣を手に取り、それを鞘に押し込む。青年の剣にも指先で触れて、軽く押し戻した。青年は口元のみの笑みをリウィアヌスに向ける。あなたが仰るのなら、と皮肉めいた言葉とともに剣を収めた。汚れてもいない服を払い、髪を整える。彼は長髪を肩越しに背中に押しやり、澄んだ緑の瞳でアンフィッサを見下ろした。

「命拾いしたな」

 青年はくるりと背を向ける。そのまま、足早に歩み去った。後ろ姿を見送って、残された彼の義姉は優雅に膝を折る。

「では。今宵の宴の折りに」

 婉然と微笑み、彼女もまた義弟の後を追った。甘い残り香が、まったりとした午後の空間を包み込む。アンフィッサは、小さくくしゃみをした。その頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら、リウィアヌスはいたずらっぽい目で彼女を見る。

「さすが、ブリタニクスの義弟だな。出仕初日から決闘か」

「向こうが仕掛けてきたんだ。俺は別に」

「いいってことよ。ちょっと見ていたが、なかなかだな。あのセルウィウス相手に片手で立ち回るなんざ、素人技じゃ出来ないぞ」

 誉められているのだろうか。それともからかわれているのだろうか。子供のようなリウィアヌスの目からは、何も読みとることはできない。

 アンフィッサは己の髪を乱す手をどけて、あたりに散らばった平板を拾い集めた。乱暴に放り出したので、角のあたりがつぶれている。ひどいものは、中央の板の部分が割れていて、使いものになりそうもない。彼女は溜息をついた。セルウィウス、という鼻持ちならない青年が去った方向を見やり、鋭く舌を打つ。

(全く。俺になんの恨みが)

 ムッとした表情のまま平板を持って立ち上がる。リウィアヌスは腕を組んだまま、彼女の一連の行動を眺めていたのだが。

「今居た女。あれがブリタニクスを狙っているんだ」

 ぽつりと呟く。「おまえは運がいい。下手をすると」

 言いかけて、彼は口をつぐんだ。アンフィッサは怪訝に思って首を傾げる。リウィアヌスはかぶりを振った。腕を解き、歩き出す。

「あれはエッピア。国王の愛人だ」

 エッピア――ルオマ名である。アイオリア系のルオマ人、か。

 そのこと以外、彼女の素性を知るものはいない。リウィアヌスが手短に語った。以前、シティリャにいたとか、エスパニャにいたとか、そういった不確定な情報だけが彼女を取り巻いている。彼女が宮廷に現れたのは二年前。近衛の長官の夫人としてであった。

「その長官が、セルウィウスの兄貴だ」

 そして、セルウィウスは。現在警備部の副長官を任されている。若いのに大した出世だと、ブリタニクスやリウィアヌス同様、古参の連中には快く思われていない。

「でも、ブリタニクス以上に文句は言えない」

 執務室に続く列柱廊を歩きながら、リウィアヌスは呟く。

「セルウィウスは、国王の子供だから」

 国王が解放奴隷に産ませた子供。それがセルウィウスだった。彼の母・解放奴隷のシリアが彼を懐妊しているとき、国王はシリアを前・近衛長官に下げ渡した。そののちにセルウィウスは生まれ、表向きは前・近衛長官の次男となっている。が、生まれから逆算すると、セルウィウスは確実に国王の子であった。国王はとりあえず認知をしたものの、セルウィウスは母の身分に従い、公ではブリタニクスよりも下の地位に甘んじている。それが彼には我慢ならないらしい。継承権も第一位はブリタニクスにある。セルウィウスは彼が死亡しない限り、国王の座に就くことはない。

「それで、代わりにあのおばさんがブリタニクスを狙っているわけか」

「おばさんて。まだ、エッピア殿は二十六だ」

 リウィアヌスは苦笑する。

「ブリタニクスは、こういう話はしたがらないだろう?」

「うん。どっちかってえと嫌がってるし」

「あいつは政争にはとんと興味がないらしい。いつも遠くを見つめている」

「遠く?」

「ああ、これはドルシラの受け売りだけどな」

 リウィアヌスは頭を掻いた。

 やがて二人は、中庭にさしかかる。リウィアヌスはまた、ぽんぽんと軽くアンフィッサの頭を叩いた。

「じゃ、またあとでな。宴ではたっぷり食おうぜ」

「リウィアヌスも出るのか?」

「もちろん。あと、セルウィウスやらエッピア殿もな。他にも国王夫妻やら色々面白いヤツらに会えるぜ」

 彼は悪戯っぽく緑瞳を煌めかせる。



 ブリタニクスの執務室の戻ったアンフィッサは、そこに見知らぬ顔を認めて立ち止まった。執務室の入口。その鎧戸に長身を預けている男がいる。七将の衣装を纏い、口元に髭を蓄えた渋い面構えの中年男性である。彼は男が女にするように、気障な仕種で中にいる人物に手を差し伸べていた。

(って、中にいるのはブリタニクスだけだったけど?)

 奇異に思いながら、彼女は部屋に近づいた。と、気配に気づいた男性がこちらを振り返る。精悍な双眸が正面からアンフィッサを射た。その眼差しに、思わず鳥肌が立つ。強いて言えばその瞳は、嫉妬に狂う女のそれだったのである。

「ぬしが、ユリウスか」

 つかつかと男が歩み寄ってきた。アンフィッサはイヤな予感を覚えながら彼を見上げる。案の定、男は手を伸ばし、彼女の顎を掴んだ。それを強引に持ち上げ、青い瞳をしげしげとのぞき込む。

「このような子供に籠絡されおって」

 憎々しげに舌を打つ。段々とイヤな気配が濃くなってきた。アンフィッサは不機嫌な顔を隠そうともせず、男を睨み付ける。

「だから、あんたはなんなんだよ」

 不躾な問いに、男は視線を揺らした。アンフィッサの顎から手を離し、冷ややかに彼女と背後の部屋に居るであろうブリタニクスを見比べる。

「泥棒猫がいけしゃあしゃあと。口だけは達者のようだな。私はタウリルト。ルクレティウスの求婚者だ」

 至極まじめな顔で男は言いきった。アンフィッサは呆気にとられて彼を見つめる。ブリタニクスは、女性ではない。れっきとした男性である。その彼に男性が求婚するなど、ルオマでは当たり前のことなのだろうか。戒律の厳しいスファルティアでは、考えられないことである。と、いうことは。ブリタニクスは男色家なのか。だから、アンフィッサの体にも興味を示さずに、平気で毎晩床をともにしていられるのか。

(それはそれで、なんだかな)

 ブリタニクスを見る目が変わりそうだ。アンフィッサは、目の前の男を含めて、ブリタニクスにも軽蔑の眼差しを向けた。そこに。

「タウリルト。誤解を生むような発言はやめてくれないか」

 頭痛でもするのか。額を指で押さえたブリタニクスが、中から顔を覗かせた。彼はアンフィッサの腕を掴むと、有無を言わせず中に引きずり込む。後を追ってこようとするタウリルトを強引に押しのけて、彼は力任せに鎧戸を閉めた。どんどん、と表から扉を叩く音がする。それをブリタニクスはあっさり無視した。

 漸く我に返ったアンフィッサは、ブリタニクスに抱きかかえられる格好で固まっていることに気づき、慌ててその胸を押しのけようとした。が、彼はそれを許さない。彼女を捉えたまま、透明な視線で青い瞳を正視する。翡翠の双眸におのれの姿を認めて、アンフィッサの胸がどきりと鳴った。

「ユリウス。何で逃げる?」

「あんた、そっちの趣味があったわけか」

 悪態をつくアンフィッサに、彼は冷めた笑みを向ける。

「ばか。あれはあいつの趣味だ。俺にはそんな趣味は全くない」

「嘘こけ。だから俺にも手を出さないんだぜ? うわー、気色悪ぅ!」

 流して逃れようとするアンフィッサ。その体を更に抱き寄せ、ブリタニクスは顔を近づけた。

「そんなに俺に抱かれたい?」

 からかいとも本気ともつかない台詞を耳元で囁く。低いが、中に澄んだ響きを持つ声に、アンフィッサは身を強張らせた。

「冗談、だろ?」

 思わず身を引く。だが、その勢いで壁に押しつけられた。アンフィッサは焦って身をよじる。

「ばかばか。違うって。そうじゃなくって」

「なにが違う? 俺は構わないぜ。好きな女じゃなくても、抱くことは出来る」

 スッと彼は目を伏せた。そのままこちらに迫ってくる。

「ひーっ!!」

 アンフィッサは情けなくも悲鳴を上げた。恐怖に近い感情に、思わず目を閉じる。これは悪夢だ。冗談だ。必死にそう思いこもうとする。目を開ければ、そこには天井があって、傍らではブリタニクスが

(うわああっ)

 いけない想像をしてしまった。妄想を振り払うべく、彼女はかぶりを振る。その首筋の近くに息がかかった。同時に、押し殺したような笑い声が聞こえる。

「は?」

 目を開けると。背後の壁に頭を押しつけ、ブリタニクスが肩を震わせていた。本人としては笑いを堪えているつもりのようだが。しっかりと声は漏れている。

 からかわれたのだ。そう思うと、怒りがこみ上げてくる。

「ばーか。ませたこというから、お仕置きだ」

 ぴん、と額を指で弾かれる。アンフィッサはぷくっと頬を膨らませた。ブリタニクスはあっさりと彼女を離し、背を向ける。

「自分に欲情する馬鹿が、どこに居るんだ」

 自嘲めいた台詞は、しかし彼女には届かない。アンフィッサはまだ飛び跳ねている心臓を押さえるように、おのれの肩を抱いた。冗談とはいえ、異性に迫られたのは初めての経験だった。意識していない相手でも、充分に刺激的である。アンフィッサは傍らの椅子を引き寄せ、そこに腰掛けた。ブリタニクスもまた執務机に戻り、平板を手に取る。

「今みたいなことを男にされてみろ。ぞっとするどころか気を失うぜ」

 憎々しげに吐き捨てる彼の視線は、鎧戸越しにタウリルトに向けられていた。

 察するに、同じような状況にあったのだろう。彼は。あのようにタウリルトに迫られて、最悪の場合唇なども奪われていたに違いない。彼の態度からそんなことを想像することが出来る。

「俺がおまえくらいの時だ。元服の儀式があってな。初めて正装して、宮廷にあがった日に」

 タウリルトに出会った。彼はどうやらブリタニクスに一目惚れしたらしい。もともと、その手のうわさの絶えない男だったと聞く。ルオマでは別段、男色は忌まれてはいない。むしろ少年愛は、高級な趣味とされている。故にタウリルトは当然の如くブリタニクスに求愛し、そちらの趣味のないブリタニクスは拒否したのだ。

 そのようなことをブリタニクスは簡単に説明した。

「ある意味、刺客よりも厄介だ」

 苦々しく顔を歪める彼に、アンフィッサは複雑な目を向ける。男に好かれる男。それはもう少し華奢な人物だと思っていたのだが。ブリタニクスのように体格の良い青年が好まれるのだろうか。筋肉と筋肉のぶつかり合い。それもかなり。

(なんだかな……)

「ユリウス。変な想像をするなといっただろ」

 こつん、と頭を叩かれた。アンフィッサは舌を出し、手近にあった平板を取って椅子に戻った。

 読めはしないが、一応文字に目を落とす。シティリャ、アクラガス、軍隊、という単語だけがかろうじて理解できた。それから。駐留、という言葉も。

 平板を持ったまま、アンフィッサは動きを止めた。

(アクラガスに、軍が駐留している)

 あの、麗しの街に。思うと知らず手が震えた。怒りに近い感情がこみ上げる。

「……っ!」

 平板をへし折りそうに力を込めて、ふとアンフィッサは現実に戻った。脳裏に、詩の一節が甦る。


 いつしか、聖なるイリオンも滅びるだろう


 『聖イリオンの落日』の、最後の一節。それを口の中で繰り返し、彼女は平板を机に置いた。

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