【1】七つの丘の街/清らかなる妖婦(2)

 ルオマの王宮は、パラティヌスの丘にあった。

荘厳にして華麗、現代建築技術の粋を集めた傑作、とは誰が言ったのだろうか。おおかた、諸国を巡る詩人が誇張していったに違いない。それがアンフィッサの、宮殿に対する第一印象であった。

 建物自体は愛想もない箱の並びであり、とりわけ彫刻が施してあるとか、凝った造りになっているわけではない。ただ、敷地自体は広く、アウェンティヌスにあるブリタニクスの屋敷の数倍の広さは誇っていた。もしかすると、パラティヌスにある建物は宮殿だけではないのかと疑いたくなるような大きさである。そうして、衛兵の守る門をくぐり、ファウケスと呼ばれる入口歩廊を進むと、巨大な広間に突き当たる。そこでは、今晩の饗宴の準備なのだろう。奴隷達が忙しく立ち働いていた。

 ブリタニクスはそれには目もくれず、更に奥へと進んだ。

 庭を臨む列柱廊を抜け、別棟に入ると、そこで彼は初めて足を止めた。

 漆喰の壁に、重そうな鎧戸が食い込んでいる。それを難無く片手で開けて、ブリタニクスはアンフィッサを中に導いた。そこがどうやら彼の執務室のようである。

 山になった平板をきちんと整理しているところが、いかにも彼らしい。

「こっちの棟は、執政官達の部屋だ。大抵はここで資料の作成をしたり、さっきの広間でくだらない討論をしたりしている」

「ふーん」

 アンフィッサは、部屋の中を見回した。特にこれといって変わったものはない。応接用の机と椅子、執務机、それに付随した椅子、壁をくりぬいた本棚、帳の奥には仮眠室と、奴隷の控え室。殺風景なところである。さすがは武官の部屋、といいたいところだがこれでは息が詰まりそうだった。

「なんかさあ、こう花とか置かないわけ?」

 言葉に、ブリタニクスは顎をしゃくった。執務机脇の帳をあけろというのである。アンフィッサがその通りにすると、

「うわ」

 中庭が見えた。しかも、ブリタニクス邸の比ではない。そこに本物の田園があるかのような錯覚を起こさせる広さを誇る中庭だった。奥に作られた泉に続く並木道と、その脇を走る人工の水路、上には武道の蔓棚を巡らせ、それが真向かいの建物にまでさしかかっている。ここを一人そぞろ歩きすると、さぞ気分がいいことだろう。アンフィッサは知らず、身を乗り出していた。

 その襟首をつかまえて、ブリタニクスは彼女を引き戻す。

「遊ぶのはあと。先に仕事だ」

「仕事ぉ?」

アンフィッサは彼を上目遣いに見上げた。仕事というのは、多分平板の整理だろう。夕べ彼はそんなことを言っていた。明日、宮殿に連れていく。そうしたら初めに書庫の整理をしろ、と。だから彼女はある程度覚悟をしていたのだ。部屋中に散乱した平板を、種類別にまとめて保管するのだろうと予想して。だが、部屋に入ってみれば散らかっているどころか塵一つない。指で机をなぞっても、埃がつくこともないのだ。この状態でどうやって整理をするというのだ。これ以上彼は何を望んでいる?

「最近の事件について、調べたいことがある。その資料の整理だ」

 いうよりも早く、彼は平板を引き出した。この時代の書物は、全て板の上に蝋を塗り、そこに棒で文字を書くのである。当然、紙などではなく木板なので厚みがある上、重い。これを何枚使用するかは知らないがけっこうな重労働だ。

 アンフィッサはげんなりと肩を落とした。それを見たブリタニクスは、いたずらっぽく目を煌めかせる。

「終わったら今夜は宴だ。たくさん食えるぜ。吐き出すほど」

 国王と夕食をともにする約束があるらしい。

 ブリタニクスの言葉から、彼女は推測した。ブリタニクスは伯父である国王を毛嫌いしている。それなのに、なぜ夕餉に招待される気になったのか。考えてみるが理由は一つしか思い当たらない。

 アンフィッサの、つまり義弟・ユリウスの紹介である。

 書類上は認証されたものの、彼女は国王夫妻にあってもいなければ、執政官に目通りもしていない。こういう権謀術数渦巻く社会では根回しが大切なのだと、最近ファウスティナとともに観た芝居でも言っていた。やはり、宴でさりげなく顔を売っておいたほうが、のちのち有利なのであろう。

 そのために、彼女も七将にしか許されぬ緋色の長衣を纏ってきた。白い短衣に肩から走る緋色の線、裾を縁取るやはり緋色の線と、同じく緋色の長衣。ルオマ最高幹部の証である。この姿を許されているものは、ルオマ広しといえど七人しかいない。たとえ七将の副官だとしても、決して公に認められる姿ではないのだ。

(いいのかよ、こんなかっこしちまって)

 多少罪悪感を感じてしまう。が、この際そんなことは言っていられなかった。

彼女は作業のために長衣を外した。短衣一枚となり、豪快に平板を棚から引き出す。ブリタニクスは、脇で使えそうなものを選んでいるようだった。彼は筆を執り、なにやらそこに書き込むとまた、小刀で削って消した。そんな作業が暫く続いたであろうか。

「これ、いらないから再生書庫に戻してきてくれ」

 彼は幾枚かの平板を彼女に差し出した。再生書庫、とはこの平板に新しい蝋を塗布する場所だという。

「どこにあるんだよ?」

 問いにブリタニクスは簡単に説明を加えた。アンフィッサは平板を抱えたまま、部屋を出る。

 列柱廊を抜けていくと近道だ、といった彼の言葉を信じて彼女はそこを小走りに抜けた。さっさとこの荷物を置いて、帰りに庭の探検としゃれ込もう。晩餐まではまだだいぶ間があるはずだ。

 彼女は薔薇の茂みをくぐり、噴水の脇をすり抜けた。乙女像がもつ水瓶からこぼれた水が、飛沫となって頬に当たる。アンフィッサは手の甲でそれを拭い、更に歩を進めた。と。

「……」

 微かに女性の声が聞こえた。彼女は思わず立ち止まる。耳をすましてみるが、何も聞こえない。気のせいかと思って立ち去ろうとすると、また。

「……さま」

 甘えるような、喘ぐような声だった。アンフィッサは首を傾げ、声のしたほうに足を向ける。そこに茂る、ロドンの植え込み越しに反対側をのぞき込んだ。

「げ」

 見なかったことにしよう。――彼女は、一歩後ろに下がった。植え込みの向こうでは、男女が愛を語らっている様子だった。逞しい体躯の男に、若い女性がしなだれかかっている。彼女は男の手を自ら胸元に導き、その上に手を重ねていた。赤い珊瑚色の唇は、男の耳元に寄せられ、何事かを囁いている。

 男の顔は影になってよく見えなかった。しかし、女の方には見覚えがあったのだ。

 数日前、市街で出会った緑瞳の女性。アイオリアの血を受けている、黒髪の女性。

 魔性の笑みを彼女に向けた女性だ。

 彼女はやはり、貴族だったのか。

(火遊びは、他所でしろ、っての)

 二度も見せられては、たまったものではない。彼女は踵を返し、その場を去ろうとした。

 そこに。

「何をしている」

 鼻にかかった声が響いた。目を上げれば、長髪の青年がたたずんでいる。

 白い短衣に、紅い長衣。武官であることは間違いない。が、その身分はブリタニクスよりは下であろう。この長衣の色は、深紅であった。七将の緋色の長衣とは違う。短衣の方に線が入っていないところを見ると、七将に次ぐ高級士官といったところか。

 彼は癖のある髪を掻き上げ、冷ややかにアンフィッサを見下ろした。背は、ブリタニクスに劣らず高い。彼よりも細身であるせいか、幾分小柄だという印象を受けはするが。

「おまえ、その格好は」

 彼女の姿を見て、青年は怪訝そうに眉を寄せた。

 短衣に走る斜めの緋線。これは、七将の印である。それを、このような子供が纏っているのだ。彼でなくとも奇異に思うことだろう。

「どうしたのです?」

 今度は女性の声がした。振り返れば、あの女性がいた。魔性の笑みをもつ女性。彼女が何食わぬ顔で、二人の間に割って入る。ほのかな香水の香りが、アンフィッサの鼻を突いた。

「ああ、義姉上」

 青年は女性に目礼をする。あねうえ? と首を傾げたアンフィッサに、女性が向き直る。

「あら」

 棗型の目が細められた。緑の瞳が、興味深そうに彼女を見つめる。瞳の奥で、炎がチラリとゆらめいた。アンフィッサは、知らず息を呑む。細い腕が差し伸べられ、それが彼女の頬に触れた。

 冷たい。感触に彼女は身を震わせる。

「どこかで、お会いしたかしら」

 顔が近づいた。甘い香りにむせそうになる。これは媚薬だ。アンフィッサは必死に意識を保った。このまま引きずり込まれれば、身も心も彼女のとりこになってしまう。そんな予感をさせる香りだった。女性の目は、香水の香りよりも強くアンフィッサの意識を痺れさせた。瞳に揺らめく炎が、アンフィッサを絡めとらんとその勢いを増しているような気がする。

「青い瞳。ドーリアの人ね」

 言葉にはどのような思いが込められていたのか。

 アンフィッサは、女性を正面から見つめる。更に、傍らに立つ彼女の義弟を。

 女性に劣らぬ美貌をもつ青年は、整った眉をひそめ、口元を歪めた。それがそのまま皮肉げな微笑に変わる。青年は、小さく頷いた。

「そうか。おまえがルクレティウスの」

「ルクレティウス?」

 女性の指がピクリと動いた。視線が揺れる。アンフィッサはその隙に彼女から離れた。

「なんだよ、あんたら。勝手に人をネタにして。失礼だろうが」

 ふん、と青年は鼻を鳴らした。前髪を指に絡め、気怠げに掻き上げる。

「ルクレティウスに取り入って、まんまと副官になった子供か。いい気なものだな」

 言葉は冷ややかだった。アンフィッサは彼を睨み付ける。なんだてめえ、と怒鳴りたいところだが、ここで感情に走っては不利だ。彼女は怒りを抑えて彼らに背を向ける。これが下町での出来事だったら、容赦はしない。必ず痛い目を見せてくれる。そう思っていたのだが。

「腰に下げているのは、ナマクラか?」

 挑発的な言葉が浴びせられる。アンフィッサは肩越しに青年を振り返った。彼は既に剣を鞘走らせている。切っ先は、まごうかたなくアンフィッサに向けられていた。女性も止めるどころか、義弟を冗長させるような微笑を浮かべている。

(やばいよな)

 ここで騒ぎを起こしては、またブリタニクスに小言を食らってしまう。小言ならばまだいいが、罰として古代史の暗記でもさせられた日には目も当てられない。アンフィッサはうんざりしてかぶりを振った。

「やめとく。一昨日きな」

 それがまた、青年の気に障ったようだ。彼は問答無用で斬りつけてくる。背後から迫る殺気に、アンフィッサは反射的に剣を抜いた。

(やべっ!)

 思ったときには遅かった。体が勝手に反応している。先日、水夫に絡まれたときと同じだ。これでは、無意識に青年の腕を切り落としてしまう。しかし。彼女の耳に聞こえたのは、青年の悲鳴ではなかった。キィン、という鋭く金属のぶつかり合う音。必殺といわれたアンフィッサの一撃を、青年は軽く交わしたのだ。

「これしきで」

 うぬぼれるな、といいたいのだろう。青年は冷笑を浮かべたまま、剣を繰り出してきた。アンフィッサは平板を片手に、左手だけで剣を振るう。さすがに、男の力は強い。片手だけで受けるには限界がある。次々に繰り出される切っ先を交わすのが精一杯で、なかなか攻勢には転じられない。こうなると、こちらが圧倒的に不利だった。アンフィッサは、徐々に押されていく。

(こいつ、けっこうできる)

 アンフィッサは、ついに平板を投げ出し、右手を剣の束に添える。そのまま体勢を立て直して、青年に向き合った。青年は、また鼻を鳴らす。明らかに彼女をバカにしている様子だ。アンフィッサは、両手で剣を構え、呼吸を整えた。



 ブリタニクスは、平板を前に頬杖をついていた。

 幾枚か積み上げられたうちの一つを手に取り、そこに目を通す。ラトニア語で書かれたその文章は、アンフィッサが見たとしても彼女には読めないであろう。それだけ専門的な単語が並べられている。

 この平板の内容は、最近市内で頻発する事件についてであった。少なくとも今月に入ってから、三件。テウェレに謎の水死体があがっている。被害者はいずれも武官で、要職とは言えないが上級士官の部類に入っていた。うち、一人とはブリタニクスも面識があった。国王の親衛隊、その末席にあるもので、二、三度宮殿内で言葉を交わしている。これといった特徴もなく、どちらかといえば平凡な男だった。とても殺害されてテウェレに投げ込まれるような人物には思えない。

(そういう男が始末されるのが、ルオマか)

 苦笑を漏らす。王族や、執政官に都合の悪いものは、問答無用で消されていく。この親衛隊士もそうなのだろう。だが、他の二人は。

 一人は、警備部に属する士官であった。宮廷警護ではなく、市街警護である。港のあるオスティア方面に配属されていた男だ。今一人は、シティリヤに派遣されていた士官だという。

 いずれも殺害されたあと、体に錘をくくりつけられて川に投げ込まれたのだ。

「……」

 ブリタニクスはそれを机に投げ出し、別の平板を手に取った。それも警備部からの報告である。

 記されているのは、やはり市街で起きた事件について。こちらの方は簡単にしか述べられていない。

 当時のルオマの人口は、百万とも言われている。その中で起こった事件を逐一記録するわけにも行かない。ただ、警備隊に届けられた事件と、警備隊がたまたま遭遇した事件などを簡潔な報告としてまとめてあるだけなのだ。

 彼は内容に目を走らせる。

 下町、聖堂通り脇の裏路地にて、不審火。薬剤師の一家死亡。

 同じく裏路地にて、数十人を巻き込む喧嘩。重軽傷者多数。死亡一人。身元は不明。

 オスティア港にて、荷揚げ作業中水夫が転倒。海に落ちるもその後不明。荷揚げされていた荷物もともに海中に没する。所有者である商人は、船主に賠償を求めている。

 以下、似たような事項が並べられていた。

 ブリタニクスは新さらの平板を引き寄せ、そこに文字を踊らせた。



 彼はしばしの間、作業に没頭しているようだったが。ふと目を上げ、入口を振り返らずに口を開いた。

「断りもなしに訪問か」

 皮肉を浴びせられた人物は、鎧戸に体を預けたまま微かに笑った。扉越しにブリタニクスに声をかける。

「つれないことだな。相変わらず」

 声にブリタニクスは、露骨にイヤな顔をした。それを見ていたのかどうか。訪問者はくすりと笑う。

「御身のその顔。他のものには見せるまいよ」

 揶揄しているのか、それとも本気で言っているのか。訪問者の性格からすれば、後者の方であろう。それが分かるだけに、嫌悪感がわき上がる。ブリタニクスは口元を歪め、目だけを戸口に向けた。そうして、そこにたたずむ人物と目を合わせる。


 鎧戸に半身を預け、斜めにブリタニクスを見下ろすのは、七将の正装をした、中年男性であった。

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