【1】七つの丘の街/清らかなる妖婦(1)
多分、これはアクラガスの街だ。彼女はぼんやりと考えた。
どこまでも続く、白い石造りの街並み。ヘラス文化の最高傑作とまで言われた、優美なる彫刻が一般の家庭の壁や塀を飾っている。芸術の街、彫刻の街。地上の楽園。シティリャの女神。あらゆる賛辞を与えられている街が、今、目の前に広がっている。
彼女は一部の隙もなくしきつめられた、石畳の上を懸命に歩いていた。塵一つない道路。本当にここを土足で歩いていいものなのか。城門から一歩踏み出した途端、足元に現れた広い道を見てアンフィッサはまずそう思った。
シラクサとは、明らかに違う街の造り。スファルティアのシティリャの拠点として、軍事都市化された無骨なあの街とは雰囲気からして違っている。芸術と文化を重んじるアイオリア人の街は、街自体が一つの芸術作品であった。道路に沿って並ぶ、公館、商館、貴族の私邸。一見して白い箱の並びなのに、何かが違う。その配置、窓の形、柱の細工。どれをとっても素晴らしく均整がとれている。繊細にして優雅。重厚を重んじるシラクサの無骨な建築とは、一線を画しているのだ。そして。
一歩裏道を覗けば、こぢんまりとした庶民の家が並んでいる。そちらの方は質素ではあったが、どことなく品があった。家々から時折覗く若い娘や主婦達も、楚々として実に優雅である。これが下町の女性かと思われるほど美しく、誰も皆あか抜けていた。男達もまたシラクサの軍人とは違い、こざっぱりとした優男が多い。
それらを眺めながらも、アンフィッサは視線の端で父の姿を追っていた。異郷で父とはぐれぬよう、道に迷わぬように。
あれは、十年ほど前のことだろうか。
六歳の頃、彼女は父に連れられてアクラガスを訪れたことがあった。
『ここが、アクラガスだ。綺麗だろう?』
父の声に、彼女は素直に頷いた。同じ金髪なのに、アクラガスの人々は瞳の色が違う。澄んだ美しい緑色をしていた。顔立ちも優しげで、これが本当に同じヘラスの民なのかと、幼心に思ったものだ。シラクサの市民は、男も女も皆体格がよく、どちらかといえば厳つい面差しをしていた。
父の言う「綺麗だろう」は、街の全てに当てはまった。建物、人、露店に並ぶ色鮮やかな織物、異国の果実、大道芸人が奏でる音楽。見とれるアンフィッサに、父はたびたび注意を促した。
『はぐれるなよ。手を離すなよ』
そのたび彼女は、頷いた。父の手を離したら、二度とシラクサには帰れない。この美しい街にひとり取り残されてしまうのだ。そう思うと、不安で仕方がなかった。綺麗だけど、怖い。なにが怖いのかは分からない。だが、漠然とした不安が、幼い心につきまとう。彼女は、ぎゅっと父の手を握り返した。この手に掴まっていれば、怖いものはないはずだった。父は農民だが、誇り高きシラクサの兵士でもある。シラクサの民は、七歳になると十年間、軍事教練を受けるのだ。そうして農民でも立派な農兵となって街を守っていく。だから、父についていればひ弱なアクラガスの人々などおそるるに足りない。
しかし。ふとしたことで、彼女は父を見失ってしまった。あれほどしっかりと手を繋いでいたはずなのに。いつの間にか、大きな父の手は見知らぬ男性の服の端にかわっていた。
『父ちゃん?』
呼びかけに答えはなかった。周りを囲むのは、アイオリアの緑の瞳。冷たい硝子玉の双眸ばかり。彼らは異国の子供など、見向きもしない。美しき民は、幼いアンフィッサになど注意を払わない。不安げに周囲を見回す子供などいない、目に入らない様子で目抜き通りを流れていく。
『父ちゃん!』
彼女は走り出した。ここにはいたくない。不安が涙となってこみ上げる。
『父ちゃん』
しゃくり上げた彼女の肩を、大きな手が掴んだ。
『父ちゃん!』
父だ。喜んで振り返る目に映ったのは、異国の男の姿だった。黒い髪。黒い瞳。ヘラス人ではない。多分、カルタギアかファルシアの男だろう。商人ふうのその男は、アンフィッサの手を無造作に掴み、小さな体を引き寄せた。
『ドーリア人か』
軽い失望がその声から読みとれる。『でも、ましな面だな。わりと』
強引に顎を持ち上げられる。彼女は抵抗したが、力の差は歴然としている。男はまともに彼女の顔をのぞき込んだ。じっと、青い瞳を見つめている。
こうしてみると、と彼は呟いた。
『青い目もまんざらじゃねえな』
ぞっとする笑みが、下品な口元に浮かぶ。
奴隷商人だ。アンフィッサの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。街で親にはぐれた子供を連れ去り、好き者の貴族に売りつける輩がいるという。この男はそういった手合いなのだ。アンフィッサは小さな手で男を殴りつけた。逃げなければ。逃げなければ売られてしまう。
『このガキ』
男は彼女の髪を掴んだ。力任せに引きずり倒される。彼女は悲鳴を上げた。痛い。石畳に擦れた腕から、血が溢れた。それでも、誰も助けてくれない。父も、道行くアイオリア人も、誰も。
男はわめき立てるアンフィッサを、荷物でも扱うように背に担ぎ上げた。暴れる足を押さえ込み、持っていた紐でくくる。一連の動作には隙がない。慣れているのだろう。アンフィッサは必死に男の背を叩いた。
『離せ! 離せったら!』
うるせえ、と一喝された。それでも、彼女は騒ぐのをやめない。男の肩にかぶりつき、彼がひるんだ隙に路上に飛び降りた。が、足を縛られているせいで逃げられない。芋虫のようにはいずるだけである。その背に、男の罵声が飛んだ。脇腹に衝撃が走る。蹴飛ばされたのだ。彼女は仰向けに転がった。視線の先に、件の男がいる。彼は怒りに顔を赤らめ、毛深い手を伸ばしてきた。
殴られる。そう思った。が、彼の手は寸前で止められた。
男の手を、止めているものがいる。細い手だった。白くたおやかな手が、自分の倍もある手を易々と押さえ、あまつさえそれをねじ上げているのだ。彼女は勿論、とうの男も呆気にとられた。
『……』
カルタギアの言葉だろうか。それとも、ルオマの言葉だろうか。彼女の知らない言葉が男に浴びせられる。
やわらかな、それでいて凛とした気品のある声。その主は、男の腕を逆手にねじりながら顔色一つ変えない。涼やかな瞳のままそこにたたずんでいる。
翡翠の色の瞳。初めて見た。ルオマ人だ。
アンフィッサは目を見開いた。
男を軽くいなしているのは、ルオマの、それも少女だった。豊かな黒髪を結いもせずに背に垂らし、それを赤い飾り環で止めている。身に纏うのは、正絹の薄もの。貴族か、それに次ぐ裕福な家庭の娘だろう。彼女はもう一度何か叫んだ。男は、ひっ、と悲鳴を上げる。同時に、バキッ、と妙な音がした。太い腕がだらりと下がる。男は苦痛に顔を歪ませ腕を押さえた。そのままそこに倒れ込み、七転八倒する。少女が、彼の腕を折ったのだ。アンフィッサは傍らに立つ、華奢な少女を声も無く見上げた。
少女は、彼女に近づきその足の戒めを解いた。そうして、肩に手を置き、ゆっくりと立たせる。ぱんぱんと服の汚れを払い、傷の様子を見てくれた。手首から肘にかけてのやわらかい部分が、派手にすりむけている。少女はそれを見ると、一度おのれの唇を舐めた。それから。優しく傷口に唇を這わせる。しみないように、そっと。
間近で揺れる彼女の髪からは、甘い異国の香りがした。
『歩ける?』
はっきりとしたヘラス語で少女は囁いた。アンフィッサは小刻みに頷く。助かった。そう思った瞬間に、視界がぼやけた。少女の困ったような顔が涙の向こうで歪んでいる。
『怖かったんだ?』
少女は、そっと彼女を抱き寄せた。
『もう、大丈夫』
ぎゅっと抱きしめられる。その腕のぬくもりが心地よい。アンフィッサは彼女にしがみついた。華奢な胸に顔を埋めて、しゃくり上げる。
『もう、怖くないから』
少女の囁きが、彼女の緊張を一気に崩した。アンフィッサは声を上げて泣き出した。六歳の彼女は、異国の少女の胸の中で、いつまでも泣いていた。いつまでも、いつまでも。
●
唇に柔らかい感触があった。
一瞬遅れて、喉に何かが流れ込んでくる。それを本能的に飲み下そうとして、彼女はむせた。甘ったるい果実酒の匂いが、つんと鼻に突き抜ける。アンフィッサは喉を押さえ、身を起こした。ぽろぽろと涙がこぼれる。彼女はもう片方の手でそれを拭った。
むせたせいではないはずだ。もっと長いこと、泣いていたような気がする。
「シラクサの夢でも見たか」
耳慣れた声が問いかける。そちらに目を向けると、ブリタニクスがいた。彼は杯を傾けながらアンフィッサを見ていた。旨そうに飲み干す杯からは、南方の果実の匂いがする。先程飲まされたのは、この酒だろう。寝酒の途中だったのか。今日もまた、彼は夜更かしをしているようだ。寝台脇に設えた卓子上には、幾枚もの平板が積み重ねられている。以前尋ねたときに、ヘラスの歴史書だと言っていた。今夜もこれを読んでいたのだろう。
アンフィッサはこの家に来た日から、なぜかブリタニクスの部屋に居候をしている。これだけ広い邸宅なのだから他に幾つも部屋が余っているだろうに。彼は、彼女を当然のように私室においた。それだけではない。寝台も同じものを使っている。アンフィッサは毎晩、彼と床をともにしているのだ。とはいえ、肉体の交渉は皆無だった。二人は、常に背中をあわせるようにして眠る。ブリタニクスは、彼女に何も求めない。就寝前に平板を読み、寝酒をし、床に潜り込んでそのままである。
彼とて、年頃の男である。欲求がないわけではないだろう。
初めてこの部屋に連れてこられて、夜を迎えたとき。彼女はそれを疑ったのだ。何か代償を求められるのではないか、と。
「抱かないの?」
問いにブリタニクスは、不思議そうな顔をした。
「抱かれたいのか?」
「いや、別に」
「ならいいだろ。俺にそんな気はない」
あっさりとした会話だった。どうも、アンフィッサを異性としてみていないようである。それはこちらとしても非常にありがたいのだが。そうなるとまた、彼の意図が分からない。愛人にするのでもなく、身近に置くなど。しかも、アンフィッサはシラクサの出身である。ルオマとは敵同士。いつ刃を向けるか分からない相手なのだ。
「しらねえよ。つい、むかっときて寝首をかいても」
「そういう趣味があるのか?」
「いや、別に」
「だったら、気にすることもないだろうが」
これも不毛な会話だった。
こんな調子でかれこれ一ヶ月。二人は近しい場所で暮らしている。
「派手にうなされていたな」
苦笑を浮かべて、ブリタニクスはまた、杯に酒をつぎ足した。アンフィッサは、うーん、と頭を抱え込む。
「昔の夢を見たような気がするんだけど。忘れちまった」
「なんだ、それ」
彼はつまらなそうに酒を飲み干す。何杯空けているのだろう。瓶がやけに軽そうである。
アンフィッサは、勢いをつけて寝台から降りた。ブリタニクスに近づき、その手から杯を取り上げる。俺も欲しい、と言って瓶を手に取った。注いでやるよ、と彼は横から手を出す。その光景に、アンフィッサはふと何かを思いだしかけた。差し伸べられる、手。なんだろう。眉をひそめるが、記憶はすんでのところで霧散する。
「こいつは、カルタギアの酒だ」
ずず、と音を立てて啜る彼女を見ながら、彼は空になった瓶を振った。
「たくさんあったけど、これで終わりだな」
「ふうん」
アンフィッサが今飲んでいるのが、最後の一杯なのだ。そう考えると、何か悪いことをしたような気がする。戻そうか、と杯を下げるアンフィッサ。ブリタニクスは、ぷっと吹きだした。
「ばーか」
くしゃりと彼女の髪をかきあげる。こういうところは、彼の従兄に似ている。アンフィッサはかぶりを振って髪を整えた。
結構気を使うヤツだな。子供はもっとわがまま言うもんだぜ」
「子供じゃねーよ。もう、十六だ」
憤慨するアンフィッサに、彼はふん、と鼻を鳴らした。
「そういうところがガキなの。だから、十四歳の少年がちょうどいいんだよ。おまえには」
「失礼だなー」
尖らせた唇に、杯を運ぶ。それを一気に飲み干した。かなり強い酒である。飲み下した瞬間に、頭がくらりとした。彼はこんなものを毎晩平気で何杯も飲んでいるのか。たいした酒豪である。ハミルカルも、そしてアンフィッサ自身もかなりいける口だと思っていたが、ブリタニクスにはかなわないだろう。
「酒ばっかのんでいると、刺客に襲われたときに手元狂うんじゃねえの?」
半ば皮肉のつもりで問いかけると、彼はいたずらっぽく笑った。
「そんなに弱く見えるか?」
自信のほどが伺える。確かに彼の剣技の腕前は、手合わせをしている彼女が一番よく知っている。そう、ブリタニクスは今まで渡り合った誰よりも、強い。
「自然に強くもなるさ。命がかかってるんだからな。俺だけじゃなく、母の命も」
ファウスティナの名を口にするとき、彼の表情はいつになく和む。
「俺がやられたら、母も殺される。母は俺が守らないと」
だから、と彼は言う。
「俺は死ねない」
強くなけらばならない。そういいたいのだろう。アンフィッサは上目遣いに彼を伺った。
刺客の標的は、基本的には彼だという。もののついで、といった形でファウスティナをも時々襲うのだ。ファウスティナの方は、それほど重要ではないらしい。
「あんたを狙っているヤツ。いつも刺客を送ってくるヤツって誰なんだよ。なんであんたは、狙われるんだ?」
「さあね」
はぐらかすつもりなのか。アンフィッサは、彼ににじり寄る。ずい、と顔を近づけた。燭台の細い明かりに、翡翠の瞳があやしげに煌めく。それが、至近距離で彼女に向けられる。二人の視線が、絡み合った。目を取った。もう、逃がさない。アンフィッサは、勝ち誇って胸を反らせた。
「まさか、振られた女が腹いせに刺客送り込むなんてことはないだろう?」
「そうかもしれないぞ?」
机に肘をつき、彼は首を傾けた。唇の端が僅かにつり上がる。からかっているのだ。彼女は、卓子にポン、と手を置いた。
「正直に言えよ。俺には知る権利があるんだぜ」
一応、と小声で付け加える。
「誰があんたを殺そうとしているんだよ」
ブリタニクスは、ふっと息をつき、虚空を見上げた。
「知りたい?」
「ああ」
ブリタニクスの目が、こちらに注がれる。
「おんな、だ」
「おんな? あんた、ふざけんのもいいかげんにしろよ。俺はあんたを心配して……」
「だから。俺を狙っているのは、女だ。結構ねちっこい性格らしい。もう、六年近く狙われている」
こともなげに彼は言う。本当なのだろうか。アンフィッサは、今ひとつ信用しきれずに眉をひそめた。彼を狙っているのは女性。それが真実だとして。理由はなんだというのだ。まさか色恋沙汰からではあるまい。
「俺が、国王の縁者だってことは、リウィアヌスから聞いただろう?」
知っていたのか。アンフィッサは少々むくれた。
「あいつなら言いそうだからな。原因は、それだ」
「王様の甥っ子だから?」
「そう。現在の国王には、正式な子供がいない。彼の近しい身内は母だけだ。と、なると。分かるだろう?」
次期国王候補は、ブリタニクス。その人なのだ。アンフィッサは、唾を飲み込んだ。
ルオマは男性優位であるが、基本的には母系制が根強く残っている。自由民の女性から産まれた子供は、父親が誰であれ自由民として登録される。が、母が奴隷であった場合、父がどれほど高貴な身分であっても奴隷としか見なされないのだ。母が解放奴隷であればまだ救いがある。しかし、そういった子供は父の認知がなければ、否応なく奴隷身分に引き落とされた。
ブリタニクスは、母が王女である。れっきとした、王家の血を引く男子である。国王の座を引き継いだとしてもなんの問題もない。しかしこれを快く思わぬ輩が存在するのだ。
「ってことは、刺客を送ってくれるのは、王様の愛人とか?」
「ご名答」
明るく答えるブリタニクス。アンフィッサは肩を落とす。
「あのなあ」
もっと真剣になって欲しい。睨め付ける青い瞳を無視して、ブリタニクスは笑った。
「何度も養子の話は聞かされているけどな。断っているよ。俺は国王になんてなりたくない。かったるいし。それにあいつを『父上』なんて呼びたくないからな」
台詞の後半には、毒が含まれていた。アンフィッサは、おや、と首を傾げる。
彼は、国王を嫌っている? 実の伯父を?
「国王には、ちゃんとした子供もいるんだぜ。認知もされている男子がな。そいつを次期国王の座に据えればそれでいいと俺は思っているのさ。そうだろ?」
頷くしかない。
「問題は、彼が解放奴隷の子供だってことだが」
「その愛人の子か?」
「いや」
彼はかぶりを振る。
「そのうち、逢うこともあるだろう。これがちょっと厄介なヤツなんだよな」
厄介。その言葉の意味を彼女が知るのは、翌日のことであった。
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