【1】七つの丘の街/邂逅(2)

 それから、彼はアンフィッサとともに裏庭に向かった。鮮やかな花が咲き乱れる、薔薇ロドンの茂みをかき分け、野外実践さながらの練習場に足を踏み入れる。

 大抵ブリタニクスは、その中央部にある芝の上に腕を組んで待っているのだが。今日は違った。練習場、と彼女が呼んでいる剣技用の広場から少し離れた、噴水の縁に腰をかけていたのだ。さすがに待ちくたびれたのだろう。多少ムッとしているのかもしれない。長い足を無造作に組み、心持ち上体をそらせるようにしてこちらを見ている。

「遅い」

 ひとこと、彼は言った。それでも、口ほどには怒ってはいないだろう。翡翠の瞳が、からかうように二人を見比べている。

「悪い。俺が引き留めた」

 リウィアヌスの応答に、ブリタニクスは小さく笑った。ゆっくりと立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。緋色の長衣が翻り、彼の背後を飾るように大きく広がった。孔雀のようだ、とアンフィッサは思った。孔雀のように堂々と、胸を張って歩く青年。年長者であるリウィアヌスに対しても、臆するところは何もない。

「今日は何でまた。珍しいな、おまえが来るなんて」

 皮肉る風でもなく、ブリタニクスは従兄に話しかけた。リウィアヌスは傍らのアンフィッサを叩きながら、

「こいつを見にきたのさ。将来の士官候補をな」

 また、豪快に笑う。いい加減髪をかき回すのはやめて欲しいと思ったが、口を挟む余地はなかった。ブリタニクスの瞳に影が走り、翡翠の視線が微かに揺れた。

「もう、うわさが広まっているのか。早いことだな」

 彼は舌打ちする。

「宮廷雀はお喋り好きだからな。この前、おまえが手続きに行っただろ。それを見ていた侍女が広めたらしいぜ」

「まったく」

 肩をすくめるブリタニクス。彼は先日アンフィッサの市民認知許可証を取りに行ったのだ。北ラトニア出身、ユリウス・ルクレティウスのルオマ市民としての登録書を。その際に、ユリウスを故ルクレティウスの養子とすることも忘れなかった。手続きが終了している現時点では、アンフィッサはブリタニクスの弟として公式に認知されているのである。

 それにしても、とリウィアヌスは言葉を継いだ。

「なんの気まぐれだ? 叔父貴の遠縁とはいえ、海のものとも山のものともつかん子供を義理の弟にするなんて。叔母上はなんと仰っている?」

「母か? 勿論、賛成しているさ」

 このとき、ブリタニクスが皮肉めいた笑みを浮かべたのを、アンフィッサは見逃さなかった。

 それはそうだろう。命の恩人なのだ。アンフィッサは。奴隷とはいえ、そう邪険に扱えるものではない。特にあのように慈愛に満ちた貴婦人ならば。息子に言われずとも率先して彼女を庇ったことだろう。

 次第を知らぬリウィアヌスは、まだ腑に落ちないといった顔をしている。

「まあ、おまえが認めたというのなら、俺が口を挟むこともないが。養子とは、ずいぶん思い切ったことをしたな。せいぜい小姓にでもしておけばいいものを」

 本人を目の前にして何をいう。アンフィッサはリウィアヌスを睨み付ける。

「で。いつこいつを陛下に紹介するんだ?」

「陛下?」

 アンフィッサは目を見開いた。陛下。つまり、ルオマ国王。

 国王に謁見させるというのか。ドーリア人を、しかもシラクサの生き残りを。いや、それは公にはされていない事柄だが、それでも彼女は貴族の出身でもなんでもない。仮にブリタニクスの義弟となってルオマでの戸籍を手に入れただけである。士官希望というのも適当なでっち上げであって、彼女自身そのようなことを考えたこともない。

 しかし。

「来月の初めには、と考えている。顔見せはなるべく早いほうがいいからな」

 ブリタニクスの台詞に、唖然とした。彼は初めからそのつもりだったというのか。

(まてよ。だから、俺を)

 教育したのか。貴族の子弟と同じ教育を受けさせ、宮廷へあがっても恥をかかぬように礼儀作法まで教えた。そう考えると、彼の異様なまでに厳しい教育法には納得がいく。だが、なんのために。なんのために彼女を宮廷にあげるのだろう。

 ブリタニクスの意図するところは、未だ謎である。




「待てよ」

 リウィアヌスが帰宅し、気もそぞろに剣の稽古を終えたのち。部屋に戻ろうとするブリタニクスを、アンフィッサは呼び留めた。長衣の端を掴み、布ごとブリタニクスを引き寄せるようにして顔を近づける。と、翡翠の瞳が間近に迫り、正面から彼女の双眸をのぞき込んだ。

「さっきのことか」

 さすが。ブリタニクスは察しがいい。アンフィッサは、こくこくと頷いた。

「俺の副官になるには、そのほうが手っ取り早いからな」

 彼の答えは簡潔だった。どうやら本気で彼女を士官にするつもりらしい。

「俺の周りをうろついて、王やら執政官やらに顔を売っておけば、なし崩しに副官になれる。そうすれば宮廷の出入りも自由」

「……」

「出入国も自由さ」

 彼は瞳を輝かせた。秘密をうちあけるいたずらっ子のような表情である。こういうときは、ルオマ七将ではない。普通の青年、いや無限の可能性を信じている、好奇心旺盛な少年のようになる。

「俺の副官なら、執政官達の許可を取らなくても、俺の一存で国を出ることができる。その方がいいだろう? おまえにとっても」

「そりゃ、そうだけど」

「だったら素直に従う。ぼろが出ないように特訓は続けるからな」

 覚悟しておけ、といわんばかりである。これにはさすがに、げんなりした。



「どうしたのです」

 中庭の芝生の上に寝転がるアンフィッサの上に、ほっそりとした影が落ちる。髪を高く結い上げた、優雅な雰囲気の夫人。ファウスティナである。彼女はアンフィッサの枕元に腰を下ろし、間近でその青い双眸を見下ろした。

「今日の稽古は、もういいのですか」

 甘い香りが漂う。香を焚きしめているのだろうか。なぜか安心する匂いである。彼女は目だけを動かし、夫人を見上げた。夕風が、夫人の後れ毛を優しく弄ぶのが見える。夫人は白い指でそれを押さえていた。

「ブリタニクスはもう、部屋に戻っているようですね」

「みたいだね」

 言って、彼女はまた空を見上げた。夕暮れにはまだ早いが、吹き抜ける風は、一日の終わりを告げている。傾きかけた太陽を明日に運ぼうとするように、静かに静かに西に向かって流れていく。その風の行方を気持ち目で追って、彼女は低く呟いた。ならい覚えたばかりの詩。「聖イリオンの落日」。節を付けて吟じるのはまだ無理だ。が、諳んじるくらいならもうできる。


 遙か東に栄えた聖なる都イリオン。その国は、一人の愚かなる皇子と、一人の美しい女性のために滅びた。皇子は異国の后を略奪し、おのれの妃とした。后を奪われた国王は、当然軍を派遣する。ドーリア一族の直系であるスファルティアの軍は、聖なる帝国を数年かけて討ち滅ぼした。


 そんな内容の詩である。そこに、イリオン皇女・イズミルの悲恋や皇子の苦悩、皇帝夫妻の悲劇が織り込まれているのだ。本来であればこの詩は竪琴リラを奏でつつ詠唱するものだった。以前、ブリタニクスが手本として歌ったことがあるが。


「イリオンの落日」


 ファウスティナがぽつりと言った。

「あの子の好きな詩ですね。もう、覚えたのですか」

「まあね」

「なかなか難しいのですよ。この詩は。執政官の試験に出題されることもあるそうですから」

「ふうん」

「もう、七将の資格を取ることもできそうですね」

 くすりと夫人が笑う。アンフィッサもつられて笑った。

「息子が二人とも、七将か。すげえな。そうしたら」

「そうですね」

 二人は顔を見合わせて笑う。

「こうやって二人きりで話すのは、初めてですね」

 夫人の言葉に、アンフィッサは初めてその事実に気づいた。そういえば、いつも側にはブリタニクスがいた。そうでなければ、侍女達が。初めてあったときは、更に多くの人に囲まれていたのだ。それなのに、なぜか懐かしい気がするのはなぜだろう。夫人とはずっとこうやって一緒にいたような気がする。闘技場で夫人と目があったときに惹かれたのも、奇妙な既視感に襲われたせいだ。

(どこかで会っているのか?)

 そんなはずはなかった。だが、そうとでも考えねば説明が付かない。

「なぜ、わたくしを助けてくれたのですか」

 その夫人の問いに答えることができない。

「わたくしは、ルオマの女です。あなたの国を滅ぼした、ルオマの。それを、なぜ?」

 答えは自分が知りたい。突き詰めていけば、あの既視感からだが、いつどこで彼女と出会ったのか分からない。遠い昔、どこかで確かに言葉を交わしたような気もする。

 あれは、いつのことだったろうか。

「俺、おばさんにあったことあるんだ」

「わたくしに?」

 夫人は不思議そうに目を見開く。

「どこででしょう?」

 アンフィッサはかぶりを振る。思い出せない。小声で呟く。

「ずっとずっと昔。たぶん、ルオマに来る前」

「まあ」

 夫人は軽い驚きの声を上げる。

「わたくしは、生まれてからルオマを出たことはありません。勘違いでしょう」

 そうかな、とアンフィッサは無理矢理自分を納得させる。しかし、過去に一度、彼女とは会っているはずだ。そう、おそらくシティリヤで。でなければ、あの記憶は一体なんだというのだろう。闘技場でファウスティナを見た瞬間、重なった少女の面影は。懐かしい面影に気をそがれ、闘技の最中ずっと気もそぞろだったのだ。

 でなければ、好んでルオマの貴族など助けたりはしない。


 彼女は、遠き日に思いを馳せた。

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