【1】七つの丘の街/邂逅(1)

 闘技場周辺は、今日も賑わっていた。

 当時のルオマの娯楽と言えば、剣奴試合と言われるくらいであるから、それは当然のことだろう。相変わらず、貴族や自由民が奴隷達の茶番に熱中し、歓声を上げ、喝采を送る。そのざわめきは、表にまで聞こえてきた。

 闘技場の前に建ち並ぶ露店で買った林檎をかじりながら、少年はその、他を威圧する建物を見上げた。

 改めて、その巨大さを実感する。


 ――闘技場が倒れるとき、ルオマもまた倒れるだろう。

 そういったのは、どの詩人だったか。少年は、思いだそうとして、やめた。そんなことをしたところで、何の得にもならない。彼は、かじりかけの林檎を手に、雑踏の中に踏み出した。

 小柄な少年である。年の頃は、十四、五歳、と言ったところか。短く刈り上げた髪は黒かったが、その瞳は、深い青だった。中つ海を思わせる、神秘的な色。彼の中には、ヘラスの、それもドーリア人の血が流れているのだろう。中つ海周辺でこの色の瞳を持つのは、ドーリア人以外存在しないのだから。そして。

 ドーリア人は、ルオマ人が最も忌み嫌う人種であった。

 ルオマ建国の祖は、聖イリオンの皇子となっている。彼は、故国をドーリアの国・スファルティアに滅ぼされ、この地に流れ着いたのだ。ドーリア人は、祖先の仇。憎むべき敵。そんな教えが庶民に至るまで浸透している。この街でドーリア人を見かけたならば、ルオマ人は迷わず武器を取って追い立てに来るだろう。

「ぼうず、ドーリアの一族かい?」

 路上に店を広げ、野菜を売っているカルタギア系の男が尋ねてきた。少年は、軽く頷く。ドーリア人が、遠い祖先にいるのだと、簡潔に説明した。

「でも、俺はルオマ人だよ」

「そうかい」

 なら、少しは安心だ。男はしわくちゃの顔を歪めるようにして頷いた。少年は彼の前に座り込み、珍しい野菜を手に取ってみる。そういえば、ここ一月ほど世話になっている将校の屋敷にもこんなものがあったような気がする。

「闘技を、見に来たのかい?」

 男は野菜のへたを切り落としながら、少年を見た。少年は、曖昧に頷く。特に見たいわけではない。見たからと言って、楽しいものでもないのだ。

「なんていったっけかなあ。ぼうずと同じ、ドーリアの娘っこ。あの子が死んじまってから、ちょっと客足落ちたよねえ。シラクサの教練受けてた、ってやたら強い娘っこだったそうじゃないか。それが先月の、騒ぎのあった日に喧嘩か何かに巻き込まれてぽっくりいっちまったって。わからないもんだねえ」

「ふうん」

 少年は気のないそぶりで返事をする。片手でくず野菜を弄び、それを放り投げた。道ばたで餌を探していた鳩が、そそくさとそれに飛びついてくる。丸いくちばしが、旨そうにくずをついばんだ。それを視界のはしにとめておき、少年は野菜売りに小銭を握らせる。とりあえず、今のくずの代金。そういうと、男は破顔した。悪いねえ、と更に愛想が良くなる。が、ふいにその顔が強張った。少年も、この目の動きで事態を察知する。

「ぼうず、逃げな」

 野菜売りは鋭く目配せした。少年はそれに黙礼で答える。彼は背後の気配を探り、腰の剣を確認した。背中に叩きつけられる殺気は、五つ。それもさほど強いものではない。殺気というよりも、むしろ悪意といった方がいい。彼は勘で間合いを取りながら、繁華街を抜けた。人混みで騒ぎは起こしたくない。

 彼が大通りを抜け、細い路地裏に踏み込んだのを確認したかのように、つぶてがその後頭部めがけて飛んできた。彼は僅かに首を動かす。と、つぶては目標を失い、近くの石塀に叩きつけられた。びちっ、と黄色い汁が飛ぶ。同時に悪臭が鼻を突いた。腐った卵である。少年はそちらを一瞥し、ゆっくりと振り向いた。

「へたくそ」

 嘲笑混じりの言葉に、つぶてを投げた男は鼻白んだ。まだ若い、水夫風の男である。彼は数人の仲間とともに、恰幅のいい体を狭い路地に潜り込ませてきた。

「おまえ、ドーリアの血を引いているな」

 居丈高に尋ねる。質問、と言うよりは確認である。獲物を狩る、正当な理由を得るための確認。そうだといえば、狩る。違うと言えば別の因縁をふっかける。とにかく無事では帰さない。よこしまな気合いを感じる。

 少年は、ふうっと小さく息をついた。

「見りゃわかるよな。今更聞くこともないだろ?」

 その台詞を、挑発と取ったのか。男達は、手にした棒を一斉に振り上げた。少年の華奢な体を砕こうと、彼の体に向かって凶器を叩きつける。

 哀れ、少年は血だるまに。男達はそう思った。誰もが疑っていなかった。だが。手応えは皆無だった。少年はふわりと身軽に飛び退き、応戦すべく剣を抜いた。白い刀身が、日光を反射する。男達は思わず目を閉じた。その隙に、少年は大きく飛んだ。首領格の水夫の肩を蹴り、通りの側に音もなく降り立つ。男達は、ハッとして彼の行方を目で追った。少年は、つまらなそうに肩をすくめると、剣を収める。かちり、と鈍い音がしたかと思うと、男達の革帯が二つに別れて地面に落ちた。当然、短衣の前がはだけ醜いからだがさらされる。彼らは何が起こったのか分からない、という風に互いの顔を見合わせ、それから。

「このガキ!」

 怒りも露わに少年に飛びかかった。しかし、無骨な手は少年を捕らえられず、虚しく宙を切る。

「やなもん見せるんじゃねえよ、おっさんたち」

 小鳥のような動きで攻撃をかわし、少年は笑った。息一つ乱していない。彼はなにごともなかったかのように、男たちに背を向ける。そこをめがけて、首領格が懲りずに剣を繰り出した。今度は本気である。明らかに殺気をはらんでいる。切っ先が狙うのは、少年の心臓。一突きで殺そう、そう思ってのことだろう。男は手に伝わる肉の感触を予感し、顔をほころばせる。

 けれども。その思いは、成就しなかった。

 目にも留まらぬ速さで白刃が煌めき、その軌跡を辿るように真紅の霧が舞う。瞬きをする間もない。続いて鼻を突く、異臭。血の匂い。生暖かい液体を頬に受け、首領格は動きを止めた。刹那、子分どもが声を上げる。大の男に似つかわしくない、何とも情けない金切り声であった。

「うわぁぁ!」

 首領格の剣が、腕ごと飛ばされていた。ナマクラは先が砕け、近くの塀に刺さっている。毛だらけの汚らしい腕が、剣の束からにょきりと生えていた。その光景に、当の本人は声も出ない。へたへたとその場に座り込んだ。よくもアニキを、と血気盛んな一人が応戦しかけたが、血刀を下げてたたずむ少年の姿にひるみ、一歩退いた。

「ありゃ」

  少年は困ったように、心底困ったように眉を寄せた。多分、背後からの殺気に体が反応してしまったのだろう。これは自分の意志ではない。そういった表情をして、彼は首領の腕を拾った。

「すぐつければ、くっつくよ。たぶん」

 言って剣ごと放り投げる。男達の間から、また悲鳴が上がった。

「どうした?」

 まずいことに、騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。彼らは腕を切られた水夫と、そのまえに立ちつくしている少年を見て、事態を察したらしい。喧嘩だ、と誰かが叫んだ。ざわめきが更に大きくなる。

 少年は、剣に視線を走らせた。そこには血糊がべったりと付いている。彼は息を呑んだ。自分が圧倒的不利な立場に置かれたことに今更ながら気づく。このままでは、群衆に何をされるか分かったものではない。

(冗談じゃない、全く)

 彼は剣を収めた。そうして、人々をかき分け、一目散に逃げ出す。後ろから、ドーリア人だ、という声が聞こえた。それに過剰に反応する人々。血に飢えたルオマの民が、獲物を見つけて勇んで飛んでくるのが分かる。いくらなんでも、その数を全てやり過ごすわけには行かない。ここは逃げるが勝ちである。彼は必死に走った。と。不意に目の前に壁が現れる。煉瓦を積み上げた、かなり高いものである。ここを越えるのはきつかったが、それでも彼はよじ登った。が。下を覗くと。


 川だった。


 滔々と流れる、母なる川、テウェレ。少年は、瞬間ためらった。

「いたぞ」

「あそこだ」

 水夫仲間に先導された行商人達が、手に手に凶器を持って迫ってくる。迷っている暇はない。少年は、川面に身をおどらせた。踊らせた、つもりだった。

「うわわわっ?」

 突如として、真下から船が現れる。ここは、水路だったらしい。しかも、ゆったりと流れてくるのは、貴人の船遊び用の船である。優雅な天蓋が、細身の船体を覆っていた。船頭は空から振ってきた少年に動転し、声も出ない。尻餅をついて、口をパクつかせている。少年は過たずその船に落下した。ご丁寧に天蓋めがけて。

「なんだ?」

 どうやら、お楽しみの最中であったらしい。

 狭い船内に、半裸の男女が同衾している。

 男の方は慌てて顔を隠したが。女性とは、しっかり視線を合わせてしまった。

「ど、どうも」

 あはは、と乾いた笑い声をあげる。彼女は、鋭くこちらを見た。

 緑色の、澄んだ瞳。ルオマ人の翡翠の瞳とは違う。もっと淡くて、もっと儚い。緑玉石エメラルドの瞳。これは、ヘラスの瞳だ。ヘラスの、それもアイオリア人の瞳。

 少年は、暫し言葉を失った。無言で、彼女の顔を見つめる。

 美しい女性だった。アイオリアの女性は総じて美形であるが、彼女はその中でも群を抜いている。棗型の双眸に、整った鼻。口づけを誘う、赤い唇。触れれば折れそうな、細い顎。男なら、誰でも彼女を欲しいと思うだろう。幼さの残る顔立ちの中に、妖艶な魅力を秘めた、あやしの華。顔に似合わぬ豊満な体は、いま、惜しげもなく陽光の下にさらされている。大理石を思わせる、なめらかな肌には、情交の痕がはっきりと残っていた。それを目にし、少年はパッと顔を赤らめる。その変化に、女性は微笑んだ。何とも言えぬ、魔性の微笑みだった。

 男の心を一瞬にして溶かしてしまう、伝説のミルティアの。

 少年は、かぶりを振った。

 女性から視線を逸らすように、くるりと背を向ける。そのまま、派手に飛沫をあげて川に飛び込んだ。



「で? 水浴びしたのか。ご苦労なことだな」

 ブリタニクスは、呆れたように息をつく。

 それもそうだろう。ちょっとでてくる。そういって出かけた『弟』が、いきなり濡れねずみで帰宅したのだから。

 アンフィッサは、ぐっちょり濡れた服を脱ぎ、色の落ちかけた髪を拭いた。乾いた手拭いが、見る見るうちに黒く染まっていく。代わりに彼女の髪は、黒から茶色に変化していった。ブリタニクスが極秘で調達した、というこの染め粉も、やはり水には弱いらしい。それでも完全に色落ちしてしまわないのはさすがだと思うが。



 あの日――この屋敷で初めてブリタニクスと会った日。彼が言った言葉は。

『今日からおまえは、俺の弟だ』

 アンフィッサは耳を疑った。弟。一体どういうことなのだろう。この将校、少しおかしいのではないのか。彼の澄んだ瞳をのぞき込み、アンフィッサは露骨に顔をしかめる。

『あんた、おかしいんじゃないの?』

 しかし、彼は正気だった。少なくとも、本人はそう思っているらしい。ブリタニクスは言う。ドーリア人の、それも少女がルオマを出るのは難しい、と。

 国内にいるドーリア人は、全て奴隷である。奴隷、というのは主人の許可無しには出歩くことすら許されない。ましてや、アンフィッサは剣奴である。剣奴というのは一見華やかではあるが、最も統制の厳しい奴隷だった。大体において、剣奴を国外に連れ出すなどという話を聞いたことがない。剣奴は奴隷主が解放するまで生涯闘い続けなければならない。闘いをやめるときは、死ぬときである。稀に奴隷主の気まぐれで解放されることもあるが、それは本当に極僅かな事例のみである。現にハミルカルは、刺客のまねごとをさせられた上に口封じのために殺害されてしまった。解放という餌の前に、奴隷は弱い。

 ブリタニクスの小細工のせいで、シラクサのアンフィッサは死んだことになっている。しかし、

『堂々とその髪の色でうろつくことはできない。おまえは結構有名人だったからな。顔も知られている。だから、ほとぼりが冷めるまで、姿を変えていたほうがいい』

 これが彼の意見だった。

 髪を切り、それを黒に染める。もともと体型は、少女よりも少年に近かった。シラクサでの教練と、長い剣奴暮らしで、体はすっかり性別を失いかけている。思春期の少女の丸みなど、殆どないに等しい。

 それが幸いして、彼女が男装するのは全く違和感がなかった。

 士官に憧れ、田舎から出てきた遠縁の少年。ブリタニクスは、屋敷の使用人にはそう紹介した。瞳が青いのは、ドーリアの血を僅かに受け継いでいるから。そんなことも言っていたような気がする。

 ともかく。あの日から、アンフィッサはユリウスと呼ばれることになったのだ。



「ユリウス、ねえ」

 口の中で呟いてみる。まだ、しっくりこない。他人の名前であるから、当然ではあるが。

 彼女は、ブリタニクスのお下がりだという少年用の短衣を纏い、赤い革帯を締める。これは、軍人の軽装だった。俗に『ルオマ七将』とよばれる将校の略装は、正絹の短衣に緋色の革帯。同じく緋色の長衣を纏うことになっている。更に、家紋入りの金の腕輪をはめ、その出自の正当性を示さなければならない。この、金の腕輪は父から認知を受けた印である。

 『ユリウス』には、それがない。当然だが、ないということは士官候補になどなれはしない。そこで、ブリタニクスの義弟という形を取る、と。ブリタニクスは決めたらしい。

ここ一ヶ月ほどは、ラトニア語と古典文学、武術など貴族の子弟にふさわしい教育を施されている。教師はブリタニクス本人なのだが、これがなかなか厳しい。中途半端な解答では決して許してはくれないのだ。

「シラクサの人間は、体力馬鹿だと聞いていたけど。本当だったらしい」

 適当に詩を暗唱するアンフィッサを皮肉って、彼はそんなことも言う。失礼な、とムキになるアンフィッサは、既に彼の術中に落ちているのかもしれない。そんなこんなで、彼女はこの一ヶ月のうちに、難解とされる『聖イリオンの落日』をすべてそらで唱えるようになっていた。

「ユリウス。着替えたら、庭に出るぞ。今日はおまえの大好きな、剣術だ」

 言って、ブリタニクスは刃先を潰した剣を彼女に渡し、先に表に出ていった。アンフィッサはまだ湿気っている髪を布で絞り、色落ちが止まったことを確認してから彼の後を追う。彼はおそらく、裏庭に行ったのだろう。実技は大抵そこで行うことになっている。

 彼女は足早に渡り廊下を歩いた。噴水からこぼれる水の音が、小鳥の声とともに静寂をうち消している。のどかな昼下がりだ。こんな日は、庭で甲羅干しをしていたい。ファウスティナ――ブリタニクスの美しい母は、そんな彼女のもとに、手ずから焼いた菓子をもって来てくれるだろう。ファウスティナは彼女らの日課を熟知しているはずだ。剣の稽古が終わった頃を見計らって、差し入れを届けてくれるに違いない。それを、日々の楽しみとしているアンフィッサである。

「おっと」

「うわ」

 いきなり、彼女の思考は破られた。目の前に巨体が立ちはだかる。勢い余ってそこにぶつかった彼女を、大きな手が受け止めた。傷だらけの、太い腕である。アンフィッサは瞬間、父を思いだしていた。シティリャ戦役で、ルオマに殺された父を。

「父ちゃん?」

 そんなはずはない。それでも、アンフィッサは思わず口走っていた。

「おいおい。俺はそんな歳じゃないと思うけどな」

 苦笑混じりにこたえたのは、青年だった。ブリタニクスよりも一つか二つ年長の、やけに体格のいい男性である。荒削りな印象を受けるが、決して醜男ではない。むしろ、精悍な感じがする。だが、浅黒いその顔には、姿に似合わぬ穏やかな笑みがあった。それもそのはず。青年が纏っているのは、文官の略装である。正絹の短衣に、青の革帯。青い長衣。短衣の裾に同色の線が入っているのは、七官の印である。

「ああ、おまえか。ブリタニクスのお気に入りの士官候補ってえのは」

 彼は、大きな手をアンフィッサの頭に載せる。

 染め粉が落ちはしないかと、彼女は内心はらはらしたが。男はそんな彼女の心情を全く気にせず、豪快に笑った。

「似てるよなあ。ブリタニクスの子供の頃にそっくりだ。叔父貴、まじめな顔をして、うまくやったのか」

「似ている?」

 俺が? と、アンフィッサは目を見開いた。青年の緑瞳の中に、彼女の姿が映っている。それは決して、ブリタニクスに似ているとは思えなかった。むしろ、対極にあると言っていい。ブリタニクスは軍人らしく体格もよく、広い肩幅と厚い胸板を持っている。着やせをするのか、優男に見えなくもないが、うすぎぬの中には鍛え上げられた若い体躯が隠されているのだ。それに引き替えアンフィッサは。本当は少女だと言うこともあるが、線が細すぎる。どちらかといえば小柄で、たとえ男だったとしてもあと数年でブリタニクスのような姿になるとはとうてい考えられない。

 容貌のことを言えばこれは一目瞭然で、全く似ているところはない。強いて共通点をあげれば、お互いの顎がそげているところと、奥二重で目尻がつり上がっていることくらいだろうか。この二人をして、似ているとは。この青年、目が悪いに違いない。

 アンフィッサの表情からその考えを読みとったのか、青年は笑いながら手を振った。

「見かけのことじゃない。雰囲気さ」

「雰囲気?」

 雰囲気、と口の中で繰り返す。彼女はブリタニクスの涼しげな表情を思い浮かべた。自分もあのような感じなのだろうか。何を考えているのか、つかみ所のない男。端麗な容姿とは裏腹に、その心の中には途方もない怪物を住まわせているようなそんな気がする男が、自分と似ている。単純とも直情径行とも言われる自分と。彼女は人からはそのように見えているのだろうか。

 アンフィッサにはそれが不思議でならなかった。

「なんていうかなあ。どこかにているんだよな。どこって言われても、わからんが。ま、いいだろ。あいつは口は悪いが、宮廷中のご婦人達の憧れの的だ。そんなヤツに似ているなんてありがたいことだぞ。おまえもそのうち、ヤツのようになるってことだからな」

 青年は、またアンフィッサの髪をぐしゃぐしゃとかき回した。どうもこれが癖らしい。アンフィッサは彼の手をすり抜け、髪を掻き上げた。前髪越しに、巨漢を見上げる。それはそうと、この男は何者なのだ。案内も乞わずに他家に勝手に入り込み、当然のように敷地内を徘徊するこの男は。彼女の訝しげな視線に気づき、青年は苦笑を漏らした。

「おれ? ああ、俺は」

 リウィアヌス、と彼は言った。そうして、本当についでといった形で付け加える。

「ブリタニクスの従兄だ。宜しくな」

 太い腕を差し出してくる。握手を求めているのだ。アンフィッサは彼の右手におのれのそれを絡ませる。ルオマ風の挨拶だ。これは先日、ブリタニクスに習った。習っておいて良かったと、このときばかりは思う。

「けどさ。従兄にしちゃ似てねえな、あんた」

 彼女の言葉にリウィアヌスは吹き出した。もっともだ、とおのれの頬をはたきながら

「俺の父が、ヤツの母上の兄でな。けど、叔母上とは、父親が違うんだ。まあ、いわゆる異父妹ってヤツだな」

「イフマイ?」

 ラトニア語だろうか。アンフィッサは首を傾げる。どうも異国の言葉は分からない。不審そうに眉を寄せる彼女にリウィアヌスは

「俺の祖母は、父を産んだあと再婚したんだ。その相手が先代の国王でな」

 つまり。先代の国王が、部下の妻を取り上げたのだ。前警備部長官ユウェナリスの妻・ロリアは、リウィアヌスの父を家に残し乞われるままに国王の后となった。のちに国王との間に、ブリタニクスの母・ファウスティナが誕生したのである。故に、ファウスティナは王女であり、リウィアヌスの父の妹でもあった。アンフィッサにはとうてい理解のできぬ所行だが、この時代このようなことはさして珍しくはなかった。部下の妻であれ婚約者であれ、気に入れば取り上げる。飽きれば捨てる。特権階級の男は皆そうであった。

 たとえ国王の力が弱くとも、一応は国家の長である。彼のわがままとも言える行動も、暗黙のうちに認められてしまうのだ。ルオマは王政を敷いてはいたが、その実政治は共和制に近い。

 ルオマの政治を動かしているのは、執政官と呼ばれる人々である。決して王家ではない。王家は他の貴族とは一線を画し、別格扱いとされてはいるが、政治に関わることは原則として許されなかった。形式的には王家を頂点にいただいている。その下に、七将、七官に分けられた十四人の執政官が存在するのだ。国政及び外交の重要事項は全てこの執政官会議で決定される。王がするべきことはその決定通知に印章を押すことだけだった。それ以外は何一つない。

 七将は文字通り将軍である。七官は、文官。それぞれに世襲制ではなく、家柄・実績等を考慮して、会議でその進退を決定する。ブリタニクスもリウィアヌスもそうして選出された。ブリタニクスは最年少の執政官である。

「じゃ、ブリタニクスって王様の甥っ子ってこと?」

「そうなるな」

「うそだろぉ」

 彼が王族。しかも現国王の実の甥。その義理の弟となる彼女は、国王の縁戚と言うことか。

「なんだかご大層な話だな」

 眉を寄せるアンフィッサに、

「それほどのことでもないさ」

 リウィアヌスは例の如く、豪快に笑った。

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