【1】七つの丘の街/偽りの解放(5)
いつまで。いったい、いつまでこうして漂っていればいいのだろう。
いままで、何日こうしていたのだろう。
広がる青い闇。持続的な浮遊感。だが、不思議と違和感はない。むしろ、とても懐かしい気がする。
この青い広がり。海に似ているのだ。シラクサの海に。空よりも深く、青玉石よりも淡い青。ドーリア人の瞳の色だ。
「ドーリア人は、果てしない旅を続けていた」
「その果てに、海を見つけた」
「ドーリアの知る海は白く、常に凍てついていた」
「ドーリアの瞳は、海への憧れ」
「温かく、凍らぬ常春の楽園への」
「永遠の、憧れ」
海はそうやって人に歴史を語ってきた。ドーリア人は、それを解することのできる民族だといわれてきた。同じヘラス人でも、アイオリア人とは違う。太陽の祝福を受けた黄金の髪と、海色の瞳。これが中つ海の覇者の印だと、シラクサの人々は信じていた。
しかし。ドーリアは海の民ではなかった。海が愛し、受け入れたのはカルタギア。黒い髪と黒い瞳、褐色の肌を持つ、さすらいの一族。国を追われた王女が建てた小都市が、ドーリアの代わりに海の女王となっていた。
そして。国を滅ぼされたイリオンの皇子が建国した、ルオマ。その国は今、中つ海の覇権を得るために牙を研いでいる。
さすらいの一族が、旅路の果てに見つけたもの。
それが同じ楽園ならば。
なぜ、ともに暮らさなかったのか。
●
蝋燭のやわらかな明かりが揺れている。
気がつくと、そこは豪華な調度品に飾られた部屋だった。ロベナ杉で作られた鏡台と、象牙のはめ込まれた飾り棚、金銀の細工を施した椅子。視界に映る卓子には、見事なロドンの花が飾られている。先程から部屋に漂う甘い香りは、この花のせいだったのだろう。
おそらくここは、貴族の部屋。ルオマ人の館に違いない。
アンフィッサはゆっくりと視線を巡らせた。
寝台を覆う薄布は、光を濾過し、怪我人に負担をかけないよう配慮がなされている。まさかと思って体を探ってみれば、上半身には包帯が巻かれていた。と、いうことは。助かったのだ。あのとき負った傷は致命傷ではなかった。しかし、ここは一体どこなのだろう。
奴隷主の家、というわけでもあるまい。奴隷主であれば、いくら稼ぎ頭でも奴隷にこんな待遇はしない。誠意を見せたところで、胡散臭い医者を呼んで、効きそうもない薬を塗らせるだけだ。
(くすり?)
そういえば。鎮痛剤でも飲まされているのか、傷の痛みは殆どない。彼女は試しに、そっと半身を起こした。
「つっ」
僅かに背中が痛んだが、あれだけの傷の割には痛みがない。アンフィッサは傍らの椅子にかけてあった生成の短衣を羽織ると、慎重に床に降り立った。そのまま、足音を忍ばせ廊下にでる。
「う、わぁ」
そこからは、庭園が見渡せた。ヘラス風の柱が幾本も建ち並び、それらに絡みつくようにして数種類の花が咲き乱れている。沼と呼んでもいいほどの広い池が柱の間に造られ、そこから小川が流れ出していた。池の畔に経つ乙女像の指先からは、清水が留まることを知らぬげに溢れている。
水の都。ルオマのことを人はそう呼ぶが、彼女は初めてその意味を実感した。
どことなく、アクラガスの街を思わせる、清爽とした光景。彼女は白亜の柱にそっと手を触れる。こうしているとまるで、シティリャにいるようだ。軍事教練に明け暮れるシラクサも、私的なところでは、雅やかであった。簡素を好むと言いつつも、アイオリアの芸術を尊んだ。勝者こそが正義、敗者は勝者の奴隷となることが当たり前、という殺伐とした時代にあって、まさしくアクラガスは憩いの街であった。
それを潰したのは、ルオマだ。徹底的に破壊し、草も生えない荒野にしたのはルオマ人たちだ。だから彼らは野蛮だと、そう信じていたのに。これは一体どういうことなのだろう。この館の主が、たまたま優雅な趣味を持っているのか。
アンフィッサはかぶりを振った。ルオマ人だからといって、全てが悪人ではない。あの、闘技場で出会った夫人は、彼女を助けようとしたではないか。ああいう人物もいるのだ。ルオマ人、とひとくくりにしてはいけない。そう考えて、彼女はふと思いついた。
ここは、あの夫人の館ではないか。彼女は辺りを見回した。
と。
ほんの5パッススほど先に、人影が見えた。彼は長身を柱にもたれかけさせたまま、じっと目を閉じている。細身の体の割には筋肉が無駄なくついており、素人目にも一目でわかる屈強の剣士の体躯だった。しかも、身に纏っているのは軍衣。正絹の短衣の上に緋色の長衣。これは彼女ですら知っている。ルオマの高級将校の衣装だ。白い短衣の裾に二本の緋線は、確か更に上の階級を示すはずだと思ったが。彼はアンフィッサの気配に気づいたのか、不意にこちらに向き直った。
「やあ」
翡翠にも似た、くすんだ緑色の瞳がこちらを見ている。アンフィッサはあまりにもまっすぐなその視線に圧倒され、暫し言葉を失った。
「あ。あの」
彼女はごくりと唾を飲んだ。青年の、彫刻の如く整った顔が僅かにほころぶのがわかる。彼は口元に微笑をたたえ、小声で言った。
「やあ。お目覚め?」
「……」
とっさになんと答えて良いのかわからなかった。ひく、と喉が鳴る。軍衣姿の青年は、組んでいた腕をほどき、柱から離れた。そして。そのままこちらに向かってくる。こちらに。アンフィッサのもとに。
「あ」
日頃の習性で腰に手をやったが、当然そこには何もない。今更気づいても遅いのだが、丸腰だったのだ。げっ、と声を上げて後ずさる彼女の肩を軽く捕らえ、青年は笑った。
「安心しろ。とって喰やしないさ」
緑瞳がいたずらっぽく輝いた。眩しいくらいに澄んだ瞳。血で曇った所など少しもない。これがルオマ人の、しかも軍人の目なのだろうか。彼女は改めて驚異の目で彼を見上げた。
「まず、礼を言おう。ありがとう。母を助けてくれて」
「え?」
と、言うことは。この青年は、件の夫人の息子なのか。それにしては、歳が近すぎるような気がする。彼女がそういうと、青年は吹き出した。
「そんなこというと、あのひと喜んじまうぜ」
夫人はああ見えても、もう四十を越えているという。そうして、この青年は二十二歳だと言った。
「いつもは俺も一緒に行くんだけど。あの日はどうしても用事があって。もう少し遅れていたら、危ないところだった」
青年の話によると、彼ら親子はゆえあって刺客に狙われているらしい。あのようなことは日常茶飯事。
しかし、公然と人前で狙われたのは初めてだという。ついに相手も本気になってきた。青年はぽつりと小さく呟いた。
「悪いな。こんなことで巻きこんじまって。痛い思いまでさせたし」
「いや、別に」
それは構わない。それよりも、ハミルカルが。彼を捨てゴマに使った輩が許せない。アンフィッサは拳を奮わせた。暗殺の黒幕がわかれば、必ず復讐してやる。でないとハミルカルも浮かばれない。
「ところで」
青年はおどけたように首を傾ける。「名乗るのが遅れたな。俺は、ブリタニクス・ルクレティウス。ルオマ七将の一人だ」
「ルオマ、七将?」
アンフィッサは一気に青ざめた。七将といえば、王に次ぐ特権身分ではないか。この若さでそんな高い地位に就くとは。
(俺と六つしか違わないのに。なんて差だよ)
かたや元農民の剣奴。かたや名門の子息。生まれによってこれほどの差が生じるとは。世の中は不幸にできている。
「わりとね」
ブリタニクスは、ぷっと吹きだした。
「それで、おまえの名前は」
「アンフィッサ。シラクサの、アンフィッサ」
答えると、ブリタニクスは意味ありげに目を見開いた。いたずらをしかけた子供のように、茶目っ気たっぷりに。彼はその事実を告げたのである。
「シラクサのアンフィッサは死んだ。闘技場での傷がもとで、手当ての甲斐もなく、な」
「なんだって?」
「だから、ここにいるのは、別人だ。そう、おまえは……」
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