【1】七つの丘の街/偽りの解放(4)

 それから何が起こったのか。

 

 全ては夢の中の出来事のように、ひどくゆっくりと動いていった。

 なぜ、ルオマ人を助ける。そのようなことをハミルカルが叫んだのは覚えている。

(ルオマ人だからって。無差別に殺していいわきゃないだろ)

 アンフィッサは渾身の力を込めて、ハミルカルの剣を払おうとした。獲物さえ取り上げてしまえば、百戦錬磨の傭兵相手でも勝算はある。いや、作れる、と思う。勝算はなければ作れ。それが、シラクサ時代、教練中に受けた訓示だった。しかし、ハミルカルは今までの相手とは違った。さすがは、奴隷主に目をかけられるほどの男。アンフィッサの攻撃などものともしない。逆に剣をはじき飛ばされ、脇腹に蹴りを食らった。

「げふ」

 こみ上げる胃液を吐き出し、アンフィッサは客席に倒れ込んだ。

 そこにいた貴族の娘は、はしたない声を上げて身をかわす。そのせいで、アンフィッサは椅子に叩きつけられる。石造りの椅子のもてなしは最悪だった。したたかに肩を打ち付け、彼女は悲鳴をかみ殺す。涙ににじむ視界に映るのは、悪鬼のごときハミルカルの横顔だった。彼は再び貴婦人に襲いかかる。斬られる、と思った瞬間、夫人は華奢な短刀で切っ先を交わしていた。緑の瞳が、ハミルカルを睨み付ける。

「誰の命令ですか!」

 凛とした声が響いた。ハミルカルは、ふっと眉をひそめる。何か言いたげに口元を歪め、それから徐に剣を振り上げた。今度こそ仕留めるつもりだろう。アンフィッサは、痺れた利き腕を伸ばし、床に転がる剣を拾った。殺させてはいけない。夫人を殺しても、ハミルカルは逃げられない。多分、彼も殺される。だから、早く

「おっさん、逃げろ!」

 アンフィッサの言葉に、ハミルカルの動きが止まった。止まって、一瞬彼はこちらを見た。黒い瞳が何かを訴えかけている。彼の視線の先には、あの腕輪があった。アンフィッサは無意識のうちにそこに指を触れる。ハミルカルは、頷いた。頷いて。

「が……はっ」

 血反吐を吐いて、その場に倒れ込んだ。アンフィッサも夫人も、巨体が崩れていく様を声もなく見つめていた。冷たい石床に転がる躯には、剣が突きたっている。これが、ハミルカルの命を奪ったのだ。アンフィッサはごくりと唾を飲んだ。人が死ぬ瞬間を見たのは初めてではない。だが、これは。あまりにも突然すぎる。彼の名を呼ぼうにも、声が出なかった。喉の奥で、風がひゅうひゅう唸るだけである。まるで、そこにある遺体が自分の体であるかのような、奇妙な錯覚にとらわれた。

「お怪我はありませんか」

 声に顔を上げれば、警備隊の服装をした男が二名。そこに佇んでいた。白い正絹の短衣に、赤い長衣。血の色だ。アンフィッサは、そのまがまがしき二人組を睨み付けた。彼らがハミルカルを殺したのだ。

(ちくしょう)

 怒りがこみ上げてくる。彼女は剣を握る手に力を込めた。

 殺してやる。自然、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。殺気を押さえて立ち上がろうとする彼女の目の前で、警備隊の一人が夫人に手を伸ばした。夫人は小さく礼を述べて、その手を取ろうとする。その影で。今一人の男の手が動いた。細い銀光が、夫人に向かって放たれる。短刀だ。思った刹那、アンフィッサの体は動いていた。

「危ない」

 差し伸べた右腕に、それは吸い込まれていった。

「くっ」

「あなた!」

 夫人が、パッと身を翻す。警備隊士は鋭く舌を打ち、揃って抜刀した。場内にまた、悲鳴と怒号がわき起こる。女性は逃げまどい、男達はその影でこっそりとこの珍事を見物していた。幾人かは、闘技場の主催者に事態を知らせに、供の奴隷を走らせている。

「ふざけんじゃねえぞ!」

 アンフィッサは腕から短刀を引き抜いた。鮮血が舞い、鉄の匂いが鼻を突く。慣れ親しんだ光景。彼女は己の血に染まった短刀を、偽の警備隊士に投げつける。それを剣で弾いた隙を狙い、彼女は相手の懐に飛び込んだ。そのまま全体重をかけて切っ先を彼の腹にねじ込む。ぐちゃ、と耳障りな音がして、肉を断つ生々しい感触が掌に伝わってきた。アンフィッサは、渾身の力を込めて、剣を回転させた。

 この男だ。この男が、ハミルカルを殺した。

「ばかやろおお!」

 多分、そう叫んでいたのだろう。何を言ったのか、自分でもわからない。獣にも似た声を上げて、彼女は男の体をかき回した。生暖かい血が、顔に飛び散る。視界が赤く染まっていく。それでも彼女は、動きを止めなかった。目の前の男が完全に事切れても。愚かな作業をやめようとはしなかった。

「このガキ!」

「やめなさい!」

 二つの声に、彼女が振り返ろうとしたとき。背中に激痛が走った。右肩から左の腰に。焼け付くような感覚がある。

 斬られた。

 直感的にそう思った。ふっ、と視界が暗くなる。赤から、黒へ。応戦しようと剣を振り上げたが、それは無駄に終わった。力が入らない。剣は意志を持っているかのように、手からすり抜けていった。鋼と石とがぶつかる冷ややかな音が、やけに長く尾を引いた。

(殺される)

 思って、瞬間目を閉じた。だが、すぐにでも襲いかかるはずの刃は、なかなか襲ってこなかった。彼女は、そっと目を開く。その青い瞳に映ったものは、赤い、否、緋色の長衣であった。金の縁取りの入った、正絹の長衣。風になびくそれは、冥府の神の衣装にも思えた。と。その、冥府の神がゆっくりとこちらに向き直る。

 澄んだ緑色の瞳。翡翠を思わせる双眸が、まっすぐに彼女を見た。

「あ」

 こほっ、と咳き込むと同時に、口中に血の味が広がった。口元を押さえる掌に、赤い染みが幾つもこぼれる。死ぬ。今まで思いもしなかった恐怖が、彼女を襲う。くらり、と体が傾いだ。冷たい石床が、齣送りのように近づいてくる。

 終わりだ。なにもかも。すうっと意識が遠くなる。


 完全に意識がなくなる前に、がっしりとした腕に抱き留められたような気がしたのは、幻覚だったのかもしれない。耳元に、低く囁かれたヘラス語も。


「ありがとう」


 そう。あれは、夢に違いない。

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