【1】七つの丘の街/偽りの解放(3)
「あちー」
アンフィッサは、闘技場内の噴水の上に身を乗り出し、溢れる水を喉に流し込んだ。悔しいが、ルオマの水は旨い。源泉が、ここから遙か奥地の清浄なる湧き水だというから、それも無理はないだろう。彼女はこぼれ落ちる金髪を片手で押さえながら、ひたすら喉を鳴らした。
今日の試合は、この後一つ。また、どこか異国の男女を斬り捨てなければならないのだろう。でなければ、自分がやられる。死にたくなければ人を殺せ。これが、剣奴の鉄則だった。
「よお、アンフィッサ」
背後から声をかけられる。誰かと思えば、ハミルカルだった。今日はいつになく晴れやかな顔をしている。ごつい印象を与える髭面も、青年のそれのように爽やかだ。何か良いことでもあったのだろうか。アンフィッサは口元を手の甲で拭いながら、彼を見上げた。ハミルカルは、上機嫌で彼女の頭をぽんぽんと叩く。こんな彼の表情を見るのは、多分初めてではないか。
どうしたんだ、と尋ねるアンフィッサに、ハミルカルは意味深長な笑みを向けた。彼は徐に腕輪を外すと、それを彼女の華奢な腕にはめる。これは確か、彼が妻から貰ったといって大切にしていたものではないか。絶対死なない護符だとも言っていた。
「やるよ、おまえに。大切にしろよ」
「おっさん?」
「俺にはもう、必要のないものだ」
彼は解放されるという。剣奴を解放され、自由市民になるのだと。奴隷主である商人からじかに言われたのだそうだ。奴隷はその主人の意向次第で生かしも殺しもされる。主人が、気にくわないから殺せ、といえば抵抗も許されずに殺される。解放してやるから、どこへでも好きなところに行け、といわれれば、その通りにしても良いのだ。どうやら、今回は主人の気まぐれが良い方に向いたらしい。ハミルカルは、彼の所有する剣奴の中でも中堅どころに位置している。さして華やかな活躍をするわけでもなく、かといって弱いわけでもない。適当に見せ場を作り、適当に観客を楽しませる。それなりに贔屓もついている、奴隷主にとってはそこそこ役立つ駒だった。
「おまえみたいに人気者じゃないからな。おまえは、やめたいったってやめさせてくれないだろうよ」
シラクサ出身の少女剣士。
それだけで観客の興味はそそられる。更にルオマ人好みの派手な闘い方をするとなれば、客を呼べる剣奴として奴隷主どころか闘技主催者の方も手放す気はないだろう。アンフィッサは、迷惑だといわんばかりに肩をすくめた。
「で、もう今日から解放奴隷かい? おっさん」
「いや」
ハミルカルの表情が曇る。
「その前に仕事がある」
「しごと?」
なんの仕事だろう。アンフィッサは眉をひそめた。上目遣いに、ハミルカルの目をのぞき込む。それを避けるように彼は視線を逸らした。なにかある。アンフィッサの勘が告げていた。
「仕事がうまくいったら、解放だ。アンフィッサ、俺は」
いいかけて、彼は口をつぐんだ。ハッと後ろを振り返る。高い靴音を響かせて、闘技場職員がやってきた。アンフィッサを連れに来たのだ。もう、控え室に詰める時刻なのだろう。
彼女はハミルカルの態度に不審を抱きながらも、仕方なくその場を去った。肩越しに振り返ると、彼は小さく手を振った。表情は晴れやか。だが、その目は。暗い光を帯びている。まるで試合に赴くときのように、ひたひたと殺気が上ってきたのである。
試合になっても、アンフィッサの頭からハミルカルのことが離れなかった。
控え室から、白砂を敷き詰められた会場へ。闘技場を囲む円形の客席は、今日も満員である。席の殆どが自由民と呼ばれる、ルオマの一般市民であるが、中には王族・貴族、聖職者喉も混じっていた。貴賓席から、珍しい動物でも見るように興奮して身を乗り出している脂性の中年貴族等が見えてしまったひには。ずっしりと心が重くなる。幸いにして、今日はそんな人物はいないのだが。
(あれ)
不意に。貴賓席の女性と目があった。ルオマ人特有の、深い翡翠の瞳がこちらを見つめている。彼女は目が合ったせつな、にこりと笑った。
美しい女性である。歳は、三十を半ばほど越えたくらいだろうか。年齢相応の落ち着きをそなえた女性だ。清楚、という形容が一番にあっているのかもしれない。アンフィッサは、彼女に見とれた。見とれた、というよりも目が離せなかった。
試合開始を告げられ、対戦者の男が飛びかかってきても。彼女は無意識に応戦していた。機械的に剣を突き出し、優男のそれを払う。今日の相手は、片手でも倒せそうな貧相な青年だった。そんな油断があったからかもしれない。彼女は、上の空だった。試合に対しては全く身が入っていない。
それは、貴婦人の側に近づく男のせいでもあった。
(おっさん?)
ハミルカルだ。ハミルカルが、貴婦人に近づいていく。まっすぐ、わき目もふらずに。貴婦人の傍らに控えていた侍女らしき少女が、異変を察知して主人を守るように立ち上がる。その周囲でざわめきが起きた。
「おっさん!」
対戦相手の剣を払い落とし、彼女は叫んだ。叫んで、剣を掴んだまま客席に駆け寄る。今度は別の意味でざわめきが起きた。剣奴が客に斬りかかってきたと思ったのだろう。最下層に座っていた人々は、悲鳴を上げて逃げ出した。
混乱の中、アンフィッサは階段を駆け上がる。その遙か前方でハミルカルは剣を抜き放ち、貴婦人に斬りかかった。侍女がそれに応戦するが、所詮剣奴の敵ではない。あっさりと切り伏せられた。真紅の鮮血が宙に散る。侍女は声も立てずに頽れた。
「ユリア!」
貴婦人が叫んだ。彼女は侍女が取り落とした懐剣を拾い上げ、ハミルカルを睨みつける。しかし、彼は全く頓着せずに、夫人に向かって剣を振り下ろした。当然、逃げる暇はない。夫人は彼の剣の錆になると、誰もが思っていた。が。
人々の耳に飛び込んできたのは、鋼のぶつかり合う不快な音だった。
「アンフィッサ?」
ハミルカルは、己の凶刃を止めた人物を、信じられぬといった目で凝視した。
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