第2話

 蛇口に手を伸ばすと、横から冷たい風が吹いてきて、悠は思わず肩をすくめる。

 外の空気は、もうすっかり秋だった。

 悠はあの後、人目を避けるために、校庭の隅の流し場まで歩いた。

 蛇口から出た水にそっと手をかざすと、案の定冷たい。屋外にしたのは失敗だったかもと思いつつ、悠は流し場の塀に身を隠すようにして、上履きを洗い始めた。

 トマトはすぐに落ちたけど、その下に隠れていたガムが厄介だった。

 素手ではもちろん取れない。水圧で押し切ろうとしてもやっぱりダメ。コンクリートの角に擦り付けてもダメ。ふざけて空中でふるふると振ってみても、ダメ。

 そんなことを永遠と続けていると、次第に、

 ーおれ、なんでこんなことやってんだろ

 という気になっていく。

 最後に持ってきた木の枝が折れると、悠は地面にお尻をつけて、うなだれてしまった。

 最近、いや最近に限ったことじゃないけど、悠自体も、なんかもうダメだった。

 体調は悪くないのに、何に対してもやる気が起きない。勉強もゲームも、そんで人付き合いも。音楽だけはちょっとはまるけど、結局すぐに冷めてしまう。

 昔は、声変わりが始まる前くらい昔は、もっと色々うまくいっていた気がする。いつから変わってしまったのか、今となっては分からない。

 胸から深いため息がもれると、なんの目的かも分からないチャイムが鳴った。

 またそれに合わせて、遠くの方から、なにやら威勢のいい掛けも聞こえてくる。

 流し場の塀からちらっと校庭を覗くと、野球部がランニングを始めていた。

 この寒い中偉いなあと感心しつつ、悠はその様子をしばらく眺めた。

 ランニングの後はキャッチボールが始まった。二人組の間を、ボールが何度も行き交う。選手は心地よくグローブを鳴らしながら、捕っては投げ、投げては捕ってを繰り返している。

 その様子を眺めながら、自分が野球をやっていた頃を思い出していた。

 当時はうまいって言われてたんだけどなと、誰に言うでもない自慢をこぼしてみる。

「野球したいな」

 気づいたら、声に出ていた。

 でも、と頭の中で続ける。やれる相手なんて父親くらいのものだし、高校生にもなって、さすがにそれは恥ずかしい。

 ふっと短いため息ついた後、せめて、頑張る姿勢だけは見習おうかなと、再び上履きの汚れに意識を戻した。



 悠はそれから、上履きが誰のものかも忘れて、必死に汚れと格闘した。お陰でガムは徐々にはがれ始め、あと少しで取れるところまできた。しかし、今度はその集中のせいで、悠は向こうから来る人の影に気づかなかった。

「あれ?はるくん?」

 唐突に名前を呼ばれて、悠は振り向いた。

 するとそこには、一人の女の子が立っていた。悠を見て、きょとんと首を傾げている。

「…って、西条さん?!」

 なんでここに、と続けようとしたけど、それは彼女の格好を見れば明らかだった。

「そうだけど、そんなに驚かなくても」

 そう言って笑う彼女は、赤のジャージを上下に着て、腕には大量のボトルを抱えている。

 西条ゆいは、野球部のマネージャーだった。

「何してるの?こんなところで」

 ゆいが聞いた。

 悠が「上履き洗ってて」と答えると、ゆいはそうなんだと頷いて、悠の手元を覗き込んだ。

「ってその上履き、はるくんのじゃないの…?」

「え?」

 悠はとっさに上履きに目を落とした。するとその側面に、小さく「岡島」と書いてある。

 悠は答えに詰まった。嘘は言いたくないけど、かといって、本当のことなんてもっと言えない。

 ゆいの目がじいっと悠を見つめている。鼓動が、答えを急かすように速くなる。早く、早く何か言わないと…

「お下がり」

「え?」

「そう、いとこのお下がりなんだよ、これ。自分の前に無くしちゃって」

 結局、嘘をついた。自分でも驚くほどスラスラ出た。笑顔も、多分うまく作れたと思う。

 言ってすぐに、上履きがいとこのお下がりなんて聞いたことないぞと思ったが、ゆいが「そうなんだ」と言うのを聞いて、ひとまず安心した。

 しかしゆいは、それ以来一言も喋ることなく、黙ってボトルに水を入れた。

 二人の間に長い沈黙が流れる。

 おかしい、悠は思った。いつもならゆいの方が話題を振ってくれて、悠は聞き役に回るのがほとんどなのに。

 ー嘘つき

 突然、頭の中で声が響いた。

「え?」

 悠が驚いてゆいの方を見ると、ゆいもこちらを向いた。

「何か言った?」と聞くと、なぜか凄い勢いで首を振って「何も」と言った。

 それから再び沈黙が流れる。しかも今度は、妙な重苦しさを伴って。

 悠はそっとゆいの顔を覗いたが、何を考えているのかは分からない。それが何故か無性に怖くて、逃げ出したくて、悠は必死に汚れを削った。

 するとその思いが通じたのか、あれだけ頑固だったガムは、ものの数秒でぽろっと取れた。

 ーやった、これでもう…

 悠が「終わったから、行くね」と立ち上がり、歩き出そうとした、その時だった。

「それ、本当にはるくんの?」

 心臓の音が跳ねる。ゆっくり振り向くと、ゆいの目が、真っ直ぐにこちらを見ている。

 ばれていた。最初から、信じられてなかった。

「ちがうけど」

 悠はとっさに否定した。

 やっぱり、嘘が下手すぎたんだ。心拍数が上がる。どうしようと頭で連呼する間に、ゆいは構わず続ける。

「岡島ってさ、二組で有名な不良だよね。だから、もしかして」

「ちがうって」

 ほとんど無意識に、遮った。

「それうちのお母さんの、旧姓なんだ。だから、違うよ」

 今度は、上手く笑えなかった。

 ゆいが何か言おうとしたが、悠はその前に歩き出した。歩く速度はどんどん速くなっていき、その分秋の風が強く当たって、目には微かに涙が浮かんだ。最後はほとんど走りながら、悠は校庭の縁を抜けていった。

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