僕とぼくとボク
あずき
第1話
チャイムの音で眠りから覚めた。まだはっきりしない意識の先で、何やら声が聞こえてくる。
「じゃあ、次回までにP〜の問〜と問〜、やっといて下さい」
宿題の話だと思ったけど、適当に聞き流しておいた。日直の気のない挨拶が続く。
ー気をつけ、れい
それを合図に、椅子を引く音がけたたましく響いた。あちこちから話し声が聞こえて、教室はあっという間に騒がしくなる。
そんな中、悠(はる)はゆっくりと体を起こして、目をぱちぱちさせていた。
ーまた寝ちゃったのか
時計に目をやると、時刻は2時50分。5時間目が終わった。科目は数学、今週の最終授業だった。
まぁおれ文系だしいいよね、と気楽に悠はあくびをした。それから枕にしていた教科書を取り、席を立つ。
後ろを振り返ると、教室にはまだ人が多く残っていた。うちの高校は部活をやってる人が少ないから、放課後は大抵の人が教室に居座って、長々と雑談を楽しむのが常だった。
そんな普段通りの光景を横目に歩き出すと、悠の席とロッカーはちょうど対角にあって遠い。
これだから一番は嫌なんだと悪態をついていると、行く先の通路を三、四人の男子の集団が塞いでいた。
邪魔しないようにと、そっと回り込もうとしたら、そこから不意に、「ラッド」という言葉が聞こえて、とっさに耳を傾ける。
「だから、ラッドの新曲聴いたのかって」
「いや知らねぇって」
「今聞いて、今。マジ最高だから」
ー分かる
心の中で頷いた。RADWIMPSの新曲、悠も昨日聞いた。感動的なサビと、幅広く共感をよぶ歌詞、あの曲は流行ると思う。
悠はそのあとも、やはり野田洋次郎は天才だ、などと頭で唱えていたが、そのまま声をかけることなく通り過ぎた。
背中で、「だれかラッド好きなやついねぇのかよ…」と嘆く声が聞こえる。一瞬、振り向こうかと思った。でも、
ー俺が話したってどうしようもないだろ
そう呟いて、そのままロッカーに向かった。
ロッカーに教科書をしまった後、悠はリュックから弁当を取り出して、遅めの昼食を取った。昼休み、担任から雑用を頼まれて、弁当を食べる時間がなかったのだ。
食べている間、周囲の喧騒に背を向けるようにして、窓の外を眺めた。
するとそこには、厚い雲の下で灰色のビルが、でこぼこと立ち並んでいる。その殺風景な街並みに、悠は未だに違和感を覚えていた。
悠がこの市に引っ越してきたのは、小五の終わり、今から5年半も前のことだ。前の町はこことは違って、いわゆる田舎だった。
小学校からは一面の田んぼが見えた。夕方になると、田んぼにはった水に、夕日が照り返してきれいだったのをよく覚えている。
そんな遠く昔の風景を思い浮かべながら、悠は一人黙々と箸を動かした。
二つ目の卵焼きをつまもうとした時、背後で大きい笑い声が起きた。
驚いて振り返ると、右後ろに十数人ほど大きな集団ができている。派手な茶髪がちらほら見えて、柄が悪そうなのはすぐにわかった。その周囲からは、いつのまに人が消えていて、他に残っているのは悠だけだった。
これはまずい。悠は思った。これでは得意のステルススキルも期待できそうにない。
状況を確認すると、音を立てないよう注意を払いながら、急いで残りのおかずを口にかき入れた。
卵焼き、ほうれん草にキンピラゴボウと、順調におかずは無くなっていく。
しかし、これで最後というところで、ミニトマトがつるりと箸の上を踊った。あっ、と声が出る間に、トマトは勢いそのまま、まっすぐ四時の方向へと転がっていく。そしてその先にあるのはすなわち…
ーベチャ
嫌な音がした。
「あ、なんだ?」
一人のガタイのいい男が、上履きを脱いでその裏を見る。そこには、悠の位置からもはっきりわかる、鮮やかな赤色が張り付いていた。
ー終わった
遠くなりそうな意識の先で、それを見た仲間たちがしきりに笑っている。大爆笑だ。悠ですら、笑うしかなかった。自分の鈍臭さに呆れて。
しかし、踏んだ当人だけは違った。仲間たちに「うるせえ」と言い放った後、血相を変えて周りを見回している。
悠はとっさに前を向き直り、弁当箱をお腹の前で隠した。こんなの無駄だって分かってる。でも心では、気づかないでと必死に叫んでいた。
背中から、どすどすと足音が近づく。追い立てられるように、鼓動が早くなる。
「おい、これてめぇだろ」
低い声が、頭の上から降ってきて、肩がびくっと跳ねた。おそるおそる振り返ると、上履きが顔すれすれにあって、トマトの酸っぱい匂いが鼻をついた。
「…うん」
なんとか声を押し出すと、上履きが顔から離れて、代わりに男の険しい表情が見えた。
「うん、じゃねえだろ」
「あっごめん」
「…おい、何笑ってんだよ」
「えっ…」
無意識のうちに、悠の顔には、不器用な笑みが貼り付いていた。
「新しいの買ってこいよ」
「いや、さすがにそれは…」
また、笑った。今度は、あはは、と声もこぼれた。
「だから笑ってんじゃねぇよ!」
「…ごめん」
内心では叫びたいほど怖いのに、顔は勝手に笑顔を作る。
ーなんで、今更、こんな昔の癖…
男は上履きを投げ捨てて言った。
「じゃあ今すぐ洗ってこい。そんで新品にしろ」
「…わかった」
足元に落ちた上履きを大人しく拾うと、悠は逃げるようにして、ドアの方へ足早に歩いた。
やっと廊下に出たところで、教室では最後にまた一つ、大きな笑い声が響いていた。
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