第8話 篝火


 夢うつつの中で、誰かの語る声を聞いた。

 とても哀しい話だったような気がする。

 だから、いつしか彼は泣いていた。

 涙がボロボロとこぼれてきた。

 だが、そんな彼を、声の主は冷ややかに笑う。


「同情すること無いんだ。鵺なんかに」



 どれだけ時間が経ったのだろう。芳彦は寒さで意識を取り戻した。肩を抱き、上着の襟を掻き合わせる。吐く息が白く目の前を覆った。

(ここは?)

 視線を巡らせば、そこは見慣れた場所だった。綾織堂。彼が今朝まで宿泊していた宿である。その、玄関に彼は転がっていた。寒いはずである。芳彦はくしゃみを二、三度して、鼻を啜った。どうにかこうにか、記憶が甦ってくる。

 奥宮に続く石段。そこで意識がとぎれていた。最後に見たのは、日下部の顔。その前に見たのは。

「幸信さん!」

 芳彦は、ハッとして傍らを見た。そこに神職姿の幸信が倒れている。彼はまだ意識を失っているのか、固く目を閉じたまま。呼吸も浅く、顔色も悪い。悪いことには、日下部に斬られた右腕から大量に出血している。芳彦は、幸信の頬を軽く叩いた。冷え切り、強張った肌はこちらの体温まで奪っていきそうである。彼は仕方なく幸信の体を抱え上げ、床を引きずるようにして、手近な客室に引きずり込んだ。そこで、とりあえず火をおこす――そう思ったものの、ここには火鉢しかない。炭が燃えて部屋が暖まるまで、かなり時間がかかるだろう。

「ああっ、もうっ!」

 芳彦は苛々と部屋中を歩いた。押入を開け、布団をあるだけ引っぱり出す。その上に幸信を乗せ、更に布団を掛ける。とにかく今はこれしかできない。あとは、そう。

 彼は台所に走った。酒があればそれで何とか気付けにはなる。生半可な知識ではあるが、何もしないよりはましだろう。芳彦は手近にあった地酒を手に、部屋にとって帰した。かじかんだ手で栓を抜き、まず自分が飲んでみる。冷え切った酒だが、それでも体が温まる気がする。芳彦はもう一度酒を口に含み、それを口移しで幸信の喉に流し込んだ。

 小さな音とともに、彼の喉が上下する。同時に、幸信が軽くむせた。

「幸信さん」

 呼びかけに、まつげがピクリと動く。唇が何かを告げるように、微かに動いた。

「幸信さんてば」

 耳元で呼びかける。しかし、それ以上の反応はない。芳彦は彼の着物の前をはだけた。鮮血で染まった患部を見やり、舌打ちする。思ったより傷は深そうだった。悪いと思ったが、着物の裏地を破り、傷口に巻き付ける。

「幸信さん」

 芳彦は冷え切った幸信の体を抱きかかえた。



 蝋燭の炎が揺れる。

 これで何度目なのだろう。何度目の成人の儀式? 子供として死んで、大人として生まれ変わる儀式。破壊と再生。人の一生の中で、重要な儀礼を二つも取り込んだ儀式。その中にまやかしの儀式を織り込んでから、どれだけの年月が経つのだろう。

 いつの頃からか、狩谷に住み着いた真火。真火、という名の鵺。人ならぬ人。獣ならぬ獣。人の中にあっても人にあらず、獣の中にあっても獣にあらず。常に疎外されている哀しき生き物。いや、哀しいとは、人が勝手に植え付けたものに違いない。


 ――かわいそうにな。


 男は、感情のない声で言う。


 ――知らなければ、それで済んだのに。知っていたから。素直に死ねなかったのか。かわいそうにな。


 そうやって、この男は、美和子も萌も殺したのか。鵺だから。鵺となる御子だから。それだけの理由で。


 ――鵺は存在したらいけない。どんなに弱くても。どんなに強くても。人が人である限り、鵺との交配は認められない。真火、お前は、そのしてはいけないことをしてしまった。


 いけないこと。なにがいけないのか分からなかった。真火、と呼ばれた存在は、首を傾げる。


 ――村人を救う? お為ごかしにいいやがって。結局、男の精気が目的だったんだろう。


『食事をとるのが、いけないことなの?』


 ――いけないことなんだよ。人が人であるためには。


 蝋燭の炎が揺れる。これで何度目の儀式だろう。もう、長いこと、繰り返してきたような気がする。



 また、眠ってしまったようだった。ふと目を開くと、そこには幸信の横顔があった。彼はぼんやりと天井を見つめている。芳彦は体を起こし、幸信の目を覗き込んだ。

「幸信さん」

 呼びかけに反応はあった。あの、他者を寄せ付けない冷ややかな眼差しが芳彦に注がれる。それを間近に感じ、彼は知らず息を呑んだ。恐怖に似た感情が、じわりとこみあげてくる。

「祭は?」

 起きあがろうとして、幸信は顔を歪めた。傷が痛むのだろう。そういえば、あの後応急処置も何もしていなかった。芳彦は彼の肩を押さえ、強引にとこに戻そうとする。

「そんな体じゃ無理ですよ。僕が代わりにいきます。雪音さんを守ればいいんでしょう? 日下部さんから」

「……」

 雪音、という言葉に幸信は反応した。芳彦の手を払い、強引に起きあがる。彼は手早く身繕いを済ませ、よろめきながらも廊下に出ていった。芳彦は慌ててそのあとを追う。この傷に、寒さは毒だ。そう言いながら袖を掴むと

「あなたには無理です。彼は、普通の人間じゃない」

 真摯な眼差しが帰ってきた。芳彦は目を細める。

「日下部さん、ですか? 彼はいったい」

「あれは、そう、多分。うわさに聞く、鵺狩りです」

「鵺狩り?」

「鵺を狩ることを生業としている人々。鵺であると分かると、容赦なく殺してしまう。それがたとえ、女子供、老人であっても。そうやって、美和子も殺された」

「って……?」

「彼です。美和子を殺したのは。そして、多分。萌や雪音も殺すつもりです」

 美和子が殺された。あの、日下部に。と言うことは、ともに死体で発見された碓井廣司は。彼も日下部が手に掛けたというのか。握りしめた拳が震えた。日下部は、碓井を殺した。人のいい、一介の研究生でしかない碓井を。芳彦が兄のように慕っていた碓井を。鵺と、美和子と同行していたというだけで殺したのか。

「くそっ」

 芳彦は怒りのままに戸外に飛び出した。折から降り始めた雪が、容赦なく視界を遮る。

 日下部に対する怒り。今の芳彦には、それしかなかった。



「雪音さん!」

 奥宮の社殿。その扉を力任せに押し開ける。中に土足のまま踏み込んだ芳彦を迎えたのは、予想通り日下部晴樹だった。彼は斜に構え、芝居がかった仕種で髪を掻き上げる。

「よく入ってこられたね、学生さん。結界を張っておいたはずだよ」

 日下部の言葉に、芳彦は眉をひそめる。結界。よく、伝奇ものの小説などで耳にする言葉だ。何かの仕掛をすると、その内側には特定の人物しか入れないようになるという。この男は、そんなものを本当に作れるのか。そういえば、石段をあがる途中、宮の周りをうろつく男達を見たような気がする。彼らは日下部の張った結界に阻まれて、奥宮に近づけなかったのか。

(でも、何で僕だけ?)

 訝ったが答えはでない。揺れる視線の先で、何かが動いた。目を見開けば、日下部の腕の中から白いものが滑り出した。

「!」

 人形、いや、それは人間だった。しかも、髪の長い女性。彼女はぐったりと力無く崩れていく。そのまま、床の上に鈍い音を立てて倒れ伏した。

「雪音、さん?」

 蝋燭のほのかな明かりに照らし出された顔。それは、榊井雪音その人だった。幸信によく似た細面の顔は血の気を失い、清廉な双眸は半眼になって虚空を見つめている。

 ただごとではない。芳彦は、彼女に近づいた。雪音は一糸纏わぬ体を惜しげもなく彼の前に晒している。肌を隠すどころか、悲鳴を上げる気配もない。奇妙な違和感を覚え、芳彦は身を震わせた。

「雪音さん」

 彼女の胸には、銀色の針が刺さっていた。アイスピックを思わせる、太く長い針が。それが、無惨にも彼女の命を奪ったのだ。そっと触れた肌は、氷よりも雪よりも冷たかった。先程の幸信の比ではない。生身の人間の、血の通った人間の体ではなかった。

 芳彦はぎこちない仕種で日下部を振り返る。日下部は、それがどうした、とでも言うように肩をすくめた。

「何で、雪音さんを……?」

 乾いた問いかけに、日下部はかぶりを振る。

「何度言わせるんだよ、学生さん。鵺だからだよ。彼女は、鵺の一つ。真火の血を引いている」

「まお?」

「そう。鳥にいろいろな種類があるように。犬にもいろいろな種類があるように。鵺にも種類があるんだよ。学生さん。彼女は、真火。真火は、そう、日本民話で言えば雪女。人の精気を吸って生きながらえる種族さ。特に、若い男のね」

 キン、と耳鳴りがした。芳彦は額を押さえる。嫌な記憶が甦ろうとしている。


『御子は、真火のわけみたまだ。本体から別れて、人の体に宿る、精神体』


 気を失っているときに、無理矢理聞かされた言葉。日下部が語る、かりやのまおの真実。


 狩谷の人々は、村を救ってくれた娘に、礼を差し出すことにした。娘が、人ではない、鵺の中の真火という生き物だと知ると、彼女の望む物を与えようといった。彼女はそれを断り、村を出ようとした。

『私は追われています。鵺を狩る人々に。私がいれば、あなた達にも迷惑がかかる』

 そういう彼女を、村人は引き留めた。そうして。歳もとらず、不死に近い彼女を村にかくまった。

『あんたがいなければ、このあたりの村は、全滅だった。あんたは我々の恩人だ』

 今度は我々が恩返しをする番だ、と村人達は言った。

 村人は、そこに祠を作った。真火、という名で彼女を祀り、供物として人の精気を差し出した。だが、その所行は人に知られてはならない。だから、人々は成人の儀式に隠れて御子を作った。

 御子を皆で慰み者にする。そんな偽りの伝説を捏造し、年に一度、誰の目を憚ることなく供物を捧げたのだ。

 御子とは、真火の伝説をカモフラージュするためのもの。そして、いつしか肉体を失っていた真火が、食物を摂取するのに必要な媒体。


『だから、御子は人ではない』


 気を失っているときに耳元で囁かれた言葉。遠い昔の、忘れられた話。忘れられた、いや、時の流れの中に封じられた話。

 芳彦は、そっと雪音の遺体に視線を向けた。彼女は、慰み者になるのではなく、人の精気を吸うためにここに籠もったのか。精気を吸われた人物は、悪くすれば命を落とすこともある。付け加える日下部の言葉を聞き流しながら、芳彦は雪音の髪を梳いた。傍らに落ちていた着物を、そっとかぶせる。彼女のうつろな目は、それを始終眺めているような印象を与えた。実際に彼の一連の作業を見ているのは日下部だというのに、不思議と日下部の視線は感じない。

「雪音さんは人じゃないから。だから、あんたは人殺しじゃないってか? 日下部さん」

 振り向かずに問う。背後の気配が僅かに揺れた。日下部は従容とこちらに近づき、雪音の胸から針を引き抜く。

「そうなるな」

「美和子さんと、萌……さんも殺した?」

「ああ」

「二人とも、鵺だから。そういいたいんだろ?」

 芳彦は立ち上がる。日下部の感情を宿さない目が、間近に迫った。

「でも、碓井さんは違う。美和子さんや、めぐみさん、雪音さんは鵺だったとしても。碓井さんは、人間だ。普通の人間だった。そうだろ? それを、あんたは」

 胸倉を掴もうと伸ばした手を払われる。日下部は針の血をふき取り、唇を歪めた。

「碓井――杉戸美和子の婚約者か。あれは運が悪い男だ。そう思って諦めるしかない」

「日下部っ!」

 芳彦の拳は空を切った。日下部は身軽に攻撃を交わし、後方に飛び退く。彼は大仰に肩をすくめ、芳彦に顎をしゃくった。

「そんなこと言ってられるのも今のうちだと思うよ、学生さん」

「……?」

 彼の言葉が終わらぬうちに、芳彦は背後から羽交い締めにされた。背に当たる、やわらかな感触が、その人物が誰であるかを告げている。芳香を漂わせながら首に巻き付いてくる黒髪に、芳彦は知らず悲鳴を上げた。

「雪音さんっ」

 耳元に温かい息がかかる。背中越しに体温が感じられる。雪音は、生きている。先程は、確かに事切れていたというのに。

「ゆ……きね、さん」

 芳彦が分からないのか。それとも、声が聞こえていないのか。雪音の細い指は、彼の首筋を辿り、頬へと上っていく。滑らかなその動きは、芳彦の口元で一度止まった。

「――ゆき……?」

 指が再び動き出す。彼女の親指が芳彦の唇を辿る。それが強引に口をこじ開け、歯を割った。うめき声を上げる前に、彼女の腕が強引に彼の首をねじ曲げ、スッと白い顔が近づく。珊瑚色の唇が、芳彦のそれを求めるように迫ってきた。赤く濡れた舌が、歯の間から零れている。

 蝋燭の炎のなか、恍惚とした表情で身を寄せる雪音。芳彦は高まる劣情を振り払うように、声を上げた。

「やめてくれっ!」

 渾身の力を込めて彼女の体を突き飛ばす。一瞬、雪音はよろめいた。が、腕はまだ絡みついている。腕だけではなく、髪も。芳彦を捉えて離さない。

「ほら、分かったでしょ。学生さん」

 日下部の嘲笑が聞こえる。彼は傍観を続けているのか。

(くそっ)

 日下部に助けてもらうつもりはない。しかし、このままでは。このままでは、雪音に殺される。恐怖と、わきあがる欲望と、双方が芳彦の動きを奪う。もう、先程のような力は出ない。雪音を払う気力もない。芳彦は雪音を見下ろした。甘く潤んだ瞳を伏せて、雪音が唇を重ねる。

 瞬間。芳彦は、彼女の背後に赤い霊光のようなものを見たような気がした。


「!」


 それは、実際ほんの僅かの間の出来事だった。しかし、芳彦にはひどく長い時間に感じられた。

 彼の手の中で、雪音が力を失い、ずるずると頽れていく。その向こうから現れたのは、日下部だった。かれはまた、雪音を殺めたのだ。血塗られた針を舌先で舐め、日下部はしたり顔で呟く。

「これが、鵺なんだよ。殺してもなかなか死なない。一度死んでも生き返る。死んで、二度目に生まれたときは、正真正銘の鵺になる」

 倒れた雪音の体に、彼はまた、針を差し込んだ。彼女の華奢な体が、びくりと跳ねる。

「彼女は、鵺だ。人じゃない」

 何かの宣告のようだった。芳彦は呆然と日下部を見つめる。この男は一体何なのだ。雪音が人でないのなら、この男も人ではないのではないか。そんな思いがこみあげる。芳彦が、無意識に雪音に手を伸ばしたときだった。

「――っ?」

 不意に日下部の体が揺れた。左肩を押さえて、彼は横に飛び退く。鮮血が闇に散った。芳彦は思わず息を呑む。

「幸信さん」

 日下部に傷を負わせた男は、音もなく社の中に入ってきた。自身も同じく鮮血に半身を染めて、幽鬼のごとく覚束ない足取りでこちらに近づいてくる。この身体で、山道を登ってきたのか――芳彦は悪寒を覚えた。

 幸信は、血刀を杖にして、一歩一歩進んでくる。あの血は、日下部の血だ。日下部にも、血が流れているのだ。そんなことをぼんやりと思う。

「きさま」

 日下部が目をつり上げる。幸信はそれを無視して、いな、初めから彼など目に入らないといった体で、妹に歩み寄る。冷たい床の上にうち捨てられた妹の骸を前に、幸信は低く声を漏らした。

「ゆきね」

 その一言に、どれだけの想いが籠っていたのか。彼は、日下部の血に染まった刃を、自身の首筋に押し当てる。

「幸信さん」

 芳彦は叫んだ。叫んだ、つもりだった。

 同時に凄まじい血飛沫が天井まであがった。その中に幸信が倒れ込む。拍子に、彼の腕が燭台に当たり、蝋燭が床に投げ出される。火は、あっという間に彼ら兄妹の体に燃え移った。

「幸信さん、雪音さん」

 伸ばした手に触れたのは、熱のない炎だった。芳彦は大きく眼を見開く。この火は、普通の火ではない。これは、異界の炎。

「かりやの、真火」

 呟きに呼応して、火が燃え上がった。火の粉を巻き上げ、兄妹の体をその中に押し包む。

 やがて、それは天井を焦がし、建物全体に広まっていった。

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