第7話 奇祭
いつのころのことだろうか。
狩谷に野盗どもが現れるようになったのは。彼らは集落を荒らし、食べ物を奪い去り、婦女子を陵辱した。困り果てた村人の前に、やがて救い主が現れる。それは旅の巡礼だった。
『わたくしが、賊を退治しましょう』
巡礼はそう言った。村人は信じられぬ思いで、その人物を見たという。なぜなら、その巡礼はまだ若い娘だったのだ。
『やめなさい。あなたのような人が行けば、彼らの餌食になってしまう』
村人は止めた。しかし、娘は単身盗賊のもとに出向いた。それから何が起こったのか。村人達がおそるおそる盗賊のねぐらにいってみれば、そこには屍の山があった。その中で太刀を手にたたずむ娘は、穏やかな笑みを浮かべ、村人達に告げたという。
『お役目、果たさせていただきました』
その娘の名が、
か弱い娘が如何にして、あらぶる盗賊どもを倒したのか。村人達の問いに、彼女は哀しそうに答える。それだけは聞かないでくれ、と。しかし、相次ぐ問いかけに、彼女は仕方なく口を開いた。
彼女は盗賊一人一人に身を任せ、それから殺していったのだ。
これが、狩谷の成人式に繋がっているという。本当か嘘かは誰も知らない。単なる言い伝えかもしれない。二十歳になった娘が、いけにえとして集落の異性全てと交わることを正当化するために後から造ったものかもしれない。
いつのころからか。狩谷に、そんな伝説が存在するようになっていた。
●
伝説は、必ずしも真実を伝えてはいない。
しかし中には真実も含まれている。
師から聞いた言葉。そして、碓井廣司から聞かされた言葉。芳彦はそれを思いだしていた。先程日下部が語った狩谷の伝承。女御子が狩谷の男全員に身を任せる、その起源となった話。狩谷に表面的に伝えられている話だ、といったそれはかなり悲惨なものだった。少なくとも、芳彦はそう思った。
(本当は、娘は無理矢理村人達に盗賊のもとに追いやられたんじゃないのか?)
それに引け目を感じて、成人の祭の中に罪の証を取り入れたのではないか。彼はそう思っていた。
いにしえの出来事に縛られ、儀式にかこつけて若い娘に情交を迫る。最悪だ、と呟いたのだが。直後、日下部は言った。
――鵺を隠すためだ。そのために、ここのヤツらは、くだらん伝説と儀式もどきを作ったんだ。
鵺。それは一体何なのだ。繰り返し、日下部の言葉に現れるもの。
今また、日下部はその名を口にする。
「鵺のお出ましは、確か正午だったな」
日下部は、そういって時計を見た。芳彦も反射的に時計を見る。十一時五十五分。こく、と息を呑んだ。正午になって、雪音やもう一人の御子が現れたらどうなるのか。脳裏を掠める陰惨なイメージを払拭するように、芳彦はかぶりを振った。
御子は祭りの当日、正午から奥宮に籠もる。正午から、真夜中まで。半日を宮で過ごす。その間に
(……)
芳彦は、知らず拳を固めた。殺戮が終わった宮の中で、なにが行われるのか。それを考えるだけでも胸が悪くなる。
「兄上は、また随分と早いお越しだね。一番槍を目指してるのか? まさかね」
日下部が密やかに笑う。からかうわけでもない。蔑むわけでもない。感情を宿さない、口元だけの笑み。だが、幸信はピクリと肩を揺らした。
「何の目的でいらしたのか、存じませんが」
幸信は、固い言葉を彼に投げかける。
「祭の邪魔は、なさらないで戴きたいですね」
彼は石段に足をかけた。そのまま、ゆっくりと上りはじめる。日下部は、段の中腹で彼の訪れを待っていた。遠ざかる幸信に不安を感じ、芳彦は彼の広い背中に手を伸ばす。幸信さん、と小さく呼びかけた。が、それはあっさりと無視される。幸信の眼中にあるのは、日下部晴樹、唯一人。幸信は日下部を威圧するように、まっすぐ彼を見上げている。
「邪魔? 邪魔なんてしないさ。俺は祭には興味はないんでね」
日下部が唇の端をつり上げる。先程の軽い業界人の顔とは、打って変わった陰険な表情である。これが同じ人物なのだろうか。芳彦は目を疑った。
「では、目的は?」
幸信と、日下部の距離が縮まる。
「決まってるでしょ」
日下部の手が微かに動いた。
「鵺だよ、鵺!」
ヒュッ、と空気が音を立てた。何かが冷気を切り裂き、幸信に向かって放たれる。同時に幸信も身を屈めた。懐に差し込んだ手を素早く動かし、日下部に飛びかかる。
「幸信さん!」
彼が振りかざしたのは、短刀だった。よく、時代劇で見るような小振りの護身刀である。幸信は迷わず日下部に斬りかかった。だが、日下部は動じない。軽く彼の攻撃を受け流し、手刀で短刀をたたき落とす。バランスを崩した幸信は、その場に膝をついた。雪に埋もれた彼の指先に、短刀が音もなく突き刺さる。
「危ないねえ。素人がこんなもの使うんじゃないよ」
日下部が、短刀を蹴り上げ、それを器用に受け取った。そのまま、手の中で弄ぶ。幸信は険しい眼差しで日下部を見上げた。
「剣道とかねえ、そういう武術は、実戦では何の役にも立たないの。わかった? お兄ちゃん」
言って、彼は幸信の手を踏みつけた。芳彦は、たまらず階段を駆け上がる。それを横目で見やり、日下部はまた、陰険な笑みを浮かべた。
「勇ましい坊やがやってくるよ。ばかだね、ホントに」
くくっ、と彼の喉が鳴る。次の瞬間、芳彦は信じられないものを見た。
日下部が、幸信を斬りつけたのだ。幸信は、弾みでもんどり打ちながら、石段を転げ落ちてくる。それも、芳彦に向かって。
「……!」
逃げ場はなかった。いや、あったとしても。避ければ、幸信が危ない。かといって、避けなければ二人とも下まで真っ逆様だ。この急斜面、雪があるからまだましなようなもの。まともに落ちれば命はない。雪があっても、さすがにこれは。
「幸信さん」
悲鳴に近い声を上げた。自分でも情けないと思う。なんでこんな、女々しいことを考えるのか。芳彦はその場に立ちつくした。幸信の体を受け止めるべく、体勢を整える。転倒しても、なるべく衝撃が無いように。中学の時、授業で覚えた俄か柔術を思い出し、彼は全身に力を込めた。と。
「結構、かっこいいじゃん」
「う……わ……?」
間近に迫ったのは、日下部の顔だった。幸信ではない。芳彦はあまりのことにそれ以上、声を上げることは出来なかった。日下部は芳彦の前に佇み、微笑を浮かべている。しかも、彼の腕には幸信がいた。青ざめ、唇の端から糸のような血をこぼしている。意識が朦朧としているのだろう、ぼんやりとした視線が、虚空を彷徨う。
まさか、あの位置から幸信を受け止めに来たというのか。全ては一瞬のうちの出来事だというのか。それとも、悪い夢でも見たのか。
「後悔するよ、って言ったじゃない。学生さん。関わらない方がいいって。でも、関わったからには、最後までつきあってもらわないとね」
「日下部……さん?」
「鵺のお話、聞きたいだろう?」
立ちつくす芳彦の耳に、日下部が囁く。熱い吐息が首筋にかかった。
「教えてあげる。いい子にしていたらね」
日下部の顔が近づいた。棗型の大きな目に、芳彦の姿が映っている。その中の、己の目を見つめたとき。ふっと意識が遠のいた。
(なんだ……?)
失神。眠りにおちるのとも違う。芳彦は糸の切れた人形の如く、がくりと前にのめった。
●
雪が降り始めた。奥宮に一人座す雪音は、そっと、格子越しに外を見た。小豆色の空の向こう、集落のあたりに明かりが灯っている。あれはおそらく里宮のあたり。里宮の成人式が行われているのだろう。里宮の、当たり前の成人式が。
『成人式って、晴れ着来て、市役所いって偉いさんのお話聞くだけのお祭りなんだって』
街に出た年長者から聞いたことがある。それだけで済むのか。それだけで大人の仲間入りをしたことになるのか。ただ、それだけで? それでは儀式ですらないではないか。学校の入学式と何らかわりがない。成人とは、子供として死んで、大人として生まれ変わる。それを通過儀礼の一つとして体現するのではないか。しかも、その年最初の満月の晩。月明かりのもとで。現在は、新暦の一月十五日となっていて、その意味も薄れてしまっている。が、儀式は儀式として、何らかの意味があるのだ。それは大切に守らねばならないと思う。
『雪音は古いね』
そう言われても、大切だと思う心くらいは残しておきたい。それがいけないというのなら。祭り自体意味はなくなる。
(もしかしたら、私が最後の御子かもしれない)
ふっとそんな予感がした。それならばそれでいいのかもしれない。形骸化した祭りを残しておくのなら、いっそのこと、根底から崩してしまった方がいい。
窓から離れ、彼女は部屋の中央に端座した。一つだけ燈された蝋燭が、彼女の動きに合わせて瞬いている。やわらかな光。それを見つめ、彼女は表情を崩した。出来ることなら、ここに最初に訪れるのは、兄であってほしい。兄が自分を殺めてくれれば、全てが終わるような気がする。傍らに置いた太刀に指を触れ、彼女は溜息をついた。
その背後で、社の扉が開かれる。来るものが来た、と、彼女は居住まいを正した。正座のまま、入口に向き直る。そこにいたのは、兄ではなかった。細身の、長身の青年。狩谷の若者らしからぬ、あか抜けした容貌。兄がカメラマン風の青年、と呼んだ綾織堂の客である。確か、日下部といったか。
「お兄さんじゃなくて、残念だったね」
乾いた声が投げられる。雪音は太刀から手を離した。代わりに帯に手をかける。そのまま、文庫に結んでいたそれを、勢いよく外した。しゅる、という布のこすれ合う音がし、赤い帯が床に落ちる。白装束の胸元に手をかけ、雪音はそっと立ち上がった。
「いにしえのしきたりに従いて、か」
日下部が呟く。
「知っているんだろう、あんたも。この祭りの意味が、何なのかを」
彼は雪音の着物に手をかけ、それを滑り落とした。燭台の淡い明かりに、彼女の肌が浮かび上がる。それには目もくれず、日下部は、雪音の髪を愛撫した。指で滑らかな黒髪を梳きつつ、そっと、その体を抱きしめる。
甘い香りが、あたりに満ちた。
ふわ、と雪音の髪が舞い上がる。それは日下部を包むように、彼の体に絡みついてきた。雪音の双眸が、歓喜に潤む。彼女は日下部の唇を求めて顔を近づけた。それを寸前で押さえ、日下部は頬を歪める。
「やっぱり。知っていたんだな、雪音ちゃん」
「……」
日下部はすっと手を動かした。蝋燭の炎を映して、銀の針が赤く染まる。それを振りかぶり、彼は笑った。
「いけにえにされるのは、本当は、男の方だってことを」
その答えを聞く前に。
針は雪音の心臓を貫いていた。
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