第6話 魂運
芳彦は暫し我を忘れていた。どこをどうしてここに辿り着いたのか、よく覚えていない。呆然と、――ただ呆然と足を動かし、歩を進め、戻ってきたのは綾織堂であった。彼は人気のない玄関に佇み、ためらったのちに扉を開ける。重苦しい音がして、引き戸が滑った。
雪音は、ここにいるのだろうか。ふと、彼女のことを考えた。
芳彦がもし、今晩の怪異を見るとしたら。それはとりもなおさず雪音が殺し合いをする場面である。それだけではない。もし、彼女が生き残ったとしたら。殺人者としての雪音を見ることになる。更に、多くの男達に陵辱される雪音を見ることになる。
『狩谷にいる男達全員と、情を交わす』
日下部の言葉が、反響を伴って耳の奥で繰り返される。狩谷にいる男全員。雪音の父も、兄の幸信も。雪音と交わるのだ。あの雪音が。幸信と。幸信の冷ややかな眼差しが、異常な熱を帯びて妹を見つめるのだ。
「……!」
その光景がやけにリアルに浮かんでくる。
『狩谷にいる男全員、と言うことは、だ。俺も入るし、あんたもそうなんだよ、学生さん』
日下部のその台詞を聞いたあとだった。意識がなくなったのは。頭の中が真っ白になる、というのはこういう状態のことかもしれない。
もちろん、榊井雪音が生き残るとは限らない。もう一人の御子、藤本萌が雪音を殺し、”贄”となるのかもしれない。萌は雪音同様に、おのれの運命を受け入れているのだろうか。美和子のように逃亡をしようとは思わないのか。
そして。
「碓井さんは、自殺なのか」
婚約者と心中したのか。
芳彦は唇を噛みしめた。無意識のうちに上がりかまちにかけられた足が止まってしまっている。時の流れすら、彼の周りに淀んでいるようだ。
「武田さん」
不意に声をかけられ、芳彦は顔を上げた。そこに、幸信が立っている。白い着物に浅葱の袴。神職のような姿である。彼は相変わらず冷ややかな目で芳彦を見下ろした。いな、切れ長の目は、彼を見ていない。彼の名を呼んではいるものの、幸信の視線は芳彦を捉えてはいない。
短い沈黙のあと、先に口を切ったのは芳彦の方だった。
「雪音さんは、もうお出かけですか?」
宿泊客の口から妹の名がでたせつな、幸信の表情が変わった。瞳に感情の色が現れる。苛立ちに近いそれは、今度は正面から芳彦に向けられた。
「関係ないでしょう」
そんなことを言われたような気がする。芳彦は彼の脇をすり抜け、部屋へと戻った。
雪音は、もう家を出たのだ。芳彦とすれ違いで、奥宮に向かったに違いない。
彼は部屋で荷物の整理を始めた。雪音の面影が、脳裏を掠める。逢わなくて、正解だったのかもしれない。逢えば、きっと同情的な顔をしてしまう。それは、雪音に対する最大の侮辱だろう。
彼が荷物を持って帳場に行くと、そこには幸信が端座していた。彼は切れ長の目を芳彦に向け、
「お帰りですか」
まるでそれを予測していたかのように、あっさりと精算を始める。芳彦は代金を支払い、型どおりの挨拶を受けながら玄関に向かう。幸信はそのあとから従った。彼の、狩谷の空気にも似た冷ややかな視線が背に突き刺さる。芳彦は廊下を歩くあいだ、決して幸信を振り返ろうとはしなかった。振り返れば、何か取り返しのつかないことを言いそうだった。
(妹を見殺しにするのか)
いくら土地の風習とはいえ。
芳彦は、古い因習のままに生きている狩谷本郷の人々に嫌悪感を覚えた。土地には土地の、家には家の伝統というもにが確かに存在する。理性では分かっているつもりだった。けれども。
「奥宮の怪異は、ご覧になられないのですか」
幸信の問いに、芳彦は足を止めた。なぜ、彼は今こんなことを尋ねるのだろう。
「祭が行われるのは、夜です。今帰られたら、怪異はご覧になれませんよ」
幸信さん、と芳彦は咎めるような声を上げた。幸信は、驚いたように軽く双眸を開いた。それだけ芳彦の声に棘があったのだろう。
「幸信さん、雪音さんが心配じゃないんですか? 今日の祭りは、雪音さんが」
「……」
「実の妹が殺されるかもしれないっていうのに。よく、平気でいられますね」
芳彦は幸信を睨み付けた。幸信は僅かに眉をひそめ、その視線を受け止める。
「武田さん、どこでそれを聞きました? 雪音が、そんなことを?」
芳彦は、かぶりを振った。
雪音ではない。雪音が言うはずがない。幸信の目はそういっている。彼は、芳彦に無言の強要をしていた。芳彦に狩谷の成人式について語った者の名を、聞きだそうとしているのだ。
「日下部さん。日下部晴樹さんです」
「くさかべ、はるき?」
幸信は半眼を閉じる。その名を思い出しているのだろう。
「ここに泊まっていたひとです。あの、カメラマン風の」
「!」
彼は弾かれたように目を見開く。その反応に、芳彦のほうが戸惑った。
「まさか。なんで、彼が」
唇の上で、幸信の呟きは消えた。彼は悪夢でも見たように、苦しげに喉元を押さえる。一体何が起こったというのか。芳彦は訝しげに彼の名を呼んだ。
「幸信さん?」
●
あの日も雪が降っていた。
雪のなか、贄となるべき御子とその婚約者は、忌まわしき土地を逃れようと必死に山を越えていた。狩谷から列車で出ようとすれば、必ず駅員に見つかる。見つかれば、連れ戻されてしまう。だから、狩谷の人々の目に触れぬ、この奥宮伝いの山から逃げれば分からない。そう考えての行動だったのだろう。
それは彼にとっては、都合が良かった。
人目に付かず、御子を始末する。これほど最適な場所はない。
『何で、こんなことを』
鮮血に染まり、それでも許嫁を庇いながらその男は叫んだ。
罪悪感はなかった。
二人の死体をこれ見よがしに木に打ち付け、彼はその場を去った。
その、一週間後。やはり儀式を嫌って狩谷を抜け出すべく、もう一人の御子が現れた。藤本萌――彼は、その女性ともこの場所で逢った。そして。
御子は一人になった。綾織堂の榊井雪音。彼女だけが残っている。殺戮の儀式は起こらない。”贄”は雪音に決まったのだ。そう、少なくとも今の時点では。
●
「萌が来ないな」
宮司の八代は、ひとりごちた。
里宮の社殿。そこに、禊を終えた雪音が居る。彼女は白い着物に赤い帯、そこに短刀を帯びた姿で現れた。当然現れるべきもう一人の御子がいない。自宅に電話をしたら、もう彼女の姿は無いという。
「じきに来ると思います」
雪音が声をかけると、八代は苦い顔をした。
最近は、儀式を拒んで逃亡する御子が増えている。以前は皆、決まりだからと素直に従ったというのに。これも、よその土地との接点が大きくなったためだろうか。
杉戸美和子は、県外の短大に通っていた。藤本萌は、新潟で就職していた。二人とも、外の世界を知っている。三人の御子の中で狩谷の外を知らないのは、雪音だけであった。だからかもしれない。雪音が、おのれの運命を素直に受け入れようとするのは。他の二人は外界を知り、この祭を異常だと思うようになったのだろう。
萌は、多分来ない。
八代は確信していた。萌も美和子同様、儀式を前に逃げ出したのだろう。”ひと”でなくなる恐ろしさに耐えかねて。
「怖くないのか?」
八代は雪音に問いかける。
「おまえも、儀式の内容を知っているだろう。怖くはないのか? 逃げたいとは思わないのか?」
「怖くないと言えば嘘になります」
雪音は静かに答える。
ひとでなくなるかもしれない。その恐怖は心の何処かにある。土地の全ての異性を受け入れなければならないことも、恐怖の対象であった。だからといって、運命に抗う気は起こらない。狩谷に生まれたのだから。御子として生を受けたのだから。せめて役目を全うしたい。その気持ちのほうが強かった。故に彼女は、兄と契った。激しく求める兄を受け入れた。
愛する人との想い出を、しっかりと刻み込んで。何も思い残すことはないように。
雪音は己の肩を抱いた。まだ、そこに兄のぬくもりが残っているような気がする。
「昼までに萌が来なければ、おまえが一人で奥宮に入ることになる」
「はい」
「どういうことか、分かっているな」
「はい」
「
八代の言葉に、雪音は頷いた。”たまはこび”。御子に与えられた大切な役目。これを果たすために、御子は己の半身を殺戮する。完全な姿となって、本物の御子となる。
●
「幸信さん! 幸信さん!」
芳彦の声も、彼の耳には入っていないようであった。幸信は、神職の
「幸信さん、どうしたんですか。いったい、なにが」
問いつつ後を追いかける芳彦の声は、掠れていた。冷え切った空気が喉の奥に入り込み、息が苦しい。芳彦は時折足を止めて、傍らの木に手をかけ体を休めた。そうでもしなければ、前に進むことなどできはしない。雪道を歩くことは、都会で暮らしてきた彼には、至難の業である。
漸く芳彦が幸信に追いついたのは、奥宮の石段にさしかかったときであった。
鳥居に向けてまっすぐに伸びる階段を見上げる幸信の、後ろ姿に声をかける。
「幸信さん」
彼は、ゆっくりと振り返った。そうして初めて、そこに芳彦がいたことに気づいたようだった。幸信は、膝に手を当てて荒く息をつく芳彦を不思議そうに見つめる。
「武田さん、いついらしたんですか」
幸信が綾織堂を飛び出してからずっと、後を追ってきた。そう答えると、幸信は呆れたように肩を落とした。
「来る必要はなかったのに。あなたが来ても、仕方がなかったのに」
「幸信さん?」
「来なければよかった、と後悔することになりますよ」
言って、幸信は身を翻した。彼の背中は、芳彦を拒絶している。それ以上の彼の追跡を歓迎してはいなかった。芳彦は、それでも一歩を踏み出す。
「幸信さん、真火ってなんですか?
幸信の歩みが止まった。
「雪音さんが、死なないって。鵺だから死なないって、どういうことなんですか?」
幸信は答えない。代わりに別の声が、二人の上に注がれた。
「狩谷本郷に、ひとではない生き物が混じっているっていうことさ。何食わぬ顔をしてね」
「!」
二人は一斉に石段を見上げる。
いつの間に現れたのか。そこには一人の青年が立っていた。機材を入れる大きめの袋を抱えた、カメラマン風の青年。
「日下部さん」
芳彦の呟きは、風に砕けて散った。
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