第5話 前禊

 里宮の裏手に、その泉はあった。伝説では、日照りが続いたときにここから龍が現れ、雨を降らせてくれたという。昇竜泉と呼ばれる泉は、狩谷の観光名所の一つとなっていて、この街を訪れる観光客は必ずここに足を運ぶ。しかし今日は、そこに人の姿は無かった。降り積もる雪に、阻まれて来られないのか。それとも他に理由があるのか。

 聖域に落ちるのは、屋根からこぼれる雪の音のみ。

 雪の音――その名を持つ娘が現れるまで、泉は静寂に包まれていた。


 そう。雪を踏み分ける音とともに現れたのは、雪音だった。薄紅の着物に、紅梅の帯。長い黒髪はきちんと束ねている。手にした包みを傍らの岩に乗せ、彼女は徐に帯を解いた。はらり、と着物が足元に落ちる。桃色の襦袢も、彼女は肩からすべり落とした。寒さのためか、いっそう白くなった肌を惜しげもなくさらし、彼女はためらいもせず、泉に身を沈める。

「――っ」

 全身を痛みが襲った。痛み。寒さを通り越して、痛みを感じる。心臓が、きゅんと跳ね上がった。雪音は息を詰め、低く呟く。

「帰ってきました」

 囁きに似たそれは、白い息とともに静寂の中に吸い込まれる。彼女はおのれの肩を抱きしめたまま、立ち上がった。白磁の肌から、冷水が滴る。それを包みの中にあった布で拭き取り、用意されていた衣服に着替える。

 下着は一切身につけない。白い着物。正絹の、まだだれも袖を通していない着物をまとい、彼女は赤い帯を締めた。深紅の、模様一つ付いていない帯の間に、神社より得た短刀を挟む。これで支度は終わりだった。


 あとは、儀式を迎えるだけ。


 雪音は”俗”を表す今まで着ていた着物を、包みの中にしまう。これは、もう二度と着ることはない。もう二度と人に戻ることはない。なぜなら彼女は、御子だから。真火の御子として生まれてきたのだから。人ではない。人には戻れない。一度死ねば、もう、人ではない。同輩のように大人にはなれない。


 ――それでいいのか、雪音。


 兄の言葉が耳に甦る。普段は冷静な兄が、あれほど取り乱すとは思っても見なかった。彼の気持ちは判っていたはずであったが。それでも。

「にいさん」

 雪音は、兄のぬくもりを思い出していた。兄の鼓動、兄の声、兄の肌。全てを忘れずにいたいのに。



『雪音』

 おやすみなさい、と部屋を出ようとしたときだった。兄が不意に抱きしめてきたのは。

 二十年、ともに暮らしてきたはずなのに、兄の腕がこれほど力強いと知ったのは、このときが初めてだった。衣服を通して伝わる、兄の鼓動。不規則に脈打つそれに、彼女は兄の情熱を知った。髪にかかる息に、想いの強さを知った。半ば強引に向き直らせようとする掌に、兄ではない、男を意識した。

『雪音』

 口数が多い方ではない。雪国の人間らしく、無口な男だった。だから。今も必要以上の言葉は語れないのかもしれない。

『にいさん』

 雪音は困ったように視線を揺らした。

『ありがとう。わたし』

 言いかけた言葉は、口づけに消された。幸信は激しく彼女の唇を貪りながら、乱暴にその帯を解いた。暗がりに、衣擦れの音がする。雪音は冷たい畳の上に倒された。割られた裾に、兄の手が忍び込む。

 いけないことだと理性は否定した。しかし。感情は。感情は、兄を受け入れていた。

『誰にも、渡さない』

 兄の囁きだけが熱かった。空気はどこまでも冷たく、闇は乾いていた。


 ゆきのぶ、と。一度だけ兄を名で呼んだ。それが兄の耳に届いたかどうか。



 祭りの前禊ぎを終えた雪音は、静かに社殿に向けて歩き出した。全ての想いを、泉に沈めて。



 宿に滞在していた中年夫婦は、早々に観光に出かけていった。自称フリーのカメラマンである日下部という青年も、早朝にここを引き払った。民俗学を専攻している、という大学生は部屋に荷物を残したまま

「奥宮を見に行ってきます」

 言い残して出かけていった。そうして。両親は祭の準備で里宮に降りた。

 残っているのは、彼一人。

 幸信は、おのれの部屋で一人、瞑目していた。

(雪音)

 妹は、祭のために出かけていった。なぜ、出してしまったのだろう。後悔が胸を過ぎる。なぜ、ともに逃げなかったのだ。彼女を他の男に渡すくらいなら、いっそこの手で、とは幾度考えた妄想だろう。そう、あの杉戸美和子の婚約者のように。許嫁を他の男に奪われる前に、ともにこの街を出ていこうとしなかったのはなぜなのか。


 ――おまえも、同じ気持ちなんだろう?


 叫んだ男の言葉が胸に痛い。そうだと答えたかった。しかし、それを否定した。否定しようとした、自分が居た。


 かつて。御子を愛した男達はみな、愛する人を守るため共に狩谷を逃げ出した。

 逃げ出して、それでどうなるものでもない。彼らの末路を知る者はいない。

 逃げぬものは、心中した。里宮で、奥宮で。抗議の意味を込めてか、社殿を血で汚した。

 御子の血と、その想い人の血で。

 幸信も、その一人となるはずだった。その一人になろうとしていた。雪音を他の男に奪われるのなら、いっそ。妹を抱いて、そのまま、ともに命を断とうと思っていた。あのときまでは。


 幸信は、ふと顔をあげた。雪音の声が、聞こえたような気がする。

「ゆきのぶ」

 そう、彼を呼ぶ妹の声が。

「雪音」

 彼は立ち上がった。天袋を開け、そこから細長い包みを取り出す。桐の箱に収められていたのは、昨夜一人見つめていた太刀であった。あのときのように刀身を鞘走らせ、その輝きに己の姿を映す。

「……」

 欲望に曇る、醜い男の顔が其処に在った。彼は現実から目を背けるために、また、身に纏わりつく欲望を断ち切るために。音を立てて抜き身を鞘にを収めた。



 芳彦は、日下部の横顔を見つめていた。

 淡々と語る彼の顔に表情はない。先程見せた鋭い光も、苦いものを飲み下したような唇の動きも。全ては冷たい仮面の下に隠されてしまっている。

 ぽたり、と一つ滴が落ちた。その音すらも、日下部の耳には入っていないのかもしれない。

「成人の儀は」

 日下部が語り始めた、狩谷独特の成人式。その特異性は、御子の存在にあった。

「御子として生まれなかった子供達は、”子供として死に、大人として甦る”、その疑似体験をするだけだ」

 彼らは里宮の裏にある昇竜の泉で禊ぎを行う。そのあと火をくぐり、再生の宴に参加するだけだった。これは日本各地に残る風習とさして変わるところはない。いにしえの風習では、わざと子供の首を絞め、意識を失わせたのち息を吹き返らせることもあるという。碓井廣司から得た知識を思い出し、芳彦は頷いた。

「でも、御子は違う。御子は本当に一度死ぬ」

 まさか、と芳彦は声を上げた。これにも、日下部は無表情に答える。

「成人を迎えた御子を、殺す。正確には、御子同士で殺し合う。最終的に一人だけ生き残るように。いや、最終的に、女性だけが一人生き残るように」

「女性だけ?」

 日下部はいう。御子が全て男性の場合は、御子同士の殺し合いのすえ、生き残った者は形式的なにえとして奉納される。それだけで、彼は助かる。しかし、御子が女性の場合は。一人だけ、”つよいみたま”を持つ者として真の御子となる。彼女は豊穣の証として、大地の化身となり、翌年の豊作を祈願するための”贄”とされる。女性の場合の”贄”は、

 ここで、日下部は言葉を切った。彼らしくなく、一つ息をついて。

「狩谷の全ての男と交わる。それが役目だ」

 古い風習だと思った。そんなことが現代に行われているとは。だから、雪音はあのとき声を荒げたのか。

 狂乱の殺し合いのすえ生き残ったものに待つのは、屈辱。生きるも死ぬも地獄。

 女性にとっては耐え難い苦痛であろう。それを知っていれば、逃げ出したくもなる。

(だから、碓井さんは)

 婚約者を連れて逃げた。愛しい人を獣から守るために。

 芳彦の手が震える。そんなものを調べるためにここまで来てしまったのか。知らないほうが良かった。後悔の念がわき上がる。そんな彼の気持ちを見透かしたのか、日下部が肩に手をかけた。

「殺された御子は、どうなると思う?」

「どう思う? そんな」

 決まっている、と言おうとして。日下部が更に恐ろしいことを言おうとしているのに気づいた。彼の皮肉げに歪んだ口元が、真実を告げないうちに。この場を離れなくては。芳彦は反射的に腰を浮かせた。今ならまだ間に合う。知らなくてもすむ。が、日下部は強引に芳彦を引き寄せた。額が触れるほど近く顔を寄せて。

「生き返るんだよ。何事もなかったように」

 くく、と日下部の喉が鳴った。芳彦は全身の血が引いていく音を聞いた。彼は今、なんと言った?

「殺された御子は、生き返る。御子だからな。人じゃないんだからな。そう、やつらは」


 ひとこと。日下部は耳慣れぬ言葉を呟いた。


「そうして、里の祭に入って、子供を身ごもる。産まれた子供は、また、御子になる」

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