第3話 前夜

 灯りを控えた薄暗い部屋――その中央に、幸信は端然と座していた。彼の傍らに揺らめく蝋燭の炎がある。やわらかな橙の光が、端正な横顔に影を落とす。彼は傍らに立て掛けてあった包みを引き寄せた。紐の端を歯で押さえ、しゅるりと結び目を解く。布が落ち、中から一振りの太刀が現れた。幸信は静かにその鞘を抜き放つ。

 抜き身に炎が映え、彼の視線はそこに釘付けになる。唇が、僅かに震えた。その瞳に宿るのは、怒りか悲しみか。数多の感情が炎に揺れる。

「……」

 彼は何かを断ち切るように、乱暴に刀を収めた。と、それを待っていたかのように襖の向こうから彼を呼ぶ声がする。

「兄さん」

 雪音である。

 音もなく襖を開き部屋に入った妹に、幸信は用向きを尋ねる。彼女は幸信の前に膝を揃えて座ったものの、暫く口を開くのを躊躇っているようであった。無理もない、幸信は微かに唇の端を上げる。当事者である雪音の方が、自身よりも余程気が高ぶっているであろう。明日に祭りを控えて、冷静であるほうが寧ろおかしい。

 最後の挨拶でもするつもりだったのか。それとも、別の言葉を伝えようとしているのか。

「早く休んだ方がいい」

 出来るだけ落ち着いた声で妹に語りかけ、彼は太刀を手に立ち上がった。

「夜が、明けなければよいのに」

 雪音の独白に、幸信は眉を引き絞る。

 夜が明ければ、人ではなくなる。そう思うからこそ、眠りたくない。妹の内なる声を聞いた気がして、彼は足を止める。できれば、今宵一晩、妹と語り明かしたい。不安に揺れる彼女の心を慰めてやりたい。けれども、それがどれほど虚しいことであるのか。知りすぎるほど知っているだけに、かける言葉が見つからなかった。

 暫し見詰め合ったのち、幸信は呟く。

「今年の成人は、七人だったな」

 雪音は静かに頷いた。

 七人の成人、うち、”わけみたまの御子”は、三人。彼女もその中に含まれている。しかし、そのうちの一人、杉戸美和子は殺された。残るは二人。彼女ともう一人。

「今年は、御子が全て女子か」

 そんな年は、あまりない。大抵、御子は一人か二人。二人の場合は、男女それぞれ一人ずつであった。少なくとも幸信の知る”闇会合やみえごう”では、三人の乙女が揃うのを見たことがない。そして、御子が全て女子であった年は。

 彼は顔をしかめた。いい年ではない。少なくとも、良いことが起こった試しがない。文献をひもとけば解ることだが、必ず変事が起きる。現に、美和子が変死を遂げたではないか。

 そんな兄の不安を雪音は察していた。彼女は微かな笑みを浮かべ、やわらかく兄の手を包み込む。

「大丈夫。私は御子の役目を果たします」

 微笑みに、幸信はいっそう血の凍る思いがした。この二十年、彼女がどれだけ辛い思いをしてきたか、それを考えると、胸が痛くなる。わけみたまの子に生まれたものの宿命。そんなものを背負って、彼女はさぞ苦しかっただろう。それを表に出さないところがまた、痛々しいと思う。

 普通の子供に生まれていれば。

 そんな願いは虚しいものだった。

 ”わけみたま”でなくとも、彼女の存在は、遠すぎる。

 雪音、と彼は小さく妹を呼んだ。彼女は”わけみたま”の成人の儀を、よく知らないのではないか。知らないから役目を果たすなどと言い切れるのではないか――幸信は思う。人ではなくなる、そのことの正確な意味も、恐らく知らぬに違いない。

「雪音」

 言いかけた兄の心中を悟ったのか、雪音はそっとかぶりを振った。

「知っています。全部、知っています。明日、何をしなければいけないのかも」

「雪音」

 幸信は言葉を詰まらせた。できればこのまま、彼女を連れて狩谷を逃げ出したい衝動に駆られる。

(狩谷を?)

 彼はふと、杉戸美和子を思いだした。

 彼女は、恋人とともに殺された。恋人、とはいえ、親の決めた許嫁である。それでも二人は仲むつまじかった。婚礼の日を心から待ちわびていた。

 もし。美和子もおのれのすべきことを知っていたとしたら。

 それを、許嫁にも話していたとしたら。

 彼女らはおそらく今の幸信と同じことを考えたに違いない。彼女たちは二人して、狩谷を離れようとしていたのだ。だから、あそこにいた。駅からではなく、人目に付かない山から逃げようとしたのだ。

 そう考えると、彼女らが哀れでならない。そう、どうしようもなく哀れだ。あの、若い恋人達は。

 幸信は目を閉じた。脳裏を、二人の姿が掠めて消えた。

「兄さん」

 そんな兄に、今度は雪音が呼びかける。幸信は彼女に視線を向けた。

「秋草の間のお客様のことだけど」

 秋草の間の客。カメラを持ち歩いている客のことだ。フリーのライター、などと言っているが、本当のところはどうなのか解らない。どこか浮き世離れしているところは、そちら方面の人々とも共通するものがあるが。確か、祭りの模様を取材させて欲しいと言ってきた。民俗学系統の雑誌に投稿するのだそうだが、なにかがおかしい。それならば、桔梗の間の客・武田芳彦のほうが、よほど信憑性がある。


「卒論の研究に、狩谷の隠し講を書きたいのですが」


 そんな電話が入ったのは、今年の初めだった。ちょうど、フリーライターを名乗る青年からの予約が入った頃である。

 彼らに繋がりはあるのだろうか。

「私、やっぱり祭りのせいで気が立っているのかしら。気になることがあるの」

 妹の言葉に、幸信は僅かに眉を寄せた。



 芳彦は、寝床から身を乗り出し、スタンドを引き寄せる。その僅かな明かりの下で、よれたノートを広げた。そこには几帳面な字で、ぎっしりとメモが書き込まれている。彼は何度も読み返したそれに、今一度目を通す。

 碓井廣司うすいこうじ。それがこのノートの持ち主である。二年前、芳彦が入学したときに大学院生だった青年の持ち物だった。


 ――暇だったら、手伝わないか?


 一年生の折、気まぐれに専攻した民俗学。碓井はその担当教授の助手をしていた。どういうわけか、彼は芳彦を気に入ったらしく、授業以外でも顔を合わせるたびにあれやこれやと用事を言いつけるようになってきて。しまいには、関係者でもないのにフィールドワークにまで同行させられた。たまたま下宿先が同じアパートだったから、という理由も大きかったのかもしれない。

 初めは興味半分惰性半分で碓井の後に付いて歩いていた芳彦も、徐々にその不可思議な世界にのめり込んでいった。各地に伝わる伝承、民話、伝説。それらの裏付けを取る作業は非常に面白かった。一過性である支配者の歴史よりも、繰り返し波のように訪れる基層文化の魅力に取りつかれたと言ってもよいのかもしれない。

 いつしか芳彦は、碓井に倣って自称民俗学者を名乗っていた。


 ――院に進むなら、援護射撃するからな。


 そう言って笑った、碓井の顔が忘れられない。彼は芳彦にとって兄のようでもあり、師であり、目標でもあった。

「これで卒論か」

 芳彦は苦笑する。


 ――狩谷、って知ってるか?


 そこが故郷だ、と碓井は言った。去年の、夏ごろのことだったろうか。

 尤も、彼の実家は狩谷市の隣街である栃沢なのだが。彼は狩谷の祭に面白いものがある、と芳彦に言った。暗闇祭にも似た、成人の祭。民俗学を専攻するものは皆、興味を持つという。

 しかし、基本的に”余所者”は敬遠される。閉鎖的な地方なので、部外者が神聖な儀式を汚すことを許さないのだそうだ。


 ――それは表向きの話なんだけど。


 碓井は気まずそうに理由を語る。祭りのさなか、禁断の交わりが繰り広げられるのだ。闇の中で、若い男女がお互いを知らずに交じり合う。若者だけではない。老若男女全て。狩谷本郷にいるものは皆、関係を持つという。当然、その契りで産まれる子供もいるわけで、そんな子供は”わけみたま”といって普通の子供とは分けて考えられるのだ。その子供達が、成人を迎えると。

 そこで彼は話を切った。芳彦が続きを促しても、「俺もよく知らないんだ」といって適当に言葉を濁す。

 碓井が帰郷したのは、それからすぐのことだった。

 彼には故郷に親の決めた許嫁がおり、彼女との仮祝言があったという。秋になり、碓井は帰京したが、そのころから態度がおかしかった。常にそわそわしていて、落ち着きがない。大学も休みがちになり、教授も彼を心配していた。あれだけ真面目だった人物がなぜ、と嘆く愚痴の相手は、芳彦だったのだが。

 碓井は今年の初め、栃沢に戻った。戻って、そうして。

 杉戸美和子とともに殺された。

 彼女が彼の許嫁だと知ったのは、奇しくも新聞からだった。

 碓井には止められたがどうしても闇会合を見てみたくて、あらかじめ狩谷に宿を予約していたことが役立った、――それは偶然ではないのかもしれない。碓井が残したこのノートには、狩谷については一言も書かれてはいないが。

 彼はなぜ殺されたのだろう。

「わからないな」

 ひとりごち、彼はごろりと仰向けに寝転がる。明かりを消し、濃い闇の向こうにある天井を見つめるようにして、芳彦は深い溜息をついた。


 障子越しに彼の気配を伺っていた影は、明かりが消え、芳彦の寝息が聞こえ始めると。音もなく、その場を離れていった。

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